スライムの旦那は冷酷魔王
森野乃子
私は気がついたらスライムになっていた。
――ボチャン
そんな音がして、一瞬にして全身が熱くなる。
あまりの熱さに慌てて飛び起きようとして、飛び起きるために必要な手足が無いことに気づいた。
視界にうつるのはオレンジや緑。
どうやら黄金色をした灼熱の液体の中にいるらしいと気づいたのは、もがいた拍子にバチャバチャと水音がたったからだった。
若干ぬるつくこの液体が何かはわからない。
もがくことしかできず、無いせいで動かない手足に苛立ちながら「せめて呼吸だけしたい」と顔を起こそうとしたときのことだ。
ずぶりと何かが体に突き刺さり、そのままゆっくりと持ち上げられる。
「…………」
何かが刺さったわりに痛みはない。
顔についた液体が鬱陶しくて咳き込もうとして、手足が無いだけではなく口の様子もおかしいと知った。
一体私の体はどうしてしまったのかと身を震わせていると、目の前に無表情の綺麗な男がいることに気づく。
「…………」
そこでようやく気づいたのだ。
私は、人間ではなくなってしまったと。
「…………」
男の目にうつるのは、フォークに刺さるナマコのような物体。
察するにこれが私だ。びよんと伸びて垂れ下がった体には野菜のかけらが付き、ボタリボタリとスープの汁が垂れていた。
「――陛下」
「…………」
「陛下、大変申し訳ございません。魔物が迷い込んだようです」
魔物……とは、恐らく私のことだろう。
男のはるか後ろに控える燕尾服を着た老人が、顔を青くしてこちらを見ている。
しかし今しがた朝目覚めるようにして意識が湧いた私は、その直前まで人間だったのだ。何がどうなってこんなことになっているのか皆目見当もつかないが、私はついさっきまで確かに人間だった。
「――いや、どうやら余の番(つがい)のようだ」
眼の前の男がそういった瞬間、私でもわかるほど部屋の空気が凍る。
「……これが……余の番……」
そのつぶやきとともに下がる部屋の空気の温度。
私は全く悪くないが、男と老人の引きつった顔を見ると心の中が申し訳なさでいっぱいになる。
「おい、これはスライムか」
「……はっ……そのように見えます」
大変に申し訳ない。
見えるが喋ることはできず、動くこともできないただのスライムだ。
もしかしたらこれから成長するかもしれないが、記憶にあるスライムの情報とこの男の思うスライムが一致しているとすれば、私はきっと一生このままである。せいぜい大きさが変わるくらいだろう。
「本当にただのスライムではないか」
テーブルに降ろされ、抜かれたフォークで軽くつつかれる。
ぷるんぷるんと揺れる体は、まごうことなきスライム。弾力のある体が“健康なスライムである”と主張しているかのようだ。
「……これが……余の番だと……?」
重ね重ね、大変に申し訳ない。
+ + + + +
「…………」
男は無口だった。
「…………」
いや、無口なのか私に対して怒っているのかはわからない。
……いや、わからないとは言ったが、恐らくは後者だろう。
「…………」
それはそうだ。
だってこの男、陛下と呼ばれていた。
見るからに豪奢な服を着て、いわゆるワンレンと呼ばれる長い黒髪はシルクのように輝いている。頭の左右から生えた立派なヤギのような角は、磨かれた石のように輝いている。
たぶん、陛下というくらいだから魔物の王なのだろう。
それの番がスライムだと知れば、それは不機嫌にもなるというものだ。
魔物というのが実在しているだけでも驚きだが、魔物が物語で読んだような番に縛られる生態ということにも驚いた。
番とは強制的にベタボレになってしまう呪いのようなものという知識はあったが、目の前の男にはそれが適用されていないようだ。
まあ、仕方がない。私はスライムなのだから。
「…………」
それでも男は私を大事そうに両手で抱くとどこかの部屋に連れていき、油まみれの体に貼り付いた野菜を取り、石鹸水がたまった桶の中で丁寧に私を洗ってくれた。
黙ったまま私を何度か揉み込んでは湯を換え、それを三回ほど繰り返してからタオルの上にそっと置く。
「…………」
そして少し迷った後に、小さな壺から草のニオイのするクリームを出して私に揉み込んだ。
「魔族の中で最も力が弱く、知能も低いお前が余の番とは」
すみません。
「お前は少しもわからないだろうが、余は魔族の頂点に立つ者だ。その番が、スライムだと……?」
