118±0

 嵐のような強風に煽られながら、海を見ていた。私の胸はギリギリと痛んでおさまらない。

 他人様の言うことに、私はいつも胸を痛める。心臓のあたりが痛む。けれど、私の身体はいたって健康だった。他人様の言うことに胸が痛むのは、特定のとある人の言葉だけだ。

 私の脳は今、錯覚を起こしている。


 好きだ。


 それなのに上手く伝わらなくて、仲良く話ができたと思えば、すぐに衝突して私だけが崩れ落ちる。息ができない。消えてしまいたい。

 お前のせいで、私は消えることになったんだと傷つけてやりたい。一生、後悔してもしきれないような傷を心に負わせてやりたい。けれど、どうせそんなことは無理だろう。私のことなどすぐに忘れてしまうのだろう。

 痛みを乗り越えて強くなれるとか苦しみの数だけ楽しみがあるとか、世界は希望に満ちているとか、作家は書いて歌手は歌う。

 綺麗な言葉たちに惑わされる日々に疲れた。


「好きです」


 お前じゃねぇんだ。数回見かけて話したことがある他人様に言われた。むしろ誰だ。どこの誰かも覚えてもいない。すっこんでろよ。私がその言葉を言われたいのは、お前じゃない。心の中には、憎しみを詰め込んだ瞳をし、醜い顔をしてチッと舌打ちをする自分がいた。

 口の端だけ持ち上げて「ありがとうございます」と答えにならない答えを返す。

 私はまず、「好きです」と言われたら、どう返せばいいのかわからなかった。

「私も好きです」とか「私はそれほど好きではありません」とかなんだろうか?そもそも個人的に「ごめんなさい」は会話として何か違う気がしていたし。


 私は、あの他人様の心だけに、私の存在を深く深く残したい。日に日に欲求は肥大する。

 だけど、傷ついた次の日には、あのとある他人様はもう私の心が満たされる言葉を投げかけてくる。

 だから、私はまた胸が痛むまでの間、束の間の幸せを噛み締めて毎日を過ごす。


 繰り返しだ。心を痛めては、すぐに傷は修復され、舞い上がる。砂浜に残した足跡を、波が少しずつ少しずつ消していくように。何も無かったようになる。

 毎度毎度、この繰り返しだ。


 この脳の錯覚は、どうにかならないかと自問してみる。答えはない。答えてくれない、答えようとしない。いや、答えたくないだけだ。

 わかっている。本当はどうすればいいのかわかっている。


 身体が傷つけられれば、すぐに周りの人に気が付かれるのに。心が傷つけられても、周りの人は気が付かない。

 周りの人……他人じゃないか。皆、他人様だ。特定の、とある人だって、他人様なんだ。いつだっていつだって、私のことを傷つけるのは、他人様だ。


 好きだ。


 この脳の錯覚をエラーとしてデリートするなりリライトするなりしてくれないものか。

 もうこの私を人間ではなく、機械人形にしてくれないものか。


 無理難題を世界に世間に要求して、要求したところで通らないこの無理難題を。感情なんてものが無くなればいいのに.......!そう、心が私の身体の隅から隅まで、つま先から指先まで伝わるように悲痛に叫んだから。人間として生きることを終わらせるために、私は誰にも知られず知らせず、助けを呼ぶこともせず。

 煽ってきた風に乗るようにふらりと飛んだ。激しく荒れ狂う冷たい夜の海に沈む。苦しい、冷たい、身体が重い。涙がこぼれそうなのに、こぼれているはずなのに、温かくもない。何も見えない。寒い。初めて私は救難信号を出した。


 ──誰か……助けて……!


 でも。


 118は、もう遅い。

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