凍湖の畔5

 古くから信仰を集めてきた大社の前に広がる村は、なぜか少し翳があるように見えた。


 雪深く埋もれた屋並みの向こうには暗灰色の雪雲に覆われた寒々しい森の山が見える。

 通りに並ぶ屋敷の木塀よりも高く積もった雪の上を人が行き交う。一階の屋根を見下ろしながら歩く光景には不思議な感覚を覚えるものだ。

 

 勢三郎の後ろを歩く穂乃に人の好奇心の目が集まるので、村に入ってからは勢三郎は自らの頭巾を穂乃に与えていた。


 「あの通りの角に古着屋があるそうだ。そこでそなたの身なりを整えよう」

 固く締まった雪の上を勢三郎は藁ぐつで歩いているが、穂乃は夏用の草鞋である。その服装の奇異なところも穂乃が目立つ理由なのだ。


 「私に着物を? この御恩は一生かかっても償います」


 古着であっても着物はそう簡単に買える代物ではないことくらい、人の暮らしから長い間離れていた穂乃にもわかる。


 「どうせ、私にはこれと言って金の使い道はない、気になどする必要はない」


 二人は店へと降りるため、人の背よりも高い雪の階段を降りた。建物の一階は雪の下なので、この季節はどこの家でも玄関に行くには雪の階段を降りなければならないのである。


 「これ、誰か、店の者はおるか?」


 木の扉をガタガタと開け、勢三郎は暗い店の入り口で叫んだ。

 店の中は炭の匂いがした。


 しばらくすると板の間を小走りで走る音が聞こえた。

 奥の暖簾のれんが揺れて、顔を出したのは年のころ15,6であろう若い娘である。


 「あら、お客様でございますね。旦那様、お客様でございます!」

 娘は奥に叫ぶと、板の間に置かれた背の高い燭台しょくだいに火を灯し始めた。


 雪で周囲を覆われているので家屋の中は暗い。燭台の明かりがほんのりと広がり、ようやく周囲の棚を浮かび上がらせた。


 「どうぞ、こちらへ」

 土間に立っている勢三郎を招いて、娘は奥の小上がりに座布団を二枚敷くと火鉢の灰を掻き混ぜた。


 「どうかしたか?」

 燭台の明かりに浮かんだ勢三郎の顔を娘が呆けたように見入っている。この辺りではまず見ることのない貴公子ぶりに言葉を失ったのだが、それに気づく勢三郎でもない。


 「い、いえ、なんでもございません」

 急に少し頬を染めた娘が奥に戻っていくのと入れ替わりに初老の男が顔を出した。


 「これはお待たせいたしました。古着屋菊谷の主人、菊谷作次郎きくやさくじろうと申します。このたびはどんな御着物をお探しでございましょう?」

 男は板の間に正座すると、丁寧にお辞儀をした。

 その物腰の優雅さはこのあたりの者とは少し違うようだ。


 「連れの着物を探しておる。前の村の湯屋で盗まれてしまってな、難儀しておるのだ」


 「それは、それは、お困りでしょうな」

 作次郎は連れの女を見て目を細めた。顔を隠し、薄汚れているが美人であろうという事はわかる。


 「いかほどの品でよろしいでしょうか?」

 「うむ、私達が人に侮られない程度であればよい、特別高価な着物は不要、むしろ丈夫さを重視してもらいたい」


 「わかりました。それでは、少々お待ち下され。今、見繕って参ります」

 作次郎は慇懃いんぎんに頭を下げ、奥に入った。


 勢三郎は袖に手を入れて静かに待っている。穂乃はその隣に腰掛け、勢三郎の横顔に見入った。勢三郎の端正な顔立ちには時折人とは思えぬ品格がよぎる時がある。もしかするとこの人もまた、人ならざる生い立ちを背負っているのかもしれないと思うのだ。


 勢三郎は穂乃の視線に気づいたのか、ちらりと穂乃の方を見る。


 その瞳の色は穏やかで温かい。

 穂乃は少し胸がざわつくのを覚え胸元を手で押さえると、その気持ちを隠すように揺れる炎に目を移した。


 知らず知らず彼の横顔に見入っていたことに感づかれたことが気恥ずかしかったのであろう。その瞳には赤々と燃える火が宿っていた。


 「お待たせいたしました。これや、これなどいかがでしょう?」

 作次郎はいくつかの着物を手に現れた。


 板の間に並べられた着物は古着と言っても質の良いものばかりで、この作次郎という男の誠実さが表れている。

 勢三郎は思案顔であったが、穂乃の雰囲気に合う着物はどれかと言われれば、それは最初から決まっていた。


 「この薄紅色の着物はいくらだ?」

 「これは奢侈しゃし禁止の御触れが出る前にこしらえられたものでして、今では古着以外では手に入らない紅染でございます。このくらいかと」

 そう言って作次郎はそろばんを弾く。


 「うむ、今着ている着物を買い取ってもらうとして、このくらいにならぬか?」

 勢三郎はそろばんの玉を動かした。


 「うむむ、お侍様も相場をよくご存じですな。ではその足元の藁ぐつや頭巾を付けて、これではいかがですかな?」

 作次郎は玉を戻し勢三郎の顔を伺った。


 勢三郎は、負けた、というような顔をして「では、そこにある手ぬぐいを付けてくれぬか?」と言った。


 「はっはっはっ……わかりました。お付けいたしましょう」

 作次郎はやられたとばかりにその頭を叩いた。

 その二人のやり取りに穂乃がくすりと笑った。


 「それでは、すぐ使えるようにご準備いたしましょう。少し丈に合わせますので、奥方様は中にお入りください。道中かなり難儀されたご様子、汚れておられるようですから、どうぞ湯をお使いください、準備させまする」

