第13話 名前の由来
「……話はここまでだ」
早々と会話を切り上げようとするクリアに、俺は待ったの声をかけた。
「ここで!? まだなにも詳しい話は――」
一応俺は原作を知っている身ではあるが、クリアはお嬢様の暴食の原因について全く触れていない。
念の為、俺の覚えている内容と原因が一致するかを確かめたかったのだが、今度こそクリアは黙秘を貫いた。
「知ったところでどうなる。しばらくすればお前はここを去る身だ。もう余計な詮索をするな」
クリアの言葉に、俺は眉を潜ませた。
「ここを、去る……?」
意味が分からず返答を待っていれば、クリアはいつも通りの冷静さを保った面持ちのまま言い切る。
「お前には、他の屋敷の使用人として雇って貰えるように話をつけてある。クリスティーナお嬢様は、初めからそう決めていらっしゃった」
頭部を殴られたような衝撃に、目眩がした。
***
暁に輝く薄明の訪れに、俺は考え込んだ頭をそっと上げる。
「……朝?」
バルコニーに出て空を仰ぐと、夜に散らばった星々は光に溶け込むように消えていた。
靡いた横髪を視界の端に捉えながら、早朝特有の爽やかな空気を吸い込む。
「はぁ……」
吐き出された嘆息は、なんとも頼りないものだった。
考え込んでいたというのは語弊があった。本当はベッドの脇に座っていたらいつの間にか朝を迎えていたのだ。
クリアが部屋を去ってから疾うに数時間は経とうとしているのだが、すべてがついさっきの出来事のように感じてしまう。
クリスティーナお嬢様の暴食、そしてクリアとの対話の内容。
ようやく知った。
俺は元々、お嬢様の従者として身を置かせてもらえる立場ではなかったらしい。
ある程度の体力や、一般的な言葉使いを身につけたのち、とある商家の使用人として俺を受け入れてもらう算段だったのだ。
そしてようやく動けるまでに回復し、シャルによって言語の問題は解決された。
もう俺がここにいる理由は、ないのだという。
「……ニア、わたくしよ。入ってもいい?」
扉をノックする音で、俺は弾かれたように後ろを向いた。
「はい、お嬢様」
俺が出迎えようと動き出すよりも早く、クリスティーナお嬢様は扉を開けて中に入って来た。
「おはよう、ニア」
「おはようございます」
お嬢様はバルコニーに佇む俺の元へ歩み寄り、ふんわりと笑顔を浮かべる。
その瞳はどこか申し訳なさそうな、俺への後ろめたさに震えているようだった。
クリスティーナお嬢様は、真夜中に着ていた白いレースの寝衣から、艶やかなベージュ色のスカートが映えるドレスワンピースを着用している。
スカートの裾には散らした花のような花模様が刺繍され、ちらりと窺える裏地の暗紅色が風を受けるたび魚の尾ひれのように優雅に揺れた。
「クリアから聞いたの。ニア……夜中にわたくしの部屋の前に来ていたのね」
「……すみません」
「ううん、謝らないで。わたくしがあんな所にベニエを落としたのがいけないんだから。けれど、あなたに見られていたなんて思わなかったから……今も少し動揺しているの」
宙をさまようお嬢様の視線は、目の前にいる俺ではなく、バルコニーから広がる外の庭園に向けられた。
「ニア」
「はい……」
「――あなたの、その名前ね。このバルコニーから見える、あの木の下にいつもいた野良猫の名前から取ったものなの」
お嬢様が指さしたのは、このバルコニーから見て右側……目で確認できる範囲では一番大きいと思われる庭の木だった。
夜中のことについては、かすりもしない。
突拍子のない話題に戸惑うものの、お嬢様は何一つふざけているわけではない。
ここは口を挟まずに、相づちを入れながら聞き役に徹することにした。
「そう。いつもふらっと現れて、いつの間にかいなくなっていた紺色の毛並みの猫。ニアの髪と同じ色をしていてね、近寄るとすぐに逃げてしまっていたわ。目は長毛で覆われていたから見えなくて、どんな色の瞳をしているのかなぁってずっと気になっていたの」
