鬼姫渓谷5
宿の布団の上で勢三郎は目を覚ました。
情けないことに半日は横になっていたらしく、頭には止血の布が巻かれている。
「旦那様、お目覚めになられましたか?」
穂乃が枕元に座っていた。
「造六はどうした?」
「造六殿は肝煎様のお屋敷に行っております。例の化け物が村を襲う、その相談でございます。夕餉には戻られるかと思います」
「そうか」
勢三郎は天井を見上げ、その表情は何か思案気であった。
穂乃はただ黙って勢三郎の側にいる。
火鉢にかけられたやかんがチンチンと音を立て、湯気が静かにその口から立ち上っていた。
「おう、勢三郎、怪我はもう大丈夫か?」
ガラリと板戸が大胆に引かれ、その隙間風で部屋の隅におかれた行灯の火が揺れた。
造六は部屋に入ってくると、宿で借りたらしい濡れた蓑と笠を壁の釘に吊るした。
勢三郎は起き上がって帯を直していた。穂乃は夕餉の膳を運ぶ手伝いにでも行ったらしく姿が見えない。
「どうであった? 話はうまく伝わったか?」
「うむ、あの綿部官兵衛とか申す肝煎、なかなかの奴だ。すぐに木戸を厳重に閉じる命を出し、武器庫の鍵を開け、自らの手の者に武装させておる。あの手際の良さからすると、何か色々と俺たちが知らないことも知っているようだな」
造六は火鉢を近くに寄せて、その冷たく凍える手を焙った。
「今回の話は、村人には伝わっているのか?」
「ああ、肝煎殿が今宵からしばらくは戸締りを厳重にして家に籠るように伝えている。その理由は言っていないようだが、穴持たずの熊がうろついているという噂になっておる。化け物も凶暴な熊も似たような恐ろしさだろうから、夜に外に出ようなどという者はいないだろう」
「外は大雪か?」
外からは何の物音もしない。ただ時折軒先の雪が落ちる気配がする。
「ああ、今しがた、ぼた雪が降ってきおった。今宵は積もるかもしれんな」
造六は火鉢の灰を搔きまわした。
「あら、造六殿、お帰りでしたか?」
穂乃が膳を持って現れた。その後ろに女中が一人、同じく膳を持って立っている。
「奥方様にお手伝いしていただいて申し訳ないっす」
若い女中はそう言いながら板の間に膳を置き、夕餉の準備を始めた。
「旦那様、このお菊が、あの山にまつわる伝説を祖母から伝え聞いているそうです」
「そうか、お菊とやら、ひとつ聞かせてくれぬか?」
お菊は見上げた勢三郎のまなざしに頬を染めた。
「あの棚端山に何かあるっすか? そう言えば昨年、藩の鉱山何某という者達が入山したそうっすけど、また山開きでもするっすか?」
「鉱山? 閉山してからかなり経つと聞いたが?」
造六が尋ねた。
「へえ、でも、また銀が出るんじゃないかって一時噂になったす。鉱山ができればこの辺りもにぎやかになるっすからね」
その時、家鳴りがして、屋根に積もった雪がドドドドと音を立てて落ちていった。
音にぎょっとした一同であったが、やがて静けさが戻った。
「山の伝説を聞かせてくれ」
「へえ」
勢三郎に促され、お菊が語り出した。
ーーーー今から100年以上も昔、棚端山と申す山の奥、織姫川の上流に今は誰も住んでいない尻沢という集落があった。
その集落には大きなお屋敷があり、そこに美しい双子の姫がいた。
ある年、数年来の飢饉に苦しむ村人は、姫の一人を山の鬼神に生贄に差し出すことになった。
生贄に選ばれたのは双子の姫の妹である。
長雨と冷夏に茶色くなった田の畦道を、姫は輿に載せられ山の鬼神の祠に向かった。
だが、姫が祠に着くことはなかった。
途中の谷で待ち伏せしていた者に、村人は惨殺され、姫はさらわれたのである。
何者の仕業か、或いは山の鬼神の祟りかと村人は恐れたが、姫をさらったのは、この地を支配していた領主の跡取りであった。
姫の美しさを聞いて妾にするため、棚端山の山頂に構える城に姫を連れ去ったのだ。
その事がわかっても村人は何もできなかった。領主に歯向かうことなどできるわけがなかったのである。
それから半月余りが経ったころ、飢饉で苦しむ村に追い打ちをかけるように流行り病が広まり、多くが命を落とした。
山の鬼神が騙されたと怒り狂ったのだという噂が、付近の村々に広まり、誰も尻沢には近づかなくなった。
姫も城内で誰かが話をしているのを聞いたのであろう。
さらわれた姫は幾晩も嘆き悲しみ、やがてある夜、突然、鬼神が乗り移ったかのように城主の一族を皆殺しにすると、山中に消えたという。
いつしか里の人々はその姫を鬼姫と呼んで恐れ、また崇めた。
もう一人の姫はどうなったのかは誰も知らない。
ある者は病で死んだとも言い、ある者は妹を探して未だに徨っているとも言う。
やがて、お菊の話はその城も集落も今は寂れて誰も住まなくなり、鬼神となった娘を弔うための神社だけが残ったという所で話は終わった。
ーーーーお菊が部屋を出た後、造六が勢三郎を見た。
「ふむ、今の話からすると、今日出会った娘、あれが鬼姫であろうか?」
造六が無精髭を撫でるのは考えるときの癖のようだ。
「うむ、さだめし藩の鉱山何某とやらが神社を壊したか、封印を解いたのかもしれぬな」
勢三郎と穂乃の視線が自然と交錯し、穂乃はうなづいた。
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