いえ、わかります。辛いですよね。
「急に現れたかと思えばこれだ」
ため息混じりにつぶやかれた言葉は、なぜか私の胸を少しだけえぐった。
「会話もできぬ者が余の番か」
そんなに嫌なら、窓から捨ててくれていいのに。
そう思って無い鼻と口でため息をついた時のことだった。部屋の扉がノックされ、扉越しに女の人の声がする。
「陛下、番様の世話をしに参りました」
「いらぬ」
その言葉に即答し、扉を睨みつける男。
「……ですが、あの」
「下がれ」
返答はなかった。
しかしぐんと空気が重たくなって、それと同時にバタバタと小さくなっていく足音が聞こえる。
そして上から降ってくる大きなため息。
「――全く。何を苛ついておるのだ余は……たかだかスライムではないか」
憎らしげな表情を浮かべ、男が私を片手で握りしめる。
それはやがて握りしめる、ではなく握りつぶす、といったような力加減になり、私の体はミチミチと音を立て始めた。
「番とは恐ろしい呪いよな」
痛みはない。
でもふたつに割れてしまうのではないかという謎の恐怖に襲われ、私はブルリと体を震わせた。
すると男は息を呑んで手を緩め、何故か傷ついた表情で私を見る。
「……いいか、スライム。脳みそも無いようなお前でも、命の危機くらいは感じ取れるだろう。お前は魔族にとって栄養価の高い食事だ」
そう言った瞬間に私から目をそらした男は、恐らくその光景を想像してしまったのだろう。
手で顔を覆い、ひときわ大きなため息をついた。
「……せいぜい死ぬなよ、スライム」
わかるよ。
スライムが捕食されている場面なんてグロテスク以外の何ものでもない。そんなものを目の当たりにしたら、トラウマになること必至だ。
なにせ私はどちらかと言えばスライムと言うよりナマコのような姿なのだ。私の知るスライムは透明度が高いが、私は不透明である。黒くて汚い。真っ黒ではなく、様々な色の“黒”が混ざり合っている。
私は一度ナマコが溶けてしまったのを見たことがあるが、あれは決して人の目に触れていいものではない。
「頭の痛い話だ……」
この綺麗な男が顔を歪めないように、私はこの男以外の魔物には見つからないようにしようと固く決意した。
そう、私は恩を仇で返すような真似はしないスライムなのだ。命の恩人が“するな”と言ったならば、私は確実にそれを守りとおしてみせよう。
+ + + + +
「おい」
怒気を帯びた低い声に、思わずビクリと身を震わせた。
「……生きてはいるようだな」
私は今、モズの早贄状態になっている。
部屋にいれば安全だと思っていたのだが、メイドが空気の入れ替えのために開けた窓から歯の生えた鳥が入ってきたのだ。
それはスウッと迷いなく私に近づくと、鳶のように私をさらっていった。
顔を青くしたメイドが何か叫んでいたが、鳥の飛ぶ速度があまりにも速かったので、メイドが何を叫んでいたのか聞き取れないほどだった。
そうしてその鳥は安全なところまで来ると私をいくらかついばみ、飽きると木の枝に突き刺してどこかに飛び去っていった。
「…………」
木の上で、恐らくは私を探しているのであろう魔物たちを見ていた。
番様、番様、と多くの魔物たちが行き来していたからだ。しかし私は声が出せない。動くこともできない。だからただ、長い間それをボウっと眺めていることしかできなかった。
「全く、お前は……」
ずぷりと枝から外され、見つめられる。
「……おい、この穴は元に戻るのか?」
穴の中に指を突っ込まれて身震いをする。
それが元に戻るかはわからないが、男が顔をしかめるので治せるように努力してみようと思った。
+ + + + +
「ねえ、聞いた? 番様を襲ったのはメグロ族の長の子供だったのですって。お散歩中に美味しそうなニオイをさせたスライムを見つけたから、ついパクっと食べてしまったらしいわよ」
昼寝をしている私の耳に入ってきたのは、メイドのこそこそとした雑談だった。
薄っすら意識が浮上していくが、私は寝たふりを続けることにした。
「仕方がないわよね。スライムは子供のオヤツですもの……でも窓を開けたメイドは首をはねられたんでしょう?」
「らしいわね。でもまあ、子供の方は……ほら、番様だから陛下が大変お怒りになっておられるでしょう?」
「まさか……」
「そうなのよ。子供のしたことと言う意見はあったのだけど、羽を両方とももいだらしいわ」
