雪妖語り
水ノ葉月乃
第1夜
凍湖の畔1
彼の名は、
真正面から吹きすさぶ雪まじりの突風にその真一文字に結んだ唇が凍る。吐き出されたばかりの白い息は漂うこともできず遥か後方に流される。
「これでも吹雪とは言わぬのだったか…………」
村はずれまで案内してくれた里娘が言っていた。
これはまだ強い西風が地に積もった雪を巻き上げているだけだ。これからくる本当の吹雪はこんなものではないと。
膝まで沈む雪に、
勢三郎はふと立ち止まり、刀の柄を掴むと覆っていた布を取り払った。
ーーーー周囲は白い、腕を伸ばせばその指先が見えなくなる。雪が勢いを増し、風が吹きさらす一面の白色。
地吹雪が吹き荒れ始めた。
大地も白い。
目を細めても白以外の何色も存在しない。
夏であれば、ここには田んぼが広がっており、豊かな実りを期待する人々が汗を流しているはずだが今はただただ白い。
人の営みの痕跡すら雪は覆いつくしている。
ふと見上げれば、わずかに開いた
刻限は
風の中に時折、女がすすり泣くような音が混じっている。
「来たようだ」
勢三郎は、周囲の雪を踏み均し、少しでも自らが動ける範囲を広げた。
その音は次第に近づいていた。
西風が枯れ木を過ぎる時のような音だが、そうではない。
さらに強くなった風が彼の前髪を巻き上げ、周囲に粉雪の乱舞を巻き起こした。
右手を腰の刀に添え、勢三郎は腰を低くして、目を閉じた。
どのみち視界はあてにできない。
不意に顔を覆っていた頭巾がはためき流れ、一気に冷気に触れた耳が研ぎ澄まされる。近づく者の足音はない。降り積もった雪は全ての音を吸収する。聞こえるのは風音だけだ。
そこに月から零れた光の粒が集まって人になったかのような美しい女が立っていた。
長い黒髪の女は無言で勢三郎の背中を見ている。
強風が勢三郎の羽織の袖をバタバタとなびかせているが、その女の凍った髪は風に乱れることすらない。
「これは美しい男よ」
耳元でささやくような妖艶な声に、振り返りざまに銀の刃が閃いた。抜き放った刀は女の腹を斬ったかに見えたが、逆巻く風だけが空しく吹き抜けた。
「やはり
一瞬見えた女は人ならざる美しさを持っていた。その瞳は厳寒の夜の月明かりに似た冷たい輝きを放っていた。
勢三郎は再び刀を構えた。
再び白い風の中に消えた女の動きは見えない、匂いもしない。
あれが、村人が言っていた化生の者だろう。
この突き刺すような寒さの中、あのような裸同然の姿で平然としていられる人間などいない。
あれがこの地に漂う残念なのだろう。
残念、それはこの世にいつまでも残る強い思念である。怨念はその一形態に過ぎず、生き物に宿る魂魄とも異なる。
人の姿をした人ならざる者、その女の容姿は神の領域にあってあまりにも美しい。氷を思わせる無機質の美の結晶である。あれを、ある者は死をもたらす ”冬の妖霊” と恐れ、またある者は春の恵みをもたらす ”雪の姫” と崇める。
数百年も前に湖の神にささげられた女の念が幾世にも渡って人に憑りつき人を惑わす。
村人は恐れと祈りを込め、それを”雪女”と呼んだ。
女は道を迷わせる。
……雪の中、道を見失い凍った湖の薄い氷を踏みぬいて死んだ男がいる。
女は男を惑わせる。
……雪の中、女に抱きつかれて凍死した男もいる。
女は女に嫉妬する。
……凍って顔の一部が欠けた女もいる。
ーーーー雪原に桜の花が舞い散るかように幾たびかの光が瞬いた。そのたびに勢三郎の刀は
女の幻影を斬る度、勢三郎の指は次第に冷たくなり、その感覚が失われていく。
足場が悪い。踏み固めていない雪原はわずか数歩すら移動しがたい。斬撃に必要な足さばきすらできず、素早く女に斬りこむこともできない。加えて女の白い吐息がふっと触れるたびに、息のかかったところが凍り付く。
勢三郎の刀は、女をそれ以上近づけさせない役割しか果たしていない。
そもそもこの化生の者を刀で斬れるのであろうか。
女は、降り積もった雪と同じである。
雪を斬ってもまた降り積もる。斬った痕跡などすぐに跡形もなくなる。
勢三郎の体力がいつまでもつのか。
その逞しい背を見つめる口元が薄く笑った。
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