黒森雪景7 ー決着ー
尾根頂の平らな頂きに邪悪な笑みを浮かべた白狒狒がいた。
そこには古い朽ち果てた御堂があった。
崩れた御堂の板の間に肩も露わな穂乃の姿がある。わずかに残った柱に背を持たれ、その手は柱に縛られている。
まだ目が覚めていないところを見ると白狒狒が術か何かを施したのだろう。
儀式の準備なのか、穂乃の周囲にはウサギや青獅子の引き裂かれた臓物が巻き散らかされ、あちこちに血や粘液が粘ついて異臭を放っている。
勢三郎は息を整え、ゆっくりと近づいた。
白狒狒はとうに勢三郎に気づいていたのだが、薄笑いを浮かべて振り返る。顔の頬袋が赤く膨れているのは性的に興奮している証であろう。怒張した陰部も見るに堪えない醜悪なものである。
「穂乃殿を返してもらう」
「お主も造六に似ておる。しつこい男だ」
「いや、私は造六以上にしつこいぞ」
勢三郎は右手に刀、左手に竹槍を持って駆け出した。
足にカンジキは履いていない。その足跡に点々と赤い血がついている。迫りくる勢三郎に白狒狒はニタリと笑う。
キーーーーン! と甲高く、鋼を打ったような音が夕闇の迫る山中に響き渡った。
空には大きな満月が青々と光っている。
満月の夜には化生の者の力が強くなる。だから退治屋は満月の日に仕掛けることはない。それが普通だ。
だが今宵ばかりは、と勢三郎は渾身の一撃を振う。
刀が白狒狒の爪に弾かれ、唸りを上げて振り下ろす竹槍も片足で受け止められてしまった。
逆に物凄い力で振り回され、勢三郎は木々の間を転げていく。
「お主を少々買いかぶっておったわ。それぞれの手に刀に竹槍では威力も半減だろうが!」
白狒狒が雪煙を上げて迫る。
勢三郎は雪まみれの顔を拭って立ち上がった。
幾度となく白刃が黄昏の中に閃くが、白狒狒に一太刀も入れることができない。白狒狒の動きの速さは人間の目には捉えられないものだ。
勢三郎はあちこち切り刻まれ、血を滲ませながら白い息を吐いていた。
どのくらいの時間斬りあっていただろうか。
既に満月は頭上に差し掛かっていた。
「そろそろ終わりにせねばな。もう待ちきれぬわ、そろそろ予定していた祝言の時間ぞ」
白狒狒が涎を流し、指をパチンと鳴らした。
「!」
穂乃が微かに呻いて目を開いた。
その瞳に映ったのは、白狒狒と対峙する全身血まみれの勢三郎の姿である。
声は出ない。
体も動かない。
穂乃のその表情を見て白狒狒は
雪姫がもっとも嫌がる方法で祝言を上げてやろう。奴が殺される所を見るのだ。そして祭壇に奴の生首を置いてやろう。
その生首の前で儀式を執り行うのだ。
「穂乃殿!」
凍える闇を打ち払うような勢三郎の強い声である。
「!」
その声に応じるように穂乃の意識が覚醒した。
言葉は出ない。だが瞳は強い想いを秘め命の光を宿した。
勢三郎の声が穂乃の身体の奥底に眠る芯を
勢三郎様…………
白狒狒の拘束術が体を縛り付ける。穂乃はその激しい痛みに顔を歪めながらも、心の中のその光に手を伸ばした。
「これでお終いだ。退治屋!」
白狒狒が爪を煌めかせ、勢三郎に迫った。
その時、勢三郎の目に光が灯った。白狒狒が一瞬恐怖を感じるほどの何かがある。
だが、既に遅い!
白狒狒は、自分の爪が奴の首を切断する瞬間を思い描いた。
ガッ!! と白狒狒の動きが制された。
その片足の甲に勢三郎の刀が刺さり、地面に突き立っていた。
「それで動きを封じたつもりか! 愚かじゃ!」
勢三郎には白狒狒に届く武器はもはや無い。竹槍など何の効果があろうか。勢三郎が両手に持ち替えた竹槍を白狒狒は笑いながら切断する。
その鋼以上に硬い爪に竹槍は豆腐のようなものだ。
爪を閃かせ、このまま勢三郎の首を刎ねる! と迫る白狒狒のもう片足がゴッと止まった。
「何ッ!」
白狒狒の足首に氷が巻き付いていた。
その背後で、動けぬはずの穂乃が柳眉を逆立て、片手を突き出して白狒狒の足を指さしている。
「雪姫! 貴様っ!」
「その残念を絶つ!」
一瞬である。
白狒狒の動きが鈍った瞬間、勢三郎の瞳が金色に光った。
グボアウ!!
