凍湖の畔3

 月夜の雪原は清々と明るく輝いている。

 遠くまで澄み渡った空の端の地平を黒々とした峰々が縁取っている。


 湯気がしずくとなって集まり、切りそろえたかやの先から水面に落ちた。水音がかえってその静けさを浮き立出せる。


 自然に泥の中から湧き出ている赤茶色の湯の縁に栗の木枝を切り揃えて立てかけ、そこに萱をいただけの簡素な屋根である。


 湯の周りには覆いかぶさるように雪の壁が張り出している。


 パチッとたき火が音を立てた。

 勢三郎は皮を剥いだ丸太に座り小枝を火にくべた。

 僅かな風が吹き、いぶした匂いと入れ替わりに僅かに漂ってきたのは硫黄いおうの香りだ。焚き火の向こうには湯が湧き出している。


 その濁った湯の中に全裸の女が肩まで沈んでいた。


 あまりにも美しい女である。

 その着物を剥ぎ、全裸にして湯に沈めたのは勢三郎である。

 ぬるい湯に浸ってから数刻、女の素肌は徐々に桜色になり本来の生気を取り戻してきたようだ。


 残念を絶ち斬られ勢三郎にもたれかかってきた女は、とても生きているとは思えぬほど氷のように冷たかった。

 だが、抱きすくめた女の中、消えそうになりながらも揺らめく命の火を勢三郎は見た。


 この女は残念の依り代になりながらも生きていたのである。


 いや、依り代として生かされていたというべきであろう。

 湖の神の伴侶として生贄にされた者の強い念が次々と新たな依り代となる娘に乗り移ってきたのだ。


 神になろうとした化生は依り代に完璧を求めた。

 長い年月をかけて神の伴侶と呼ぶにふさわしい美しい娘に憑依し続け、その姿を絶えず神に近づけてきたのであろう。

 その結晶とも言える女は、今やまさに神がかりと言うしかない美しさである。その美貌、容姿は既に人外と言えよう。


 女は湯の中で静かに眠っている。

 勢三郎は腕を組んで目を閉じた。



 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 「旦那様……、旦那様……」

 女の声に勢三郎は目を開けた。


 女が生き返って湯から上がり、乾かしていた着物を着る気配にはとうに気づいていた。敵意や邪悪な気配はない、目覚める必要もなかろうと女が声をかけるまで目を閉じていたのである。


 目を開くと、地面に両手をついて女が見上げていた。


 「旦那様、命をお救いいただき、なんとお礼を申し上げればよいのか」


 頬に血の気が戻った女は、神の生贄いけにえにされた女の残念が依り代に選んだだけのことはある。


 凍りつくような凄みのある無機質の美しさは身をひそめているが、やはりたぐいまれに見る天女の如き美女である。

 そして、何よりもその体には勢三郎とよく似た精が流れているようであった。


 稀に普通の人にも化生の者に似た精を宿す者が生まれることがある。幼き頃より、化生の者を撃ち滅ぼす力として精の行使を鍛錬たんれんしてきた勢三郎と違い、己の精に気づいていない者は化生の者にとって最高の依り代であり、最高のにえでもあるのだ。


 「体は無事のようだな。その方、名はなんと申す?」

 女は顔を上げて、まっすぐ勢三郎の瞳を見た。


 「穂乃ほのと申します。」


 「私は、日暮勢三郎と申すただの浪人者だ。それほどかしこまらなくて良い。こちらに座れ、火に当たってかゆを食うと良い」

 勢三郎は丸太に座るよう女に促すと昨夜の残りの粥を木椀もくわんによそった。


 「気味が悪くはないのでございますか? 私は人を殺す化け物だったのでございます。それに、どうして生かしたのでしょうか?」

 昨夜、自分を襲った女に警戒する様子も見えない。勢三郎の豪胆さに驚くとともに自然に疑問が湧いてくる。


 「さあ、穂乃殿」

 女は差し出された椀とさじを受け取りながら、勢三郎の真意を図ろうとしている。


 朧気おぼろげながら、りついていた残念が退治屋と称する剛の者を次々と呼び寄せていたことが思い出された。男の退治屋だけではない、女もいた。

 化生の者と化していた時の記憶は幻のように曖昧あいまいだ。だが、依り代にされていたとは言え、自分はこの手で何人もの人を殺めている。その事だけは覚えている。


 なぜ自分を生かしたのか、勢三郎はまだ何も言わない。

 自分の手では殺さずに、里に連れ行き、御役人の手で処刑させるつもりだろうか。


 いぶかしがっている穂乃の前で勢三郎は穏やかに口を開いた。


 「気味が悪いなどと思うわけがない。穂乃殿もあの化生の者の犠牲者であろう? そなたが望んで人を殺めたわけではあるまい。悪い夢でも見ていたのだと思って忘れることだ。それに生きている人を殺すのは好きではない。さあ、良いから、それを食ってみよ。私が獲った兎肉うさぎにくが入った粥だから気力も戻るだろう」


 山のから昇った朝日が背中に当たり始めたせいなのか、穂乃は不思議な温かさに戸惑いを覚えた。


 勢三郎の表情には嘘のない優しさがあった。言われるままに一口、粥に口をつけた穂乃は思わず勢三郎を見た。


「美味しい、美味しゅうございます、旦那様」


「そうか、それは何より。たくさん食べることだ。食べれば元気がでる。それが人というものだ」

 勢三郎の屈託のない笑い顔に穂乃は目を見張り、そして微笑んだ。

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