 作次郎は着物を手に立ち上がると、さきほどの娘を呼びに奥に入った。


 「勢三郎様、申し訳ございません。着物を買っていただいたうえに、奥方などと呼ばせてしまいました」

 穂乃がすまなさそうに頭を下げた。

 

 「いやいや、そのような誤解もまた面白いではないか、気にすることはない」

 勢三郎が笑ったのを見て、穂乃も微笑んだ。


 やがて、着替えを終えた穂乃が戻ってくる気配がした。

 軽やかな足取りで廊下に下げられた暖簾をくぐって、穂乃が顔を出した。


 「これはこれは……」

 古着屋の旦那としての苦労を長々と勢三郎に聞かせていた作次郎が口をぽかんと開けた。


 着物の丈を調整させている間、薄汚れていた彼女を奥で湯浴みさせたのだが、できあがった着物に着替えた穂乃の美しさに見蕩れたのであろう。


 「ほう、穂乃殿、これは見事だ」

 勢三郎も飲み干した茶椀を置いて、これは本当に驚いたとばかりに目を大きくした。その勢三郎の様子を見て、穂乃は嬉しそうに顔を伏せた。


 恥じらいながら勢三郎の傍らに寄り添うように座った穂乃に二人とも声がでない。


 これ以上に美しい女など、都でも見たことがないというのが勢三郎の本音であろう。

 若い頃に都で商いの修行していたという作次郎も同じ思いか、開いた口がまだ閉じていない。


 湖の神の伴侶とされた化生の者が依り代に選んだだけあって、まさに数百年に一度生まれるかどうかという美しさである。その桜色の頬を見れば、穂乃が土地の人々を恐れさせてきた雪の精だったと思う者はいないだろう。


 「穂乃殿、良く似合っているぞ」

 勢三郎は目も合わせず袴を両手で握り締めた。

 常に落ち着いた風格のある勢三郎であるが、初めて穂乃に年齢相応の若い表情を見せたような気がした。


 「旦那様、うれしゅうございます」

 穂乃はそんな勢三郎を見て口元がほころんだ。




 「ーーーーさて、作次郎殿、つかぬ事をお聞きするが、この村のはずれに古いお社があるとか?」


 久しぶりの遠客との話に喜色きしょくを浮かべていた作次郎であったが、火鉢を前に煙管きせるを持つ手が止まった。


 触れてはいけないことを尋ねられたという雰囲気が漂う。

 少し表面が白くなった炭が火鉢の中で小さく弾けた。


 「あそこに詣でるのでございますか? いや、確かに黒森の御社に詣でれば夫婦になれる、子宝に恵まれる、とは言いますが、あそこは冬に行くところではございませぬ。」

 作次郎は穂乃を見た。


 「ほう、その言い方、冬はなにかあると申すか?」


 「ここだけの話でございますが、冬は白狒狒しろひひと申す化け物が出ると申しまして、村の者もめったに近づかないのでございます。旦那様方もけして参ろうなどとは思いませぬように」


 「そうか、それは良いことを聞いた。心配めさるな。そのようなところには近づかぬ」

 「それがよろしゅうございます」

 作次郎は安心の表情を浮かべた。



 ーーーーーーーーーーー


 通りに出ると、穂乃が勢三郎の顔を見上げた。


 「勢三郎様、さきほどはあのように申しましたが、行く気でございましょう?」

 「穂乃殿、まいったな」

 勢三郎は頭を掻いた。


 「私も参りとうございます」


 「いや、穂乃殿は危険だ。村の宿で待っていてくれないだろうか、奴は私がずっと追ってきた魔物なのだ」

 穂乃は首を振った。その冬の蒼天のような澄んだ瞳に勢三郎が映っている。


 「長く化生であった身です。まだ勢三郎様のお側にいないと、この身の奥底の物が蠢く気がするのございます。無意識に誰かを害するやもしれませぬ」

 憑りついていた化生の者の残念は勢三郎が昇華させたとは言え、穂乃の身体はまだ不安定である。自分がいることで穂乃の心が沈静化していることに勢三郎も気づいていた。


 「ならば仕方がない。共に参るしかあるまいな。ついて参れ」

 その言葉に張り詰めていた穂乃の顔がぱっと明るくなった。


 「では行くぞ、穂乃殿」

 「はい、勢三郎様」

 二人は共に真白な雪に覆われた黒森の山に向かって足を踏み出した。

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