凍湖の畔2
雪の中から現れ、幻の如く消えゆく女は人外の美しさだ。
女は
それは男が望む理想の姿である。
命を吸われると分かっていながらもその豊かな胸に抱かれることを望む男が絶えなかったのもうなずける。
女は微笑した。
剣を構える逞しい背中、この男が来ていると教えたのは怯えた目をした旅商人の男だったか。
「諸国を放浪している退治屋が国境を越えた、お前などそいつに退治されるが良い」と咄嗟に叫んで地面に転がった男を生かして帰し、噂を広げさせたのは女自身である。
退治屋は魔物を退治することで報酬を得ている素浪人の事である。かつては組織的な集団であったが十数年前に壊滅したと言われている。その生き残りとは言え、最近、ずば抜けた才を持つ魔物狩りの浪人者が現れたという噂を耳にした。
退治屋と呼ばれる者の力が強ければ強いほど、それを返り討ちにし、
退治屋すらも敵わない存在として人々に畏怖されることでこの世での力を増し、やがてはさらに高次の存在に昇華することができるのである。
「より強い力を…………神に近づくにはもっともっと強い力が必要だ」
そのためにこの男はまたとない獲物である。
「しかし、この男、この稀に見る容姿と肉体……良いぞ、良いぞ、良いぞ」
良く見れば、この男は神の
女は自らが神になるか神をこの世に現出させるか、という妄執にずっと憑りつかれている。
何のために?
女はそんな事すら覚えてはいない。
そうすることだけが目的になっている。遠い昔に花の御車に揺られて里を送り出された、先導する男の持つ朱塗りの
勢三郎は
女がここ数十年見た中では飛びぬけている。そしてその器量がことさら美しい。女が思い浮かべる理想の顔立ちと肉体の持ち主であろう。この男ならば間違いなく神を降臨させることができる。
女は笑みを浮かべた。
屠るために呼び寄せた退治屋であったが、思いがけず我が神が再び降臨する依り代になるべき男であった、と。
やっと見つけた。
これで約束を果たせる。
それがどんな約束であったかすら既に思い出せず、その思いだけが女を突き動かす。
これで終わりだ。首を凍らせ血の巡りを止めてしまおう。女は勢三郎の背後からそっと白い手を伸ばした。
「女よ、神の
その声は背中の方から聞こえた。
「!」
手を伸ばした先に男の背が無い。
いつの間に背を取られたのか、男の動きはまったく感知できなかった。女の右肩の上に氷よりも青白い光を放つ刃先が触れていた。
斬られていない?
なぜ、退治屋は斬らなかったのか?
女は振り返る。
そこに金色に光る瞳があった。
「おお、その眼、まるで我が神が降臨されたあの時のような、まさかお主……」
女は思わず男の素顔に見惚れた。
その一瞬が永劫の時のようであった。
唯一、神の手に触れたあの日のことが目に浮かぶ。女の目に浮かんだ涙が凍りつくことなくその頬を滑り落ちる。
「その残念のみをここに断つ!」
女の輪郭に真白な着物姿の女が重なったかと思うと、その姿ははらはらと金色の粉と化し、やがて雪をまとった龍が昇るがごとく、上空高く風に巻き上げられていった。
勢三郎は、刀を振るわずしてその念だけを斬ったのである。
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