第11話 誘(いざな)いのベニエ



 その夜は、昼間に長く寝ていたこともあり目が冴えていた。

 時計の針は夜中の十二時を差している。

 もうそろそろ寝つきたいところだが、今日はやけに手強かった。


 頭の中で羊を数えることにも飽きてしまったので、なんとなく耳を澄ませてみる。

普段から静かに感じる室内が、夜中はさらに音をなくし静寂に包まれていた。


「……」


 ベッドの横に置かれた背の低い棚に目を向ける。

 クリスティーナお嬢様から贈られた首飾りが、窓から差し込む月光に反射し輝きを纏っていた。


 それを手に取り掲げて眺める。

 控えめなデザインではあるが、この手触りや見た目からして決して安くはないだろう。


「あんな子が将来……もしかすると、死ぬかもしれないんだ」


 物語のひとつとして読み進めていたときも、不憫だとは思っていた。

 だが、それだけだった。

 もちろんスピンオフを読破したときは、感情的になり熱くもなった。

 それでも結局は、創作の中の登場人物であって、実際にはいないと冷静さの部分では考えてもいた。


 しかし……こんな状況になって関わりを持ってしまうと、どうにもやるせない。

 本当にこの先、クリスティーナお嬢様は自我を取り込まれ闇堕ちしてしまうのだろうか。

 お嬢様の現在の様子からすると、とてもかけ離れたことに思える。


 それについて気になったのはクリアのことだ。

『マジカル・ハーツ』の本編にもクリアはいたが、クリスティーナお嬢様とどういった距離感で接していたのかは分からない。


 しかし今現在、俺からすると二人は固く結ばれた信頼関係を築いているように見えた。

 出会った期間が短い俺でも分かるほどに、クリアは従者としてクリスティーナお嬢様一筋である。


 あのクリアがいても、お嬢様は闇堕ちしてしまうのか。


「……あれ、あの短編のスピンオフ。クリスティーナ・エムロイディーテに仕えていた従者って、クリアのことだよな」


 間違いなくそうである。

 そしてあの語りは……クリアの後悔の念から書かれていたものだった。


「ああー! なんだったっけ! 大まかな内容しか出てこない」


 素早く上体を起こし、体を丸めて思考を深くする。


 ……そう、あのスピンオフは、クリスティーナ・エムロイディーテの死を知ったクリアが、自分を責め立てる独白から始まるんだ。


 ──親愛なるクリスティーナお嬢様。


 ──許しを乞うことなど、自分が救われるための愚かな行いだとは分かっています。

 そうだと分かっていても、あなたに謝意を込めること、どうか御容赦ください。


 ──私があなたの"      "事実すら、あなたが命を落とされるまで知らなかったということ、それについて後悔という言葉だけでは足りません。



 不意にスピンオフの冒頭の記憶が蘇る。

 それはまるで手紙の始まりを彷彿とさせ、クリアの一心過ぎる懺悔の独白だった。

 ただ、正確にすべてが思い出せたわけではない。

 抜けてしまっている部分もある。


「それにしても……」


 スピンオフのクリアは、何に対してあんなに後悔していたんだ?

 クリスティーナお嬢様を死なせてしまったことも含まれるだろうが、あれはもっと別の何かによる心からの償いのものだった。


「あああ〜。だいたい知ってる小説の世界だって言っても、隅から隅まで全部を暗記してるわけじゃないんだよ〜。そりゃ大まかな流れとか感情移入してた場面は記憶に残ってるけどさぁ」


 流暢に話せるようになったことにより、俺は盛大な独り言をぶちまけるという発散法を習得した。

 言葉に出せば頭の中の整理にもなるし、鬱蒼とした気分も少しは晴れたような気になる。


 ここで、キィ……という扉の蝶番が動いたような音がした。

 夜中ということもあり嫌な想像をしそうになる。

 目を凝らして確認すると、内開きの扉がわずかに開いていた。

 おおかた閉め忘れか、閉まりが甘かったのだろうと心を落ち着ける。

手にある首飾りは元の位置に戻し、俺は扉に近づいて取っ手に触れた。


「……?」


 すると、隙間から廊下の空気が部屋の中に侵入した。

 甘い香りが鼻をくすぐる。菓子のような匂いだ。


 こんな時間に変だなと思いつつも、今度こそ扉を閉めようとしたときだった。


「……なにか落ちてる?」


 廊下側の床に、妙なものを発見した。

 さすがにここからでは黒くぼんやりとして見えるだけで、落ちている物が何なのかを特定することはできない。


 扉を引いて、廊下に一歩踏み出す。

 思えばこの時が初めてバルコニー以外で部屋の外に出た瞬間だったが、そんなことよりも落ちている物の正体が気になった。


 その場にしゃがみ、さらに目を細める。

人差し指と親指で摘めるぐらいの大きさのそれは――揚げ菓子ベニエだった。

 こんがりと揚げた生地の表面、細かな砂糖がまぶされたベニエには見覚えがある。


 それは昨日、クリアが三時のおやつにと出してくれたものだ。

 正確にはクリスティーナお嬢様のお茶のお供にと作ったものを、ついでだからと分けてくれたものである。

 沢山作ったと言っていたから、余らせたのだろうか。


「……いや、だからって、なんでベニエがこんなところに」


 一体誰が持ち出したんだと辺りに目を配らせていれば、右側の通路の先から物音がした。

 やはり誰かが食堂からベニエを持ち出したのかもしれない。それを俺の部屋の前で落としてしまうとは、おっちょこちょいだなぁ。


 俺は手のひらに乗ったベニエに目を落とす。


 普通ならば、ここで部屋に引き返さなければいけなかった。

 俺はクリスティーナお嬢様の従者といえど、今日まではほぼベッド生活。屋敷内を案内すらしてもらっていないのだ。


「このベニエを、届けるだけなら」


 俺は平気だが、届けたところでこの屋敷の誰が床に落ちたベニエを喜んで食べるというのだろう。


 つまりはただの口実だった。

 

 不用意に動くのはまずいと頭では分かっているのに、俺の足は突き動かされるよう前へ前へと動いていた。

 

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