2-3

 篤史が一緒に住みたいといったとき、早苗はそれをプロポーズの言葉として受け止めた。


「引っ越しするのは大変だろうから、オレがそっちに行ってもいいかな」


 手狭なアパートだったが篤史からの申し出に二つ返事で承諾した。

 新しい生活を始めるのにふさわしい場所というのを夢見たが、たしかに先立つものが必要だし、なによりもたもたしていたら気持ちが冷めて離れていってしまう。

 こちらの事情はすべて包み隠さず伝えてあったし、それでもなお一緒に住もうというのはもう、一生一緒にいようということしか考えられなかった。


 篤史はバッグひとつでやってきて、大きな荷物は貸倉庫に預けてあるから無理にスペースを空けてくれなくていいといった。

「これが断捨離ってヤツなのかな。なんか、倉庫に預けているものなんて、なくてもいいものばかりだよ」

 早苗さえいてくれたらそれでいい。

 調子のいいことばかり言って、と冗談を返してもその頃の篤史は笑い飛ばして抱きしめてくれたものだった。


 一変したのは絵梨香が食事を半分以上残したときだった。

「せっかくママが作ってくれたのに食べないと」

 篤史は語りかけるようにいったが、絵梨香は「いらない!」と目の前の食器を遠ざけた。

 お腹がいっぱいでもないし、嫌いなものでもないけど、まだ4歳の子供だからたまにこういうことはあった。


 早苗ならため息とともに飲み込むのだが、篤史はいきなり沸点までに達した。

 お皿の上に残っていた豆腐ハンバーグをつかむと、絵梨香の口に押しつけ「食べろよ」と恐ろしく低音を響かせていった。

 絵梨香が篤史の手を払うとそのまま絵梨香を平手打ちした。豆腐ハンバーグが絵梨香の頬で潰れ、絵梨香は頭をテーブルに打ち付けた。


「なにするの!」

 早苗は信じられない思いで絵梨香の頭を抱えた。あまりに突然起こった出来事に絵梨香は呆然としていたが、やがて聞いたこともないような大声で泣きはじめた。

「ちゃんとしつけろよ」

「そこまですることないでしょ」

「断言する。次からは絶対に残さない」


 篤史のいうことは正しかった。

 絵梨香は二度とご飯を残すようなことはなかった。

 子供とはこういうものだと決めつけていたのは早苗の方であったと反省までした。

 やはり、この子には父親が必要であったのだと。


「不憫な子だなって、甘やかしてわがまま放題に育てて、本当に困るのは絵梨香なんだから」

 篤史自身も両親が離婚し、その後、母親が育児放棄をして祖父母に預けられたと語った。

「厳格な祖父に厳しくしつけられてオレみたいなのが仕上がったんだけど、どう思う?」

 と聞かれ、早苗は「好きよ」と、取り繕うようにいったが、その気持ちに偽りはなかった。


 絵梨香がいい子でいられればこれ以上のことは起こらない。

 平穏に3人でずっと一緒に暮らしていける。

 何度起こっても同じことを思った。

 篤史のことを嫌いになれる気がしなかった。


 あの日、篤史がどうしてもコンビニで売られているチキンが食べたいというので、仕事の時間が迫っていたが買いに走っていた。

 帰ってくると絵梨香の姿が見えなかった。篤史はゲームに夢中になっている。

 好きなことを気の済むまでやっているはずなのに、ゲームをしながらイライラしていることも多かった。今、話しかけるのは危険だった。


 出かける支度をするふりをしながら押し入れを開けたりするが、どこにもいない。外へ行ったのか。

 あきらめて洗面所で化粧を直そうとやってきたら、ドラム式の洗濯機の中に絵梨香が丸く収まっているのが見えた。

「なにしているの!」

 早苗は卒倒しそうになりながら、レバーを下ろして扉を開けた。不安げに絵梨香がこちらを見ている。絵梨香が一人で閉められるはずはなかった。


 すると、「勝手にさわんな」と走り寄る篤史に突き飛ばされて、早苗は床に転がった。

「目障りなんだよ」

 ゾッとした。

 もう一段階ぶち切れたら洗濯機のスイッチを入れてしまいそうだった。

 扉を閉めると篤史はゲームをやりに戻っていった。そばに置いてきた唐揚げを頬張っている。


 早苗は支度を済ませ、今度は音を立てないように扉を開けた。人差し指を唇に当て、絵梨香に合図を送り、引きずり出した。

 背に隠しながら玄関へ押しやり、「いってきます」と声を掛けた。篤史はゲームに夢中で見向きもしなかった。


 外階段を下りて絵梨香に言い聞かせた。

「部屋に戻ったらダメだからね。約束できる?」

「うん」

 コンビニで買ってきた唐揚げが入った袋を渡した。

「じゃあ、これ食べてて。見つからないようにね」


 それが、最後だった。

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