「まあ……まだ幼年期よね……? それにメグロ族が羽を失うだなんて……」
「番様なのだから、仕方がないわ。むしろ軽いんじゃなくて? 一族ごと潰さなかったのは“スライムが低俗な生き物だから愛情が薄い”って話じゃない」
「だから刑が軽くて済んだのね。それでもスライム相手ならずいぶんと重い刑だとは思うけど。メイドは首をはねられたんでしょう?」
「でもそっちだって一族はお咎め無しよ。だからきっと見せしめね」
そうか。
あの鳥は子供だったのか。
「さ、お喋りはここまでよ。早く次の掃除場に行きましょう」
そして、私のせいで羽をもがれてしまったのか。
「やだ、ちょっと待ってよ! あなたも掃除道具を持ちなさいよ!」
それはつまり、仕返しをしてくれたのだろうか。
別に仕返しをしてほしいとは思っていなかった。だって怒ってすらいないのだから。
それでも実際に人が死に、そして羽の生えた子供は羽を奪われた。
――ぞわりと肌が粟立つのを感じる。
でもそれが恐怖なのか、それとも喜びなのかわからない。
ただひとつ言えるのは、私の心臓――核が今までにないくらい震えているということだけだ。
「何があった」
恐らく私が人間であったら、叫んで飛び上がっていたと思う。
だがスライムなので、ただ体を大きく震わせるだけですんだ。
「何をそんなに震えている。言え」
いつの間にか私の後ろに立っていた男は、小さく「ああ」と声を漏らすとすっかり忘れていたとばかりに小首をかしげる。
「言えぬか。スライムだったな」
男は一人で顎を撫でて納得すると、興味を失ったように“そうだ”と呟いて部屋の奥へと歩いていった。
すぐに戻ってきた男は、手にベルトのようなものを持っている。
「魔除けだ」
網のようなそれを私の体にギュウギュウと巻きつけていく。
「力の強い者は無理だが、小童や小者くらいなら避けて通るだろう」
スライムなのだから網目からすり抜けてしまうのではと思ったが、それはうまい具合に私の体を締め付けた。
そして男は満足気に頷くと、留め金に付けられた小さなプレートを引っ張る。
「イシュルダ。お前の名だ。どうせ名など無いのだろう?」
いや、名前はある。
ただもうそれが少しも思い出せないだけで、人間であったときには確かに名前があった。
しかしつけてもらった名前は悪くないような気がする。
「ふん。あれだけ縮こまって震えていたというのに、だいぶ太ったな。機嫌がなおったか」
そう言って人でも殺しそうな笑顔を浮かべながら、男は満足気に鼻を鳴らすと部屋を出ていった。
イシュルダ。
これが私の新しい名前らしい。
+ + + + +
「蠱毒の穴へ」
私は今、男と一緒に会議に出席している。
男は私がさらわれてから、常に私を抱えて歩くようになった。そうしていると、男が城中の者に畏怖と尊敬の念を抱かれているのだと気づく。
すれ違う者は皆顔色を変えるからだ。発言をするときも恐る恐るといったようで、なにか反対されればすぐ自分の意見を引っ込める。
「陛下……!! お願いです、何卒温情を……!」
「必要ない。裏切りは不治の病と同じ。また繰り返す者に温情など無意味だ」
「陛下……! 陛下……!!」
壮年の男が引きずられていく。
顔は血の気を失い“蠱毒の穴”というのが死刑か、またはそれに準ずる刑なのだろうと察せられる。
我が身の破滅が確定した人とはああいう表情を浮かべるのかとぼんやりその姿を見送りながら、私は最初からずっと重苦しかった議会の空気が、より一層重いものになったことにため息をついた。
「……では次の議題に移ります。国境北側からの人族による侵略ですが――」
会議は淡々と続く。
無駄は一切なく、必要最低限の会話で進む。無駄口を叩くことは許されない空気のせいで、ただの会議なのに妙な緊張感が漂っているのだと思う。
その原因は、ただ一人の男だ。
「ではその侵入してきたという人族の首を全てはね、人族の都心に晒しておけ」
「しかしそう煽るとかえって反発があるのではないでしょうか」
「それ以上の力でねじ伏せればいいだけの話だろうが」
「ですが、この侵略は先月の挑発に乗った者の行動かと思われます。これ以上無駄に煽るのはいかがなものかと」
「貴様らができぬと言うのならば、余が一人で行くが?」
その言葉に誰も何も言えなかったのは、この男一人でそれが可能だと知っているからなのか、あるいは……
「……どうか、お考え直しを」
