鬼姫渓谷2

 グル……グググルル……


 木々の影の中から野犬が一頭、また一頭と姿を見せた。

 ただの野犬ではない。邪悪な眼を赤く光らせ、牙をむき出しにして敵意を露わにしている。


 「狂い犬の群れか。これに噛まれると厄介な病になる、噛みつかれぬよう気を付けろ」


 勢三郎は穂乃を背に、刀を抜いた。

 穂乃も緊張した面持ちで木杖を構えた。


 「あれをごらんくださいませ。岩の上でございます」

 斜面に異様な岩が突き出しており、その上に一匹の異形の犬が立ち、こちらを見下ろしていた。


 「奴は化生けしょうの眷属であろう。この群れを操っているのだ」

 全身にうじがわいた死肉のような姿の化け犬である。


 野犬の群れは、山を背にした二人の周りを取り囲んで低く唸り声を上げた。


 「一斉に飛び掛かってくるぞ。用心しろ」

 「はい」

 穂乃は唇を噛んだ。

 木杖を握る手に力がこもる。


 吠えもせず、荒い息だけを白くたなびかせて野犬が雪上を駆けた。


 飛び掛かってきた最初の2匹に勢三郎の刀が閃く。

 その横、雪の塊の死角から跳躍した1匹が穂乃めがけて牙を剥く。


 「!」

 穂乃は木杖でその腹を薙ぎ払い、続けて反対から迫った犬の鼻先を石突きで突いて追い払った。


 その身のこなしに勢三郎の眉が動いたが、何も言う間もなく、続けざまに迫る野犬の群れの中に勢三郎は身を投じた。


 軽やかに身をよじって巧みにその牙をかわして一刀両断していく。穂乃に狙いをつけた野犬も、長い杖を巧みに振り回す穂乃に近づけないでいる。


 穂乃と睨みあっていた二匹の野犬が狙いを勢三郎に切り替え、右に左に体を入れ替えながら勢三郎に向かった。


 「後ろです! 旦那様!」

 穂乃の声に体が反応する。踏みしめた足元から粒氷が弾け、勢三郎は体を捻るように刀を旋回させた。


 勢三郎に食い掛った二匹の犬の首が宙に飛んだ。


 「!」

 刹那、荒々しい岩の上からその様子を伺っていた異様な犬が高く跳ねた。


 普通の犬ではない、化生の眷属である。雪原に降り立ったかに見えた犬が滑るように走り、勢三郎に牙を剥く。常識を超えた脚力である。


 「私が!」

 とっさに穂乃が杖を持っていない右手の平を前方に突き出した。


 そこから一陣の突風が生じ、突進してきた犬の目の前に突如雪の壁が出現した。

 これは穂乃の持つ雪姫の力である。見えない所で訓練していたのであろうか、多少は自在に使えるようになってきたらしい。


 普通であれば、その雪の壁に激突するであろう。だがそいつは異常過ぎる。反射的な動きで異形の犬が腐り肉をまき散らしながら壁を飛び越えた。


 だが、勢三郎もまた人の域を超えた者であった。


 異形の犬が宙に飛んだ瞬間に勢三郎も跳躍していた。空中で下段に構えていた刀を振り切る。いかに反射神経の良い異形犬でも空中では方向を転じ得ない。


 勢三郎が薄雪を巻き上げて雪原に降りたち、その背後に一刀両断された異形の犬の骸がどさり、どさりと落ちた。


 一瞬の剣技であった。


 立ち割られた断面は湯気を上げ、流れ出た緑色の体液が雪に穴を開けながら浸み込んでいった。

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