お嬢様は、ふふ、と笑って、そのあと悲しそうな顔をした。
「けれど瞳の色を知る前に、その子は野鳥に襲われて死んでしまったわ。クリアが云うにはかなり長生きしていた老猫だったようで、寿命も重なったのかもしれないって」
一本の木を見つめながら、お嬢様は懐かしむような声音で語る。
よく見ると、その木の下には黄色の花が添えられていた。
「あのお花が一本置いてあるところに、その子を埋めたの。あの場所がお気に入りみたいだったから。クリアに止められそうになったけれど、埋める前にその子を撫でたわ。とても冷たくて、本当に生きていたのかと疑うくらい。硬く、動かなくなっていた」
ふと、お嬢様の目線がこちらに動いた。
「その子の瞳の色が、ずっとずっと気になっていて。けれど死んだその子の毛を掻き分けてまで色を確認したくはなかったから、結局は見れずに終わってしまったのだけれど。わたくし、勝手にその子に名前を付けていたの。誰も知らない、わたくしが心の中で呼んでいた名前」
それが……ニアよ、とお嬢様は小さな声で言った。
「あなたを奴隷市場で見かけたとき、その子を思い出したわ。鞭で打たれるあなたが、野鳥に襲われて死んだ猫と重なって……気がついたら声をかけていて」
「……」
「声をかけた時、あなたはわたくしの方を向いたでしょう? そのとき乱暴にされた前髪の隙間から少しだけ瞳の色が見えたの。とっても綺麗な黄金の瞳」
お嬢様は今度こそ俺の方に体を向けると、しっかり視線を合わせた。
「ああ、もしかしたら死んだあの子は、こんなに綺麗な色の目をしていたのかもしれない。そう思っていたら、つい契約の名も『ニア』にしてしまったの」
「そう、でしたか」
なんと返せばいいのか分からない。
猫っぽい名前だという感想を持ってはいたが、本当に猫の名前からきていたのか。
そうだったのか、という思いぐらいだ。
そして内容よりも、今それをここで話し始めたことに嫌な違和感を覚えた。
「あの、お嬢様」
「……なあに?」
「どうして急に、名前の由来を話して――」
そこで、俺の言葉はプツンと切れる。
ぞわりと肌が粟立ち、背筋に汗が数滴ほど滲んだ。
「……お嬢、様?」
まるで空虚を見つめるような、感情をすべて取り払ったような表情をしていた。
こちらを見据えるお嬢様の変化に、ふつふつと恐怖すら抱いてしまう。
「ニア、という名前は……今日までだから。最後に教えてあげたく――いいえ、あなたに聞いて欲しかったから」
二つの眼は温度を無くしたまま、お嬢様の唇だけがたおやかに曲線を描いた。
「クリアから聞いたでしょう? あなたは初めから、わたくしの従者ではないの。あなたには、こんな所よりももっと相応しい居場所がある。大丈夫……わたくしなんかよりも安心して身を置ける方の元にあなたを連れて行くわ」
「お嬢様」
「最初は不安だろうけど、心配しないで。ここにずっといるよりも、きっと過ごしやすく生きていけると思うから」
はっきりと線を引かれた。あなたはここにいてはいけないのだと。
遠回しにそう言われているような気になった。
きゅっと固く結ばれた唇は、力が入りすぎているのか色付きすら消えかけ白く染まっている。
昨夜の寝不足が祟ったのか、目元はほんのりと赤くなり、それを横髪がやんわりと隠していた。
お嬢様の右手が、左の手首を強く握りしめている。
「お嬢様、俺は」
「わたくしのそばに居ると、いずれ後悔することになるの。だからあなたは……早くここを出て行って」
どうして俺の目に映る少女は、こうも分かりやすい嘘で慣れたように自分を傷つけているのだろう。
「いやです」
気づけば考えるよりも先に口が動いていた。
一体俺は何を口走っているのだと、自分の無意識な発言に仰天しつつも、その反応を確かめる。
「いま、なんと言ったの?」
お嬢様の突き放すために用意されたわざとらしい仮面が、ぽろりと剥がれはじめた。
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