1-3
急に気配を感じた少女は飛び退いて声を上げた。
「誰?」
生徒でもなく教師でもなく、学校関係者ともおもえぬ風貌の第三者の侵入に驚いた。
この男は何者だろう。
何者だろうが邪魔はさせない。ようやく手に入れた安寧の場所なのだ。ここを離れたら意気地のない自分にまた追い詰められてしまう。
少女はただただ黙って男を見ていた。
男はまっすぐ空を見ていたが、やがて少女と向かい合った。
「この世に未練を残すことなく成仏するため、最後に伝えたい人に気持ちをお届けする、言伝人です」
「……は?」
少女は拍子抜けしたように目をしばたたかせた。
この状況は誰が見たって投身自殺を図る寸前で、こんな場面に遭遇したら赤の他人でも引き留めようと画策するものなのに、この男ときたらなにを気取っているのかと、腹立たしいというよりはあきれかえった。
「あのね、最後に伝えたいことって、そんなことなら、そこにしたためてあるから。っていうか、この世に恨みを残すために死ぬのよ。わたしをいじめたヤツらが、自分のせいで死んだんだって自責の念にかられるように」
少女は口に出すうちに、より気持ちが強固になっていくと感じた。
どんな仕返しだって飽き足らない。
生ぬるい仕打ち。生半可な反抗。どれをとっても現状を打開していく手がかりとはならない。
ただ、追い詰められた自分が最後の最後に抱く感情が怒りだとは思わなかった。
心残りな自分の未来。
そんなものはないと思っていた。
最後まで手放せずに取って置いたものが、心のどこかにまだ残っているのなら。
それが未練というものだろうか。
でもそれは、誰かに伝えてほしいというものではない。
「あなたに伝えてもらいたいことなんてなにもないわ」
「ああ……いえ、あなたの気持ちではなく、お父様から預かったお気持ちを」
「父? なにいってるの。お父さんはわたしが小さい頃に死んだのよ」
「ええ。あなたがまだ小さく、『死』というものを理解できずにいたので、少々遅れてしまいました。では、お父様からの言伝を」
男は中折れ帽をとると、うやうやしく頭を下げた。
紫乃。どんな子になっていくのか、どんな女性になっていくのか、この目で見たかった。
紫乃の「初めて」をもっと見たかった。
……いや、でもファーストキスだけはゴメンだけど。
人並みに父親らしいことをしたかった。
だけどオレは誰のことも恨んでない。
だからお前も誰のことも恨んでくれるな。
オレの分までしっかり生きてくれ。
記憶の中にもない写真立ての中だけの父親は、いつも少女の空想を掻き立てていた。
父が生きていたら。こんな本を読んでくれていただろう。かけっこで1位になったときは自分より大はしゃぎするだろう。初めて自分で前髪を切ったときは失敗して母は怒ったけど、父なら笑ってくれただろう。
でも、いつしか父のことを空想しなくなっていた。
思ったのは父を跳ねた人への恨み。
ベビーカーを引く女を恨みに思ったことも。
そして、父を恨みに思ったことも。
「お父さん――」
少女は初めてその名で呼びかけた。
言葉を初めて話したその日のことだって覚えていない。でもそれを父は体験したかもしれないのだ。
この先もまだ、「初めて」があるだろうか。
死ぬのは誰だって1回きりだ。
その「初めて」は、父が一番望まないことだった。
毎日同じことの繰り返しのようでいて、明日という日は初めてやってくる日なのだ。
明日は何かが違う一日になるだろうか――。
気づけば目の前から男が消えていた。
振り返ればドアの方へ向かって歩く後ろ姿が見える。
くしゃっと握りしめた封書をポケットに突っ込んで。
※
少女の知らないところで、ポケットの中の懐中時計は、この世での時を刻みはじめていた。
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