鬼夜6

 「ぐぁ?」

 緊迫した表情の蔵六たちの前で、死鬼の眼は造六たちの背後にある廊下の奥を見た。


 スッスッ……と着物の裾がすれ合う音がした。死んだような静寂に包まれた真っ暗な廊下を誰かがこちらに歩いてくる。


 宿の者が様子を見に出て来てしまったのであろうか。ダメだ、今出て来てはいけない! 叫びそうになる穂乃の口を造六の厚い手がふさいだ。


 その気配に向かって死鬼が走った。

 ドドドド……! 凄まじい振動が宿の床を揺らす。


 造六と穂乃がいることに気づくこともなく、死鬼は廊下の奥に向かって走った。その片腕の手には刃物のような爪が鋭く伸びている。まるで五本の指の全てが小刀のようである。


 ギャオオオオオ!

 真っ暗な闇の中で死鬼がひときわ大きく吠えた。


 「……」

 やがて静寂が訪れた。

 何の物音もしない。

 「どうしたのでしょうか?」

 穂乃は小声でささやいた。

 「気配が消えた? いや違う、後ろか!」

 身じろぎもできずに固まっていた造六と穂乃がその気配に同時に振り返った。


 そこにニタリと笑う死鬼が立っていた。


 「しまった! 気づかれた!」

 造六は穂乃を庇った。目が合ってしまったのだ。こちらが認識すれば向こうも認識する、この結界の弱点だ。ここにいることがバレたか!


 「穂乃殿、武器を拝借!」

 造六は穂乃の木杖を手に取ると、呪文を唱えた。

 こいつを相手にするには心許ないが仕方なし。造六は淡い光を帯びた木杖を手に身構えた。


 「穂乃殿、わしが突進したら、迷わず背後の廊下から逃げるのだ。いいな、決して振り返るでないぞ」

 「造六殿!」

 穂乃だけは絶対に生き延びらせる。勢三郎に穂乃殿は任せておけと豪語した手前、怪我一つ負わせては恥である。


 造六は覚悟を決めた。 

 ニタリと笑ったまま、死鬼がぎこちなく数歩近づく。


 「行く!」

 造六は先ほどから丹田に練りに練っていた精気を開放した。

 そのつま先に力がこもる。


 「!」

 その時だ、何の前触れも無く、ごろりと死鬼の首が床に落ちた。ブシュウウウウ……と緑色の液体が切断された首からあふれ出た。


 「勢三郎様!」

 崩れ落ちる死鬼の背後に、事も無げに立っている勢三郎の顔を見た瞬間、穂乃の頬が染まった。


 刀を鞘に納めながら勢三郎が近づいて来た。


 「造六、穂乃殿、大変であったな」

 「勢三郎! お主!」

 叫んで結界から飛び出してきた造六に、勢三郎は少し肩をすくめ微かに口元を上げた。


 「おいおい、造六よ、わしが敵の幻術だったらどうするつもりだ? 確かめもせずに飛び出しおって。それに結界の中では声を出してはならぬのだぞ」


 「おお、おう、そうであったな。だが、お主は本物であろう?」

 造六は勢三郎の両肩をパンパンと叩いた。


 「ふふふ、困らせてしまったか? むろん本物だ。今帰ったが、鬼姫との交渉は失敗だった」

 「そうか、だがお主も無事でなによりだ」


 「旦那様! お怪我はありませぬか?」

 穂乃が飛び出してくるなり、勢三郎の身体を撫で回した。


 「これこれ穂乃殿、大丈夫だ。私はどこも怪我などしておらぬ」

 勢三郎はその細い肩を掴んだ。

 穂乃の瞳に勢三郎の穏やかな笑みが映った、


 「勢三郎様……」

 穂乃はその熱い胸に顔を埋めた。


 雪明かりが穏やかに変わり、夜が明ける気配がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る