「いや考え直すのはお前だ。そもそも先月までに人族の全地を魔族で支配すると言っていたのに、一体何をやっているのだ」
「それは……色々と必要な準備が――」
「何を準備しているのだ? そんなに金がないか? それとも兵が足りておらぬか? どれも十二分に与えていると思っていたが」
「ですから、すぐに出兵すると言いましても――」
「いいか、余であれば」
そこまで大きくない声。
しかしこの男が今この場を支配していると誰も疑う余地のない声。
「準備などなくとも人族の地を平らげることができる。しかしそれではお前たちが成長しないと思い、もどかしく思いながらも全てを任せておるのだ」
「承知しております」
「では、疾く遂げよ」
静まり返ったそこで、それ以上口を開く者はいなかった。
「――ではこれにて本日の定例会議を終了いたします」
「いや待て。その前に一言ある」
まだあるのか。
とは誰も言わなかったが、薄っすらそんな気配がする。
「余の番を軽んじる者がいるようでな。これはスライムだ。気持ちはわかる。だが、な」
これ以上重くなるのかと思われた空気が、物理的にも重くなる。
何の力を使ったのか、調度品はガタガタ揺れ、シャンデリアはギシギシと鳴り、天井からは砂埃が落ちてくる。
みな、机の上に上半身を叩きつけられ、苦しげに呻いていた。
「わかるか? 余の番なのだ」
それだけ言うと男が立ち上がり、部屋を出る。
完全に扉が閉まるまで、誰一人として立ち上がることはなかった。
「……全く、使えぬ奴らよ。そもそも余は一人で生きていても問題なかったのだ。それを統べてくれというから面倒だと思いつつもやっているというのに、実際にやってみれば出てくるのは不平不満ばかり」
男は淡々と喋る。
「仕事ができぬことを周りのせいにして、何かにつけて理由をつけて先延ばしにするのだからな」
怒りというよりは、どちらかと言えば呆れたような口調だ。
「無論、人族の侵略に関してはこれ以上先延ばしするようならば余が出るが」
早足で歩いていた男は思いついたように立ち止まると、私を目線の位置まで持ち上げて小首をかしげた。
「ああそうだ、イシュルダ。お前もついてくるか?」
まさかあれほど止められたというのに人族と戦争でもやる気かと身構えれば、男は珍しく機嫌良さげに口角を持ち上げると、私を包む網に付けられたベルトを揺らしながら鼻で笑った。
「先程引っ張られていった男がいるだろう? 既に蠱毒の穴に投げ込まれていると思うが、最終的にアレを屠るのは余の仕事なのだ」
丁度新しい剣が手に入ったから、お前にも見せてやろう――男はそう言って再び歩き始める。
もし私に口があったならば、男がまるでピクニックに誘うかのようにして処刑場へ誘った段階で断っただろう。
しかし私は口を持たないスライムである。
拘束されているので歩けもせず、今はただ揺られるしかなかった。
+ + + + +
「あぐ……うっ……」
真っ暗闇。
その向こう側に、うずくまる男が一人。
少しだけ開けられて、すぐに閉められた扉。
いっそう闇は深くなり、男の呻き声が木霊する。
「どれほど蠱に喰われたのだ? 見る限り元気そうだな。やはり軍団長をしていただけはある。可哀想に蠱が全滅してしまった」
「ぐっ……ううっ……」
「しかし蠱の毒はなかなか消えぬものよな。顔色が悪いようだが大丈夫か? ほら、そこなど溶けているぞ」
男は腰に下げた剣を片手で掴むと、壁のフックに私のベルトを引っさげた。
私は壁にぶらりと吊られて、ただ目の前の光景を眺めるしかない。
「――さあ、体調が悪いところ申し訳ないが、そろそろやろうか」
男が放り投げた剣を、苦しんでいた罪人が必死の形相で掴み取る。
「ぐ……うぐっ……」
「余の番がお前の処刑を見たいというのでな。少し付き合え」
ああ、この人は本当に強いのだ。
まるで遊ぶようにして身を削ぎ落とし、彫刻するように表皮だけを刻んでいく。
一応剣を与えてはみたが、きっと罪人がそれを振るうことはないだろう。
「軍団長」
「ぐあっ……!!」
「お前、弱いな」
吹き飛ばされた罪人はうずくまり、もはや呻き声すらあがらない。
だから――
「大丈夫なのか、我が軍は」
だから油断したのだろう。
「全く……これでは人間が攻めてきたときに――」
私の方に差し出された罪人の手。
次の瞬間――私は木漏れ日の中、地面の上で転がっていた。
