黒森雪景2

 雪の中を何かが向かってくる。


 その速さは人間ではない。降り積もった雪に足を取られず山の斜面を駆け下りてくるのだ。


 一瞬、日が翳ったような気がした。


 雪煙が舞い上がって、先端が巻くように斜面を滑り落ちてくるが、それは雪崩なだれではない。


 山の斜面の雪に埋められていた竹槍が雪をぜて弾け、鋭利な先端が次々と空を切る。何かの罠であったかもしれないが、その相手には反応が遅すぎるようだ。


 勢三郎は刀の柄に手をかけ、身構えた。

 陽光に雪の結晶が無数に輝く。

 冷たく張り詰めた空気が動いた。


 勢三郎の刀が迫った雪粉を斜めに斬った。

 金属に当たったような甲高い音が山間に響き渡った。


 風が巻き上がって梢を揺らし、杉枝からの落雪が積雪に次々と魔物の足跡のような窪みを作っていく。もはやどれが魔物の足跡がわからない。だが、勢三郎はその居場所を感じ取って剣を向けた。


 「お前がこの山に棲む化生か、見たところ猿ともむじなともつかぬが、獣が転じた化生の者、白狒狒しろひひとはお主だな」


 勢三郎の刀先に、人ほどもある大きな白獣が荒い息を吐いていた。白獣は神の使いとも言われるがこの獣の気配はそのような神々しさとは真逆である。


 人語を解するのか、獣は耳まで裂けた口を歪め、禍々しい牙を剥いて笑ったようだ。


 さっき勢三郎の刀を止めたのは、その牙か、或いは爪か、いずれにしても手が痺れるほどの硬さであった。


 「勢三郎様」

 「穂乃殿、出るな。隠れておれ」

 勢三郎は穂乃を守りながら、獣の姿をした化生の者を見て眉をひそめた。これはたたの獣ではない。その表情には人間以上の悪賢さが垣間見える。間違いないこいつだ。


 「ほう、ほう、折れなんだか、ただの刀ではないようだ。貴様、さては退治屋か?」

 白狒狒が三本指の先を擦り合わせた。


 「だとすれば、いかがいたす?」

 「我はこの山の神ぞ、退治屋ごとき下賤げせんの者に神殺しなどできぬわ。何度来ても返り討ちよ」


 「神とは片腹いたし、長い年月を経て賢しくなっただけの狒狒ひひであろう。お前に殺された者の仇を、と祈る幼き兄弟の想いに導かれ、お前を斬る!」

 勢三郎は飛び掛かってきた白い獣に刀を振った。


 ごっ、と風が逆巻いた。


 その爪を受け流そうとする刀が重い。崖から落ちてきたとてつもなく硬い岩を押し返しているような感覚に近い。


 「護相深々ごそうしんしん!」

 勢三郎は護法を唱え、歯を食いしばって渾身の力でその爪を押しのけた。攻撃の重さからは想像もつかない身軽さで白獣は後方に宙返りすると、下方の石段に降り立った。


 「その残念を絶つ!」

 刀を閃かせ走り寄ろうとした勢三郎は、違和感を感じ踏みとどまった。


 振り返った目に男が映った。


 「勢三郎様っ!」

 叫ぶ穂乃を片手で抱きかかえた男がいた。

 さっきの山伏のような男である。そのもう片方の手には鉄でできた杵のような武器を持っている。


 「穂乃殿!」

 男は穂乃を抱きかかえたまま石段の遥か上方へ跳躍した。人間離れしているが白目を剥いた顔に表情は無い。完全に化生の者に操られているのだ。


 その勢三郎の背に向かって白狒狒が駆け上がった。


 「!」

 わずかにその動きを気取るのに遅れた勢三郎に獣の剛腕が唸りを上げた。ごきりと骨が嫌な音を立て、勢三郎は崖谷の下へと落ちる。


 崖に張り出していた雪が、どうっと大きな音を立ててその上に崩れ落ちた。


 「勢三郎様ーーーーーー!」

 穂乃の悲痛な声が杉の梢の間にこだました。

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