第5話 終わりと始まり
次の日、真緒はバイトが休みだった。
そして、昨日の夜の事を思い出していた。
雨の音の中で、周志の、聴こえるはずのない泣き声と、見えるはずのない涙が、頭の中で同時進行でリフレインしていた。
『泣いていいんです。ありがとさん』
その言葉に、周志は、
「はい…はい…ありがとうね、お嬢さん…」
と繰り返していた。
「もう大丈夫ですから…」
そう言われて、真緒は心配で仕方なかったが、レジを放っておきっぱなしだった事もあり、周志に促されるまま、店に戻った。
その後も仕事が手に着かないまま、その日のバイトを終えた。
2日後、真緒はしょんぼりして仕事をしていた。
「井戸川さん、最近ずっと元気だったのに、今日は元気ないね。大丈夫?」
「あ、すみません、次長。大丈夫です」
慌てて、止まっていた品出しの手を働かせ始めた。
その日も、20時36分、ありがとさんがやって来た。
品出しをしていた為、いつもの栄養ドリンクコーナーを見られなかった。
急いで品出しを終えると、ありがとさんが店をれる前に、真緒は次長の所へ走った。
「すみません!次長、今日体調悪くて…。早退してもいいですか?」
「いいわよ。もう今日の井戸川さんのレジ、入りないし。気を付けて」
「はい。すみません」
もう店を出てしまったと思われる、周志をかろうじて100m以上離れた場所で見つけた。
「ありがとさん!」
起きな声で周志の歩みを止めた。振り返ると、そこには頬を真っ赤にした真緒がいた。
「お嬢さん。どうなさったんですか?」
「昨日は差し出がましい事言ったりして、すみませんでした」
「そんな事を気にしてくださってたんですか?ありがとさん,
嬉しかったですよ」
一昨日の夜、真緒はありがとさんがどんな失敗をして、どんな風に怒られたのか、想像しても、妄想しても、高卒で、就職活動もした事のない真緒には、到底計り知れなかった。
只、聞いてほしかった。自分の父親ならどう言ってくれるのか、どうしても分からないから。
「あ、ありが…あ、森さん」
「ありがとさんで良いですよ。私もその方が嬉しいですから」
一昨日とは少し離れた公園で周志と真緒は話をした。
「私、夢や目標がないんです。芸能界とかにも興味ないし、勉強が出来る訳でもないし、スポーツも得意じゃないし…。自分はこのまま何処に向かえばいいんだろう?って、目の前が見えないんです」
「そんな事ありませんよ。お嬢さんにはあんな素敵な張り紙を描く素晴らしい才能と、その紙を見て、どんな人が、どんな風に救われるか、見届けると言うとてつもない夢と目標にあふれていると思いますよ」
「…」
「少なくとも、私は救われました」
「本当ですか?」
真緒は周志を覗き込んだ。
「はい。本当ですよ」
周志が微笑んだ瞬間、二人の上から雪が降ってきた。
「私は、今年度、定年なんです。定年したら、ゆっくり田舎で過ごそうかと思ってそろそろ荷物を整理している所なんです」
「え?!ありがとさん、引っ越しちゃうんですか?!」
「はい。後3ヶ月ほどで」
「そんな…」
真緒は、2度、父親を失うような悲しみに、堪らず喉から込み上げた涙が頬を伝った。
「お嬢さん?どうしました?」
周志は、思わぬ展開に、おろおろするほかなかった。
「ありがとさんは…私のお父さんみたいな人で…もう死んじゃったけど…まだ5歳の時だったから、ほとんど覚えてないけど、優しかったなぁ…って、ありがとさんみたいな人だったなぁって…思って…」
「そうですか…お父さん、いらっしゃらんかったんですね…。私も似たようなものです。妻に10年前先立たれ、子供はいませんし、万年係長で、仕事が出来るなんて嘘でも言えません」
「良いんです。そんなお父さんで。私の理想の父親像なんです。ありがとさんがいなくなったら、私、きっと今よりもっと、ずっと、夢も目標もなくなっちゃうと思うんです…」
「…そんな事ありませんよ、お嬢さん。私のように、お嬢さんの張り紙に、店に入った時と、出て行く時の『ありがとう』が励みや、元気をもらっている人は、必ずいます。たくさんいます。大丈夫です」
「ありがとさん…」
「だから、私の事を考えてくださってたように、お店に来ているお客さんの為に、これからも、お嬢さんの張り紙、頑張ってたくさん描いてください。お願いします」
その言葉に、やっと涙を堪えて、真緒はきっと口を結ぶと、
「森係長、私、頑張ります。これ、今までの森係長の為に書いたポップ、もらってくれますか?これはお守りです。係長が悲しくなった時や辛い時、見て、また頑張ろうと思ってくれるって約束してくれたら、私もこれからもお店に来てくれるお客さんの為に楽しくて癒されるようなポップを書く事を約束します」
「井戸川さん、約束します。私も井戸川さんの張り…ポップ、大事にしますから」
二人、ベンチを立つと、深々とお辞儀をして、
それぞれ、歩き出した。
周志の引っ越しは、終わりじゃない。
真緒は周志から授かった、『私以外にも励まされる人は必ずいる』の言葉を胸に、明日からも、ポエムで、これからもポエムで、骨をうずめる覚悟で、毎日ポップを描こう、と決意を抱いて。
周志は孤独から救ってくれた真緒に、とても感謝していた。
その上で、こんなおじさんに元気をくれた、真緒と言うお嬢さんのの想い出を退職の代わりに、手に入れる事が出来た。
一生の思い出だ。
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