第10話 お嬢様からの贈り物
目を開けたとき、時刻は夕方四時を回った頃だった。
寝ている間もきゅるきゅると鳴る俺の腹の虫を聞いていたシャルは、よほどその音が面白かったのか盛大に笑っていた。
「ごめんごめん笑って。お腹が鳴るのはいいことだよ。そうそう、クリアがニアの昼餉にって用意していた食事があるんだ。かなり遅くなっちゃったけど、食べるといいよー」
そう言って、シャルは一度部屋を出る。どうやら持って来てくれるらしい。
俺はその間にベッドを抜け出して、室内に置かれた一人用の丸テーブルへと移動する。
初めの頃はベッドで食事を摂っていたが、動けるようになってからはこちらのテーブルで摂るようになった。
食事内容も少しずつ固形物が増えてきている。
「本当に……至れり尽くせりって感じだな」
従僕や従者の扱いとは思えないような待遇。他の屋敷の使用人が知ったら目を丸くして疑うだろう。
体を万全にすることが従者としての最初の仕事と言われたが、このままでは居た堪れない。
「……あれは」
丸テーブル付近にある窓の外から庭を眺めていると、妙な影が動いたような気がした。
俺は椅子から立ち上がり、窓ガラスに自分の息がかかるくらいの距離まで近づく。
「なにか見えたと思ったけど、気のせいか」
窓の外には、青々とした芝生と剪定された木々以外に目立った物はない。
夕暮れが近づきはじめる庭は、いつものことながら人の気配がまるでなかった。
「お腹すいたな」
踵を返し椅子に座り直した俺は、シャルの戻りを待つのだった。
***
ちょうど食事を終えた頃、クリスティーナお嬢様とクリアが帰ってきた。
「お帰りなさいませ、クリスティーナお嬢様」
俺が普通に話せていることに初め驚いていたお嬢様だったが、自分のことのように喜んでくれた。
「シャルの力で治ったのねっ。ありがとうシャル、それにクリア」
「とんでもございません」
「えへ、どういたしまして」
クリアは軽く頭を下げ、シャルは満更でもない顔をしている。俺もクリアに「ありがとう」と言ってみるが、無言の圧力だけを返された。
何が言いたいのか俺にはさっぱりである。
「わあ、なんだか不思議ね。ニアがこんなに上手く話せているなんて」
「はい、自分でもまだ驚いています」
「ふふ、だけど……これからもっと色んなお話ができるわね。本当によかったわ」
クリスティーナお嬢様の笑顔にほっこりと胸が温まる。
本当に喜んでくれているということが、表情から伝わってくるからだろう。
「そうだわ。今日はこれをね、クリアと一緒に選んできたの」
ふと思い出したように、クリスティーナお嬢様は丁寧に包装された箱を俺の前に差し出してきた。
「ニア、あなたにこれを贈りたくて。気に入ってくれるかは分からないけれど……」
「これは」
お嬢様の目が「早く開けてみて」と訴えている。
かなり高そうな箱に萎縮しそうになるが、俺はラッピングされたリボンをほどき、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
箱の中には、光沢感のある布が敷き詰められている。その上には輪っかの形をした装飾品が置かれており、すぐにクリスティーナお嬢様へ顔を向けた。
「……首飾り、ですか?」
「ええ、そうよ。取って確かめてみて」
「はい」
手が吸い寄せられるかのように、それを掴んでいた。
上質感のある布を主体に作られた首飾りには、細かな部分まで縫い込まれた金糸が輝きを放っている。
「ニア、首輪の痕を気にしていたみたいだったから。せめて隠せるものがないかと思ったの」
「……」
「ただ、首に付けるものだから……もしニアが気になるなら無理には付けないでね。最初は襟の長いジャケットとかシャツで悩んだのだけれど、服だと限りがあるし。その首飾りなら丈夫で、肌を擦らないように柔らかなシルクを切り取って巻いているから……ええと、付けても違和感はないはずなの」
クリスティーナお嬢様にしては、終着地点のないあやふやな言葉の羅列だった。
こちらを思いやっているからこそ、迷いのある言い方をしているのだろうと察する。
「……こんなに良い物を、いいんですか」
お嬢様はこの首飾りで、俺が奴隷のときに付けられていた首輪を連想してしまわないかと不安そうにしていたが。そんなことあるはずがない。
あんな錆と血で汚れた首輪と比べ物にならないくらい、俺の手にある首飾りは眩しく、綺麗だった。
「俺……まだなにも仕事してないです。それなのに、どうしてここまでしてくれるんですか……?」
これは前から単純に思っていたことだ。
だけどお嬢様の返答は、意外なものだった。
「お仕事なら、してくれているわ」
「え?」
「わたくし、ニアに言ったもの。あなたの最初のお仕事は元気になること。あなたはわたくしの言いつけどおり、元気になってくれているわ」
あたかもそれが当然であるように言ってのけ、微笑んだクリスティーナお嬢様。……屈託のない優しい笑顔に喉の奥がギュッと締め付けられる。
「どうしてここまでしてくれる、とニアは言ったけれど。それはね、ただわたくしがそうしたいと思ったから。特別な理由はなくて、本当にそれだけなの」
「……」
「あまり……気に入らなかった?」
思わず黙り込んでいた俺に、クリスティーナお嬢様が眉を下げて尋ねてくる。
お嬢様の後ろに控えるクリアからは「お嬢様が選んだものに文句でも……?」と氷のように冷たい眼光を感じたが、まずはこう言葉を返すことにした。
「そんなことないです。凄く綺麗で……俺にはもったいないくらいです。ありがとうございます、クリスティーナお嬢様」
「……! あなたがそう言ってくれて、わたくしもとっても嬉しいわ」
花が咲いたように笑うお嬢様に、俺も照れ半分に笑いかける。
お嬢様の温かな気持ちに浸った──その日の夜。
その光景を前に、俺の目はようやく醒めた。
笑顔が愛らしく、優しいクリスティーナお嬢様。
小説で書かれた性格の面影など一切ないと思っていた。
しかしその時、彼女からは……闇堕ち令嬢としての片鱗がたしかに垣間見えたのだ。
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