乾いた土、風で揺れる木々の葉。
どうやら外に飛ばされたらしいと気づいたのは、しばらくそれらを眺めた後のことだった。
もしあの男が少しでも私を大事にしてくれているのなら、きっと拾いに来てくれるだろう。というか、私は結構大事にされているようだし、きっと来てくれるはずだ。
でも、もし忙しくなければ今すぐに来てほしい。
「シュシュシュ」
目の前の黒い獣が、私を食べてしまう前に。
+ + + + +
「忌々しいことよな」
すぐさま罪人の首を跳ね飛ばして魔力の軌跡を追って来てみれば、そこは魔族の領地と人族の領地の境目。
あの男に転移魔術の能力があったとはと後悔してみても、過ぎたことは仕方がない。
今はより早く魔物にとってのご馳走――番のスライムを見つけるのが先かとため息をつき、微かに残る魔力の軌跡を追う。
そして草木の間で見つけたのは、細切れになったスライムの肉片だった。
「…………」
それはポツポツと地面に転がり、まるで道標のようにして地面を彩っている。
「…………」
すうっとそれを目だけで追って行けば、荒い息でバクバクとスライムをかじる小型の魔物がいた。
「――ああ」
魔物の首が落ちる。
「しまった。すぐに殺してしまった」
ぐちゃりと足の裏でそれを踏み潰してから、スライムの残骸と見比べて顎に手をあてる。
「余の番が腹の中にいるのであれば、胃だけでも食べるか」
そう言って男は魔物の腹を割くと、出てきた胃を一口で飲み込んだ。
「美味いな」
しばらくボウッとしてから、スライムの残骸に手を伸ばす。
その時男は、ようやく自分の手が震えていることに気づいた。
「おい」
スライムはピクリとも動かない。
「……生きているか」
しゃがみ込み、核が傷ついていないかを確認する。
それが傷ついているのではないかと思うと、触ることすら恐ろしい。
そう、男は初めて何かを恐ろしいと思ったのだ。
「…………」
しかし何度か手を引っ込めた後にそれを人差し指でつついてみれば、少しだけ転がった核が未だ真円であると確認できる。
ようやくそれで大きく息を吐き出し、自分が息を止めていたことに気づいた。
「大丈夫だ。すぐ元に戻る」
核を大事に抱えあげると、男は再び深く息を吐いた。
「よもやスライムに心臓を止められそうになるとはな。げに恐ろしき生き物よ」
男の顔は血の気を失い、唇も手も震えている。
しかしそれに気づいた様子もなく、指の一振りで自らの部屋へと戻っていった。
+ + + + +
「ようやく拳大くらいにはなったか」
私は核だけになって草木の陰で転がっていたらしい。
それを見つけてくれたこの男には感謝してもしきれない。
男は栄養だと言って様々なものを食べさせ、潤沢な栄養によってようやく肉がついてきたところだ。それでも私のサイズは人の拳ほどの大きさしかなく、まだ元の状態とは言い難い。
「なんだ、まだ足りぬのか? メイドに追加の食事を持ってこさせよう」
そう言って魔力で伝令を飛ばし、男は会議に行くための資料を手にとった。
そして扉の前で一度振り返り、目を細めて私を見る。
「今日はそこにいろよ。この間のように抜け出せば、今度こそ貴様の核を潰してやるからな」
そう言って男が出ていったのを見送って、気配が消えてからもしばらくはジッとする。
やがてもういいだろうと思った頃に、私は丸いフォルムをグニグニと変え始めた。
そう、私は姿を変えることを覚え始めたのだ。まだあの男にはバレていない。
今は小さな小鳥にしかなれないが、あの丸いままだったときよりかなり進歩した。
何故このようなことをしているのかと言えば、あの男に直接お礼が言いたいからだ。つまり、いずれは人間の形になるのが目標で、人間の形をとれた暁には「あのときは助けていただいてありがとうございました。名前を教えてください」と言いたいのだ。
男は知らない。
私が小鳥になれることを。
男は知らない。
私が小鳥から、小人のような形を取りつつあることを。
あとは肉さえ付けば、幼女くらいの大きさにはなるだろうか。
でもできればもっと肉をつけて、成人女性くらいの大きさにはなりたい。
そしてもし可能であれば、男に私を愛してほしい――そう思ってしまったのだ。
スライムの旦那は冷酷魔王 森野乃子 @noko_morino
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