第5夜

鬼姫渓谷1

 積もった雪が何度も溶けては凍りを幾たびも繰り替えしたのであろう山の沢沿いのザラメ雪の上を、三人はカンジキを履いて上流に向かって歩いている。


 沢は低木で覆われ、山の斜面は太い捻じれた木々が生い茂っている。途中まであった複数の者の足跡は既になくなっている。


 「見ろ、血だ」

 不意に勢三郎が立ち止まって表面の雪を払った。

 雪の上に点々と血が落ちている。


 「まだ新しいな。獣の血ってわけでもないか、こっちに人の足跡があるぜ、この藪を突っ切ったみだいだな」

 しゃがみこんでいた造六が、不自然に跳ね上がっている藪の根元を覗き込んで言った。


 「村の衆が言っていたお爺さんでしょうか?」

 穂乃が木杖を胸の前で抱えた。


 「おそらくはそうであろう。さて」

 勢三郎は谷を見回した。道らしきものもないが谷川を挟んで右か左か、どちらも尾根の袖沿いに進むことはできそうだ。

 権助爺は、そのどちらに進んだのか。


 「旦那様、右の山裾に古い灯篭のようなものがあります」


 穂乃がほとんど雪に埋もれている常夜灯を見つけた。

 おそらくその先に神社か何かがあるのであろう。

 この白い雪景色の中で人が作ったわずかな痕跡に気づく鋭敏さ、さすがは雪姫と言われていただけのことはある。


 「この辺りは妖気が満ちていて、人の気配が搔き消されている。私はこっちの道を探そう。造六はそっちを頼む。少し道の先の状況を確認したら、一旦、ここに戻って落ち合おう。いいな無理はするな」


 「わかった」

 勢三郎と穂乃は傾いた常夜灯のある右の方へ、造六は何もない左へと進んだ。


 空にキラリキラリと雪の結晶が舞う。

 吐く息が襟元を凍らせる。


 穂乃は前を行く勢三郎の踏んだ跡を大股でついていく。勢三郎は大股で歩いているつもりはないのだろうが、女にとっては歩幅が大きい。


 間違って踏み跡を外れると太ももまで雪に埋もれてしまう。

 人間に戻ってからこのような深雪の中を歩くのは初めてであった。


 化生の依り代であったときは、このような雪に埋もれることなく、浮遊して雪の表面を滑るように移動できたのである。

 それが今では雪の下に空洞ができていると雪が砕けて踏み抜いてしまい、足をとられる。


 「大丈夫か、これはすまぬ。もう少しゆっくり歩け、と申してくれれば良かったのだが、気づかなかった」

 勢三郎は転びそうになった穂乃を受け止めていた。


 「いえ、大丈夫でございます。旦那様についていくと申したのは私でございます。お気になさらず進んでくださいませ」

 不甲斐ない、勢三郎様に頼ってばかりではいけない。

 そう思いながら雪を踏みぬいた足を抜こうとすると、もう片方まで崩れ、足元がザクザクに砕けてよろけてしまう。わらぐつの中に氷雪の粒がたくさん入ってしまい、とても冷たい。雪とはこのように冷たいものだったのだ、と改めて思うのである。


 「いいから、私の腕につかまりなさい、下が空洞だとなかなか抜け出せないものだ」

 「もうしわけありませぬ」

 穂乃は勢三郎の温かく力強い腕にすがってようやく埋まった足を引き上げた。


 わらぐつを逆さにして雪を落とし、ほっとしたのもつかの間、何か嫌な気配の混じった谷風が吹いた。


 ザザザッと埋もれていた笹の葉が揺れた。

 山影の薄暗い小谷の斜面に生い茂っていた笹が一斉に動いたようだった。


 「何でしょうか? 山の気配が変わりました」

 「穂乃殿、気を付けるのだ」

 勢三郎が刀に手をかけ、穂乃を守るように前に出ると左右に鋭い視線を配った。

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