第12話 お嬢様を満たすもの
薄暗い廊下を進み、途中で左に曲がる。
初めて訪れる場所で心細さに駆られながらも、両手では砂糖がたっぷりまぶされたベニエを包み込んでいる。もう手のひらはベタベタだ。
やはり部屋に戻ればよかったと、早々に思い直す。屋敷を出歩くなと直接言われたわけではないが、深夜にベニエを持ってうろつく奴なんて怪しすぎる。
そんなことを考えていれば、月明かりが扉から漏れた部屋の前までやって来た。
「――」
中からまた、物音がした。
誰かしらがこの部屋にいるのは間違いなさそうだ。
俺はこの別邸に出入りしてる人間も知らない。顔を合わせているのは、クリスティーナお嬢様とクリア、そしてクリアの使い魔のシャル。
別邸といえどかなり広い建物だ。清掃するにも人手が必要だろう。
ということは、この部屋の中にいるのは、俺の知らない別の誰かという可能性もあるわけだ。
ごくりと生唾を飲み込み、扉に手を添える。
神経を研ぎ澄ませると、部屋の中の音がより鮮明に聞こえてくるような気がした。
開いた扉から、中を覗き込む。
薄暗がりの中に見えてきたのは、俺のよく知る人物だった。
「……お嬢、さま?」
驚きのあまり緩んでしまった口元を、自分の腕を使って乱暴に覆い隠す。
俺は一度、体を後ろに引き、見た光景を頭で整理した。
薄暗い部屋の中。
窓際に敷かれた小さなマットの上にぺたりと座り込むクリスティーナお嬢様の姿。
お嬢様が座る周囲には、大量の菓子が乱雑に置かれていた。
茶色の紙袋が数袋と、大皿がひとつ。
大皿には色んな種類の菓子が溢れるほどに積み上げられていて。
それをお嬢様は、無我夢中に頬張っていたのだ。
扉が開いていることで聞こえてくる、わずかな咀嚼音。
手に掴んだものを口に放り込んでは、また新たなものを手にして流し込む……その繰り返しだった。
「……」
しっかりと閉じられた片方の扉に背を預け、再び部屋の中に目をやる。
白いレースの寝衣に食べカスがこぼれ落ちようとも、お嬢様はまるで気にした様子はない。
それどころか瞳は心ここに在らずといったようで、暴食行為を無心におこなっているように思えた。
大皿の端には、粉砂糖がたっぷりまぶされたベニエがあった。俺の手にあるものと全く同じものだ。
心臓が、ばくばくと速度を上げ動いていた。
見てはいけないものを見てしまったからなのか、俺の動揺は凄まじい。
出会ってから今まで、あんなお嬢様を見たことがなかった。
俺といる時、お嬢様はいつも笑っていた。
優しくもどこか大人びた雰囲気があり、標準よりも少しふくよかな見た目をした、可愛らしい十歳の女の子。
それは俺が、出会った日から今日までに知った、クリスティーナ・エムロイディーテ。
その見る影もないほど、暴食の手を止めないお嬢様の姿は――異質だった。
「……ぁ」
震えた俺の手からベニエが床にころがり落ちる。
慌てて拾おうとその場にしゃがみ込み、丸いフォルムに手を伸ばした。
――その時。
「貴様、ここで何をしている」
低く響いた声とともに、背後から冷たく尖った何かが首横に当てられた。
背中に突き刺さる殺気のような空気が痛い。
息をするのもやっとで、初めはなにが起こっているのか理解が追いつかなかった。
「抵抗の意がないならば手をあげろ。さもなくば首を落とす」
首を斬られるなんて堪らない。
俺は大人しく従う。
背後にいる者が誰なのかは、相手の二言目で分かった。
本当に殺す気で刃を向けているのか伺いようがないが、俺も怪しまれる行動をしてしまったと自覚している。
それと……単純に怖すぎる。普段のあの冷めた対応の比ではない。
これは真のブリザードのような空気だ。
剣でやられるより先に氷漬けにあいそうだと本気で思った。
「……クリア」
俺はゆっくりと立ち上がり、手を肩の位置に固定したまま振り向く。
「……」
予想通り、うしろにいたのはクリアだった。
クリアは足元を覆うほどの黒いローブで全身を隠し、頭にフードまで被っている。
室内ではあきらかに浮いた格好だ。
まるで外から帰ってきたような姿に、俺は内心頭をかしげた。
「そのまま黙って自分の部屋に移動しろ。弁解があるならばそこで聞く」
疑った目付きを向けてくるクリアに、俺は何度も首を縦に振った。
出来心で廊下をうろついてしまったことをとりあえずは謝ろう。
悪意はないが、間違ってもクリアに黒だと思われてしまったら俺の命はない気がする。
***
部屋に到着してからも、重たい空気はついて歩いた。
「なぜ、あの場所にいた?」
「その……まずこの部屋の扉が開いてて、閉めようとしたら隙間から廊下側の床にベニエが落ちてるのが見えたんだ……です」
クリアのえらい剣幕に、語尾がおかしなことになっている。
顔は強ばっているが、俺の説明をクリアは黙って聞いてくれていた。
口を挟む様子もないようなので、俺はあったことをそのまま伝える。
「廊下に出てベニエを拾って部屋に戻ろうとしたら、廊下の奥から物音がして……つい足がそっちに動いて」
「あの部屋の前まで行ったと?」
「……そうです」
言いながらチラッとクリアを盗み見る。
クリアの手にある剣は、俺に狙いを定めたままだ。
「その落ちていたベニエというのは」
「……あ、これだけど」
刃を首に当てられはしたが、落としたベニエはちゃんと回収していた。
「……真実のようだな」
クリアは砂糖まみれの俺の手とベニエを交互に確認すると、深いため息を吐きながら剣を下ろした。
