鬼姫渓谷3

 「旦那様! さすがでございます!」

 穂乃が静かに刀を鞘に収める勢三郎に駆け寄った。


 「穂乃殿、雪姫としての力もだが、木杖の扱いがまた見事であった。一体どこでそのような技を習ったのだ?」

 勢三郎は微笑み、穂乃の頭に降りかかっていた薄い粉雪を払った。


 「大昔のことでございます。依り代になる前、私の父は武芸者でありましたので幼き頃より父に鍛えられたのでございます」

 穂乃はそれが恥ずかしいことでもあるかのような表情である。確かに今の世では乙女の嗜みとして武芸を習う女などほとんどいないであろう。


 「なるほど。穂乃殿が危険な旅を共にすると言ったのは、武芸に心得があったから、ということもあったのだな?」

 「女が武芸などと申すは恥ずかしいことです。それで黙っていたのです」


 「ふっ、そんなことはない。私の母などは最強の退治屋と呼ばれていたらしい。だから気にすることはない」

 「まあ、そうなのでございますか」

 穂乃は驚いたように口元を押えた。


 谷間には大きな岩の下に小さな祠があるばかりで、道らしきものが奥に続いている様子はない。


 「さて、どうやらこっちは行き止まりのようだ。戻って造六の所に向かおう」

 「はい」

 勢三郎は何の臆面もなく穂乃の手を握る。

 手を引かれ、穂乃はその横顔を見上げ、夢見るような面持ちでうなずいた。


 造六は、勢三郎達と別れ、山裾のわずかな平地を雪を踏みしめながら登っていく。


 雪の表面は溶けかかって歩くたびにザクザクと音を立てる。

 やがて造六は雪の上に残る足跡を見つけた。その足跡は尾根崎を右の方に続いているようだった。


 「こっちに居たか」

 谷風が吹きおろし、寒さが厳しい。

 造六は立ち止まって首に巻いた手拭いで鼻まで覆い直した。


 狭い谷沿いに足跡は続いている。

 谷が奥まって、峠のように向こう側に続いている手前の暗い林の中に人影があった。その後ろ姿は村人、おそらく例の権助という爺さんなのだろう。


 古びた石室に彫り込まれた三面六臂の恐ろしい形相の石像の前に膝をついている。


 「おい!」

 造六は近づきながら声をかけたが、一心不乱に祈っているのか、耳が遠いのか。


 「おい、爺さん、こんな所で何をしているんだ?」

 造六がその肩に手をかけようとする。


 「気をつけろ、造六!」

 不意に後ろから勢三郎の声が聞こえた。

 その声に手が止まった。その瞬間、やにわに造六の手を爺が掴んで振り返った。


 「ば、化け物!」

 そいつは顔面に肉がほとんど残っていない。悪夢でうなされそうな恐ろしい顔だ。


 話には聞いていたが聞くのと見るのとでは大違いである。

 しかも、造六の手を掴んで離さない。力自慢の造六が振りほどけないのだ。それどころか、造六の腕の骨がきしんでいる。

 ガッ!と権助は骨が剝き出しの大顎を開いて噛みつこうとした。


 「造六! そこを動くな!」

 その声とともに、勢三郎の抜き放った刀が造六を掴む腕を断ち切った。


 驚くことに血しぶきは上がらない。


 後ろに逃げた造六は目を見張った。切断された左腕の断面から、青緑色のねばねばした何かが垂れさがっている。


 腕を切られた権助が石像の彫られた岩山の斜面に飛び退いていた。それはおよそ老人の動きではない。


 「魔性に魅入られたか」

 勢三郎は雪に突き立った刀を抜き取りながらつぶやいた。

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