白狒狒は
その目に信じられないものが映っている。
胸から竹が生えていた。
熱い! そして苦しい! 白狒狒は自分の心臓を貫く竹槍を掴んだ。だが、勢三郎が渾身の力で突いた槍は背まで達している。血糊でその手が滑って竹槍が抜けぬ。
「ばかな…………」
どうと音を立てて白狒狒が崩れ落ち、ーーーーそのまま、ゆっくりと雪の峡谷へ滑り落ちていった。
「ーーーー勢三郎様!」
縄を自力で振りほどいた穂乃が雪の上を裸足で勢三郎の元に駆けよった。
「穂乃殿、無事で何より」
抱き止めるその胸に飛び込み、穂乃が見上げる。
満月に映えた勢三郎の微笑みが、静かに命の重さを持って穂乃の胸を打つ。
「良かった、勢三郎様、大事は無いのでございますね」
穂乃は勢三郎の身体のあちこちを触って確かめ、やがて自分の手ぬぐいを裂くとその腕の傷に巻いた。
ようやく安心した二人を満月の光が優しく包んだ。
「でも、竹槍は白狒狒に切られたように見えました。どうして倒せたのでございます」
勢三郎が血糊を拭いて刀を鞘に収めるのを見ながら、穂乃は少し首を傾げた。
「うむ、竹槍は切り口が槍先となる。竹の中ほどを切られても斜めに切断させれば、そのまま槍先になる。こいつは賢かった。ゆえに私の竹槍の先を切り落とし、武器はもうないと安心した瞬間に油断が生まれたのだ。それにその瞬間に奴の気を反らしてくれたのは穂乃殿であろう?」
その微笑みに穂乃は胸を押さえた。
「この化生の力が、初めて人の命を救ったのでございますね」
「うむ」
勢三郎はうなずき、不意に裸足の穂乃を抱きかかえた。
「あっ」と穂乃は小さく声を上げた。
穂乃は怪我をしている勢三郎に負担になるだろうと、降りる素振りを見せたが、勢三郎は良いのだと引き留め、かえって強く抱きかかえた。
見つめる瞳に映る勢三郎の背には、凍える月が美しく輝いていた。
「どれ、参ろうか、造六も心配だ」
「造六殿でございますか?」
「うむ、ほら御社で雪踏みをしていた修験の者だ。一時は白狒狒に操られたが、
「まあ、そうでございますか」
やがて尾根を降りてくる二人の姿を見て、斜面に座り込んでいた造六はほっとしたように表情を崩した。
「勢三郎殿、ついに奴を倒したのだな?」
「うむ、安心してくれ。奴は退治したーーーーこちらも大変だったようだな?」
勢三郎は、辺り一面に飛び散った血の跡と猿の死骸を見まわした。
「ふぅ、これでようやく妻の仇も討てたか…………。この黒森の冬の怪異も収まるのであろうな」
造六は雪を払って立ち上がった。
「造六様、旦那様にご助力いただきありがとうございました」
「なに、礼などいらん」
礼を言われ、改めて勢三郎が抱いている穂乃を見た造六は照れくさそうに鼻頭を掻いた。
月の光に浮かぶ穂乃の美しさはこの荒くれ者にとっても感じ入るものであったようだ。
「よし、俺の庵に戻るか。勢三郎、穂乃殿、今夜は猪鍋でもつくるゆえ、泊まっていくと良い。俺がこのような気持ちになれたのは何年ぶりであろうか、いやに気分が良いぞ! がははははははは…………!」
造六は今までの苦しみを全て吐き出す勢いで豪快に笑いだした。
その笑いにつられ表情が和らいだ勢三郎の瞳の中で、穂乃もまた微笑んでいた。
それは厳寒の地を行く三人の新たな旅の始まりを告げる笑い声であった。
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