「悪かった。私の早合点だったようだ」
ついでに被っていたフードも外し、ようやくクリアの顔全体が見えるようになる。
顔がはっきり見えたことによって、いかにクリアが俺に対して怒っているのかが分かった。
イケメンの怒り顔って迫力ありすぎだろ……こわ。
「だが……落ちた菓子を拾ったとしても、お前はそのまま部屋に戻るべきだった。軽率な行動で疑われると知っていながら、なぜそんなことをした」
「なぜって聞かれると……なんか、妙に気になったというか」
「本当にそれだけか?」
「あわよくば拾ったベニエを落とした人に届けようと考えてたぐらいで、あの部屋がクリスティーナお嬢様の部屋だってことは知らなかったし……」
それを聞いたクリアは、呆れたように顔を手で覆った。
「はあ……そんな落とした物を届けてどうするんだ」
「……まあ、食べませんよねー普通は。俺は気にしないで食べられるんだけど」
ははは、と乾いた笑いが出る。
重くのしかかっていた空気が、ほんの少しだけ軽くなった。
「つまりは、見たんだな」
クリアの問いに、何をとは聞かない。
俺は無言のままうなずいてみせた。
「……そうか」
クリアはバツが悪そうに視線を落とす。
易々と触れて欲しくない話題なのだろうと察していながらも、俺は理由を尋ねた。
「クリスティーナお嬢様は、どうしてあんなことに?」
「……お前が知る必要はない」
質問はバッサリと切り捨てられる。
知る必要がないといわれても……あんなお嬢様を見てしまっては納得がいかない。
「俺だってお嬢様の従者なのに、どうして知る必要がないって言えるんだ」
「……」
しかしクリアは答えない。
このままでは拉致があかないと、俺は敢えて突っかかってみせた。
「お嬢様があんな風になってるのに、どうして止めないんだよ」
「……なに?」
「知ってるなら止めるべきだ。あれじゃ体に悪いことぐらい分かってるだろ。それなのに、どうしてそのままにしておくんだよ」
クリアの眉間に皺が寄った。もう一押しと俺はさらに追及する。
「俺ならお嬢様の体が心配で気が気じゃないね。なのにクリアはよく平気そうな顔していられ──」
「……黙れ!!」
クリアの怒声が、室内に大きく響き渡った。
噛み付くような瞳がこちらを捉え、ぎろりと光が反射する。
「……平気そう、だと? 平気だって? ――そんなはずがあるものか!!! 何も知らない奴が知ったような口をきくな!」
いや、本当にそうですよね。ぽっと出の俺がなに偉そうなこと言ってるんだって話ですよねはい。いやー生意気すぎて腹立たしいですよね。
クリアの怒号に圧された俺は、心の中でぺこぺこと頭を上下に振る。
挑発まがいのことをしたのは俺だが、こんなにも上手くクリアが乗ってくれるとは思わなかった。
こんなにも感情的になったクリアは初めて見る。
「……くそっ」
そう吐き捨てた横顔は、単純な怒りからくるものではない。
辛そうに歪んだその表情は、クリスティーナお嬢様をどれだけ想い、あの現状に胸を痛めているのかが見て取れる。
「……ごめんなさい。いや、すみません。吹っ掛けるようなことを言って」
「っ!」
クリアは我に返って俺のほうを見る。
気まずそうにした俺の情けない顔で意図を理解したらしい。
整った面差しをくしゃりと崩し、力なく笑ってみせた。
「……気が立っていたとはいえ、お前の分かりやすい挑発に分別を失うとは。どうかしていた」
いつものクリアとはかけ離れていたが、むしろ感情を表に出した様子は十一歳の子どもらしかった。
しかしそれはクリアのプライドに反するのだろう。
「……あのような食生活が体に害を与えているのは重々承知している。だが、自分から肌を傷つける行動に出るよりは……良いだろう?」
クリアは悲しそうに瞳をすぼめる。
「肌に、傷?」
「……あれが、お嬢様を満たしている。異常なまでの食事の摂取……そうすることでしか、お嬢様の心は満たされない」
頑なに口を結んでいたクリアは、あっさり教えてくれた。
どこか投げやりに伝えられたお嬢様の事情に、俺の肩がギクリと跳ねる。
……ああ、俺ってバカだなぁ。
小説とは違って今のお嬢様は元気そうだと、そう呑気に思っていたのだ。
お嬢様の本当の心の裏側なんて、覗いてすらいなかったというのに。
闇の精霊によって母を失い、父親は彼女を遠ざけ、同じ敷地内にいながらも居住は別々。
小説と同じく紫と黒が混ざった髪と目の色をしているのならば、すでに周囲から「呪いの子」と噂されているのも想像がつく。
だというのに、どうして俺は大丈夫そうだなんて考えていたんだ。
大丈夫なはずないだろう。
家族でありながら、お嬢様だけが違った場所に住んでいる状況。
それだけでも普通の子どもなら心に負担が掛かるはずだというのに。
──わたくし、こんなに醜いの。とっても醜いの。まるで豚のように膨れ上がって目も当てられないわ。こんな恥を晒した姿のわたくしを……誰からも愛されないわたくしの気持ちなんて、恵まれたあなたに分かるはずがないじゃない!!!
それは闇堕ちする寸前、主人公に放ったクリスティーナ・エムロイディーテの台詞だった。
心を満たすための暴食による――体型の変化。
お嬢様の闇堕ちの片鱗は、もうすでに起こっていたのだ。
── ── ── ── ── ──
ありがとうございました。
あと数話で一章は終わります!
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