第9話 カタコト卒業
それから三十分ほど、シャルと教本の初級編を読み進めていた。
「ふんふん、聞いてはいたけど言語の理解に関しては全然問題ないよ。やっぱりこれまでの過酷な環境下にいて、まともに喋れてなかったせいか舌の機能が劣化してるんだね。それと……」
「……?」
「ニア、ちょっと舌を出してみて」
「こう?」
医者の診察のようだなと思いながら舌を出す。シャルは瞳をすぼめて何かを確かめていた。
「口内に傷がある。塞がってはいるけど……これ、話すとき無意識に庇ってる」
そうなのか……どおりで上手く喋れないわけだが、なんか嫌だなそれ。
口内を傷つけられたときのことなんて頭から抜けているし、出来れば思い出したくもない。
「で、これはクリアに言われてたことなんだけど。ぼく、それぐらいの身体的劣化ならすぐに治せるんだ」
「ええっ……!?」
「ニアの様子をぼくの目で見て確認して、大丈夫そうなら治してあげて欲しいってクリアに言われてた。もし心の障害からきてるなら、きみ自身が乗り越えないといけない問題になってくるから難しかったんだけどね」
この歯がゆい言葉遣いから卒業できるの? それが本当ならば是非ともお願いしたい。
「どうする? やる?」
「やる!」
「わあ、元気な返事! なら話が早いね。ちょいと手を拝借」
シャルは椅子からひょいと降り、そばに寄って俺の片手を握りこんできた。
「さっきニアの頭に触れたとき、体内の魔力の流れを確認してみたんだ。屋敷に来てから十分な食事と睡眠が取れているおかげで、魔力の質や量も回復してる。これなら体も耐えられそうだね」
怪我を治すのに体力が必要ということと同じ要領だろうか。
「ニアの魔力はかなり質が良いみたいだから、そのうち幅広い魔法が使えるようになるかもね」
「まほー、おれが!?」
「わ、いきなりどうしたの?」
魔法が使えないはずの俺にシャルがそんなことを言うものだから、つい声が跳ね上がってしまった。
「まほー……おれ、が、つかえる?」
「使えると思うけど……ああ、人間が魔法を扱えるのは、王族や貴族が大半だからね。自分も魔法が使えるって知って驚いたんだ。だけど王族や貴族でなくとも魔法を使える人間はいるよね。ほら、希少種って呼ばれてる」
そうではなく……俺は貴族であったのに魔法が使えなかったのだ。
だというのに、どういうことなのだろう。
「ん〜? なにか疑念を感じているような顔してるね。詳しい話は、ニアの舌の劣化を治してからにしよ」
その時、シャルの周囲に漂う空気がたしかに変化した。
部屋の窓はどこも開いていないのに、シャルの髪の毛先がふわりと浮かんで動きを見せ始める。
「体の力は抜いていてね。すぐに終わるから」
にこりと笑ったシャルに握られていた手を引かれた瞬間、肌を通して温気が流れ込んでくる。
――魔法だ。クリアのようにロッドを持っているわけではないが、それはたしかにシャルによる魔法だった。
体全体が例えようのない何かに包まれていくのを感じる。
じわじわと広がる安堵の力に思わずシャルを見返せば、髪によって隠れていた前額があらわになっていた。
……この模様みたいなのはなんだ?
シャルのおでこ全体には、不思議な模様のようなものがあった。
言ってしまえば刺青みたいな見た目だが、魔法と同調するようにその模様は光を放っている。
その光が段々と弱まり完全に消えた頃――シャルの手が俺から離れていった。
ふわふわと浮いていたシャルの髪も、元通り下がっている。
「はい、終わったよ。どう? 試しになにか喋ってみてごらんよ」
「……え、もう話せるの?」
そうして口からこぼれた言葉の滑らかさに、俺は驚愕した。
「え!? え! 俺、今すごい上手く喋れてる!?」
「あはは、当たり前だよ。ぼくはそのために治したんだから。元々言語力もあったし、それがきみの普通なんだよ」
「……へえええ」
本当に治ったのか確かめるように、俺は膝の上に置かれた教本を手に取って中の文章を音読してみる。
シャルはその様子をにこにこと楽しそうに眺めていた。
「凄い……つっかえたり、変な違和感もない」
シャルに治して貰うまでは感じなかったが、舌の動きが以前と全く違うことに改めて気がつく。
「治してくれてありがとう、シャル先生!」
「どういたしまして。ま、お礼はクリアにも言ってあげてよ。ぼくが力を使うと、召喚者であるクリアにも負担がかかるから」
「うん、わかった。帰ってきたら伝えるよ」
俺は力強く頷いて、しばしの間シャルと他愛ない会話を楽しんだ。
難なく自分の言葉が伝えられるのって、こんなに嬉しいものなんだな。
***
「え、ニアって貴族だったんだ? それなのに魔法が全く使えなかったと」
話すことにもだいぶ慣れた頃、俺は先ほどの疑問をシャルに訊いてみた。
「貴族だったっていうか……元貴族だけど。俺を引き取った義父母には魔法を発現することもできないし、利用価値がないってことで奴隷として売られた。だから、俺にも魔法が使えるなんて信じられなくて」
「ふーん……そういうこと」
シャルは俺の話に納得した様子で顎に手を添えた。
「ぼくにもよく分からないんだけどね、ニアの体内に巡る魔力って、少しおかしいんだ」
「おかしい?」
つい、オウム返しをしてしまう。
「きみの魔力は、まるで産まれたての赤子の魔力みたい。何にも染まっていない、純粋なものを感じる。それに……体の魔力脈も真新しいから、魔力脈だけ言ったら本当に赤ん坊だね」
魔力脈とは、魔力を体の各所に送るための通路菅だ。
この魔力脈がなければ魔法を出現させる際の魔力が上手く起こせず、魔法を使うことも不可能になる。
俺にはその魔力脈がなかった。
だから魔法を使えなかったわけだが、シャルが言うには俺にもあるらしい。
正確に言うなら……最近になって表れたのだ。
「魔力脈が体に突然表れるなんて聞いたことないけど、心当たりはあるの?」
「……あるとすれば、主従契約とか」
クリスティーナお嬢様と主従契約を結んだとき、他の奴隷の契約と俺とでは全く違っていた。
それは前世の記憶が蘇り、この世界のことを思い出したからだとばかり思っていたが。
魔力脈も関係していることになるのだろうか。
そもそもなぜ俺の体に魔力脈が流れるようになったんだ?
もしかして前世を思い出したことで、制御されていた力が解放されたとかそういう話なのか……。
いやいや、そんなファンタジーみたいなこと……この世界なら有り得るかもしれないから怖いわ。
「……考えてみたけど、俺にはよく分からないや」
「そっかー。きみが魔法を使える体になったのは喜ばしいことだよね。おめでとう、ニア」
「うーん、ありがとう」
全然納得できないけれども、普通に話せるようになり、魔法が扱える体になったのだと判明したのは進歩である。
「……ん、なんか急に目が」
教本をペラペラとめくっていると、眠気が襲ってきた。
「慣れないことして疲れたんじゃないかな。回復してきたとはいえ……きみの体、万全と言うには程遠いし。逆らわずに寝たほうがいいよ。ぼくはここにいるから、おやすみー」
「……ああ、そうなんだ。うん……なら、おやす……み」
最後のほうの記憶は曖昧だが、ぼやけた視界の先でシャルの体が動物みたいな形に変わっていったような気がした。
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