鬼夜5

 「穂乃殿!」

 危うく梁の下敷きになりかけ、とっさに飛び退いた穂乃の耳に造六の声が聞こえた。


 だが、穂乃は造六が次に何を叫んだのか聞く余裕がない。


 「!」

 目の前にそいつが投げ飛ばした尖った柱片が迫り、危うく顔面に串刺しになるところだ。総毛立ちながら穂乃はぎりぎりでそれをかわした。


 「これは!」

 もうもうたるほこりの向こう側に大きな鬼形の姿をした無骨な異形者が姿を見せた。上半身はほぼ裸に近い、ボロボロの着物が半肩から垂れ下がって下半身にかかっている。おそらく下半身は何も身に着けていない。


 今しがた穂乃に飛びかかろうとしていた獣がその両足に踏まれ、崩れた木材の間で無残に潰れている。


 ぶはぁああああとその鬼は白い息を吐いた。その赤い眼が穂乃を見た。その股間に見るも耐えない物がいきり立った。


 「女……犯す……」


 「鬼!」

 穂乃は身構えた。


 鬼がその大きな腕を振り上げた。穂乃の華奢な腕ではどのようにしてもその一撃をかわす術はないように見える。


 「鬼め、させぬ!」

 ブオン! と風が鳴って、振りあがっていた鬼の腕に突然造六の鉄杵が突き刺さり、緑色の血を周囲に撒き散らした。


 穂乃は危険を感じてとっさに着物の裾で顔を覆って庇ったが、その血飛沫を受けた所がシュウシュウと音を立てて溶けた。


 「なんと危険な奴よ! 穂乃殿こちらへ、ここは一旦逃げる!」

 「あっ」

 造六がぐいっと穂乃の手を引いて奥の間へと走った。


 グオオオオオオッ!

 鬼は手に突き刺さった造六の鉄杵を引き抜くと、恐ろしい声で吠えた。


 二人は宿の中央にある奥座敷に逃げ込んだ。

 奥座敷の板の間には既に墨で何重もの円が描かれ、円の内側に経文のようなものが記されている。


 「これは勢三郎殿が万が一に備え、準備していった結界だ。あの敵は我らでは手に余る。もはやこの中に入って息をひそめやり過ごすしかあるまい」

 造六は穂乃を背に庇い廊下を睨んだ。


 ミシリ……ミシリ……


 「女……女……」

 不気味に廊下を軋ませ、片腕をだらりと下げた鬼が暗がりの中から姿を見せた。


 雪明かりに照らされた鬼は、元は人間であったのか、髷をしていた痕跡がある。よく見ると肌は所々腐り骨が出ている。額に入れられた入れ墨や首の紫色の縄の跡からするとこいつは凶悪な重罪人で縛り首で処刑された者らしい。


 これは誰かが死人を墓から掘り起こして使役しているのだ。鬼の角に見えたのは頭部に突き刺さった鉄の杭のようなものであった。


 「こいつは死鬼化した者か」

 造六が小声でつぶやいた。


 片腕の肉を床板に引きずりながら、死鬼が白目をぎょろぎょろと動かしている。おそらく穂乃と造六が見えないのだろう。


 ギシッ、ギシッ、と床を踏み鳴らし、死鬼が近づいてくる。

 いざという時はこれを……造六は懐から護符を取り出した。屋内で使うには強力すぎるが致し方なし。


 ギシッ、ギシッ、と結界のすぐ脇をそいつは通り過ぎていく。

 風が腐った臭いを運び、穂乃は思わず吐き気を覚えた。「耐えろ」と造六が無言で穂乃に手ぬぐいを渡した。


 そのわずかな動きを察したのか、蛆の湧いた白目がぎよろりと蠢き、死鬼が造六と穂乃の方を向いた。


 「女……」

 見つけた、とばかりにその腐った唇が歪んだ。


 「邪魔な坊主め……」

 獲物を引き裂くため、死鬼の肩が内側から膨れ上がった。腐っているはずの筋肉がもりもりと急激に増殖したかのようだ。


 「造六殿」

 「待て、動いてはいかん……」

 造六は思わず動きかけた穂乃を片手で制止した。

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