第4話 おじさんの涙

それから、真緒は一層ポップを書くのに励んだ。ただ、周志の笑顔が見たくて。


初めて会話を交わしてから、3週間。

周志は変わらず毎晩ポエムに訪れた。そして、真緒がレジ担当の時に、胸の名札を見て、

「お嬢さん、あ、井戸川さんとおっしゃるんですね。今晩もありがとうございます」

「いえいえ。こちらこそ、毎度ありがとうございます」

と軽く話す事が出来るようになった。



ある日、周志は会社でちょっとしたミスで、上司にえらく怒られた。


その原因は、梅谷の作った、大事な会議資料の数字の間違いだった。

しかし、資料を細かにチェックしなかったのは周志だった為、周志は何も言えなかった。と言うより、何も言う気はなかったし、自分のミスだと、深く反省した。


「何をしているんだ。森くん!これだからその歳になっても係長なんだ。訳が分かるよ。まったく」

「申し訳ありません。申し訳ありません」

周志はただただ謝るしかなかった。会社が万年係長の自分を鬱陶しく思っているのは重々承知していたし、期待されてなどいない事も分かっていた。

それでも、怒られるのに、慣れるという事はなく、自分の不甲斐なさに打ちひしがれた。


周志は、重い足取りで、それでもいつも通りポエムに立ち寄った。

その日は前回のポップから4週間経っていて、真緒はウキウキで周志を待っていた。


22時過ぎ、この時間にはお客さんはもうぽつぽつしか来ない中、真緒は周志がくることだけを楽しみにしていたが、周志が中々来ない。

(ありがとさん…いつも21時くらいには来るのに…どうしたんだろう?)

そんな風に待っていると、自動ドアが静かに開いた。

(あ!)

周志だ。

(あれ?)

何処か元気がない事に、真緒は気が付いた。足取りも何処か重い。それでも、周志はいつも通り栄養ドリンクコーナーに向かった。そこには…、


【大人が泣いちゃダメって誰が決めたの?泣きたいときは泣く!その涙が一番の栄養ドリンクですよ!】


レジにお客さんが来てしまって、真緒はありがとさんがポップを見た反応を観る事が出来なかった。

しかし、周志が財布をポケットに入れようとして、誤って落としてしまい、それに周志は気づかず店を出て行ってしまった。

(あ!)

真緒はそれを見た瞬間、レジの仕事を放り出し、ドアに向かい、その財布を拾った。

そして、二つ折りのもう何年も使い込まれた…と言った感じの擦り切ればかりの財布の中に、免許証が見えた。


”森周志”


そう名前欄には書いてあった。

(森さん…)

その名前に気がいって居る内に周志は店からどんどん離れて行った。

「あ!やば!」

真緒は、慌てて周志の後を追った。

店外に出ると、雨がすごい勢いで降っていた。周志は濡れるのを気にするような感じには見えなかった。

(何か、あったのかな?)

自分もびしょ濡れになりながら、周志を追う真緒。

「すみません!あの!お客様!」

轟轟たる水音で真緒の声がかき消される。

「あの!すみません!あ…ありがとさん!!」

思わず、名前を知っていたのに、いつもの癖で、周志をと呼んでしまった。

(て、これじゃ声届いててもわかんないじゃん!)

自分に突っ込んだ瞬間、

周志が30m先で振り返り、足を止めて真緒を見ている。

(あ!気付いてくれたんだ!)

そのまま周志のもとへたどりつくと、

「すみません、これ、店のドアに落ちてて…」

息を切らし、とりあえず、隣接しているスーパーの中で雨宿りしながら、真緒は状況を説明した。

「あぁ…すみません。少しぼーっとしてたものですから…財布、確かに受け取りました。ありがとうございます…お嬢さん」

「あ、いえ…。ありがと…森さんって言うんですね。お名前。お財布の免許証が見えてしまって…。…元気ないですね。どうかしたんですか?」

「あぁいいえ。お嬢さんの張り紙に、今日も励まされまして…こんなおじさんの私でも、泣いて良いですかね…?」

「え?何かあったんですか?」

「いつもの事です。ちょっと仕事でミスしましてね…」

「そうですか…」

真緒はそれ以上何も言えなかった。いくら真緒が親しみを抱いていても、周志にその心は読めるはずもなく、真緒も真緒で、周志の笑顔が見たいという理由だけでポップを張り切っていたけれど、その、栄養ドリンクを買う周志以外、何も知らない。

それをこの瞬間に思い知った。

「あの、じゃあ、私店に戻らなければならないので…」

冷静になって、自分が仕事中だったと思い出した。

「はい。ありがとうございました…」

「いえ。またのお越しをお待ちしております。では…」

そう言って、スーパーのベンチから腰を上げよとした時、

「あの、一つ良いですか?先ほどとおっしゃいましたが、私の事ですか?」

「あ…すみません。心の中で勝手にそう呼んでました。いつもレジの最後に『ありがとう』って言ってくれるので…つい」

「そうですか。今夜のような重い気分の時、そんな風に呼んでいただけてた事を知る事が出来て、何だか報われた気がします。ありがとう。お嬢さん」



「……」



長い沈黙の後、真緒は一言言った。



「泣いていいんです。ありがとさん」



「……」



震える頬と唇を隠すように、周志は右手で顔いっぱいを覆うと、静かに、小刻みに鼻をすすった。

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