第五章 高校三年生

 四月、新しい学校の生活が始まり、僕は相変わらず走り回っていた。昼間部自治会の設立と役員選挙、発足した自治会の指導。昼間部の部活動を組織し、練習の場所や時間を割り当てること。各自習室の体制を整え、昼間部の完全単位制を補完すること。事前の準備が功を奏し、全て問題なく推移していた。

 学校には二つのバドミントン部が出来ていた。県定体連の規約によれば、昼間バドミントン部と夜間バドミントン部は別個のチームとして大会に参加できる。そのため、合同チームは結成せず、ライバルとして競い合うことになった。

 僕は夜間バドミントン部と同時に、昼夜間合同の園芸部にも所属していた。顧問は天田先生、部長は僕。僕以外の部員は全員、昼間部の一回生男子。ボッチの社交場などと揶揄されながら、僕たちは水菜とイタリアンパセリとスイカを育てていた。

 僕と同様、遠藤さんは合同文芸部を設立し、ビブリオバトルの準備。菊池は夜間ストリートダンス部を合同ストリートダンス部に拡張し、昼間部の生徒の指導を始めていた。

 事前の予想を完全に覆し、夜間部は賑やかになっていた。入学定員が四十名に減らされたにもかかわらず、新一年生は四十名超。昼間部入試の競争率が一倍を超え、その一部が夜間部に回ってきたとのことだった。これまでの学校では、夜間定時制は校舎の片隅に隠棲する付属物、との印象を拭い切れなかった。しかし今や、夜間部は新しい学校の立派な一部門となっていた。

 そして、僕と香澄の繋がりは切れていた。

「お前と香澄ちゃんの関係は拗れすぎている。香澄ちゃんとは縁が無かったと割り切れ」

 あの騒動の直後、父は僕にそう言った。

 

◇◇◇

 

 七月中旬、夏休みが迫ったある日の夕方、昼間部自治会の主催で体育系部活動の壮行会が催された。校威発揚のため、学校の一体感を高めるため、僕たち夜間部の生徒もその場に招待された。

 夏休みには各競技の定時制通信制全国大会が開かれる。出場権を獲得したのは、昼間陸上部の一名、夜間卓球部の一名、そして夜間バドミントン部から女子団体戦と男子個人戦。すでに校舎の外壁には「全国大会出場」の垂れ幕が三枚、勝ち誇るかのように並べて吊るされていた。

 夜間バドミントン部にとっては長い道のりだった。昨年の夏、主力が全員引退し、残された部員は皆、意気消沈していた。秋、部活動を再開する際、僕は皆に訴えた。

 これまでの主力は全員オールラウンダーだった。しかし、経験の浅い部員ばかりとなってしまった今、そんな幅広い練習をしている余裕は無い。僕は社会人クラブで指導を受け、徹底的にディフェンス型の練習を続けてきた。皆もまずはプレーの種類を絞り、その中での勝ち方を考えた方が良い。

 皆はその忠告を聞き入れた。フットワークの改善、ショットの精度向上、戦術の理解、対戦相手の分析法の習得。社会人クラブの実業団経験者に教えてもらい、自分たちでも知恵を出し合い、僕たちは選択と集中を実践し始めた。

 昨年十一月の県大会では結果が出なかった。しかし、この五月には創部間もない昼間バドミントン部を一蹴し、六月には東高バドミントン部を圧倒し、僕たちは波に乗った。そして先の県大会。女子団体戦では決勝の激闘を制し、男子個人戦も優勝と準優勝。二年生以上の全員が全国の舞台に立つことになった。

 昨年の全国大会男子個人戦。準々決勝進出までは僕自身の実力によるものという実感があった。そこから先は運だった。そして決勝戦はストレート負け。

 高校生活の中でやり残したことはあと一つ。全国大会個人戦優勝。その目標に向かって僕は走っていた。

 

◇◇◇

 

 八月中旬、僕は新幹線のシートに身を預け、寂寥感に浸っていた。全国大会が終わった。長かったような短かったような二年半。僕の部活動が幕を下ろした。

 男子団体戦は大会二日目の一回戦で敗退。女子団体戦は前回優勝チームとしてシードされ、大会三日目の二回戦から登場。同日の三回戦で敗れて結果はベスト十六。他校の男子はすでに帰郷していたが、女子たちは男子個人戦に合わせてもう一泊付き合ってくれていた。そして今日は大会四日目、最終日だった。

 今日は疲れた。頭と体を酷使した。団体戦決勝が行なわれている間、僕は遠藤さんたちが収集してくれた情報を確認し続けていた。分析対象は決勝の相手。僕と同じくディフェンス型だった。

 プレーのパターンを割り出す。フットワークの癖を見抜く。ショットの種類ごとに成功率を概算する。相手はドロップショットを多用していた。ストレートに対してクロスのドロップショット、そしてレシーブの失敗を誘う。それが相手の主要パターンだった。一方、相手のフットワークには難があった。多分、試合が長引けば脚にくる。また、相手はハイバックが苦手な様子。利き手とは反対側の頭越しが狙い目と思われた。

 大会最後の試合、個人戦決勝。第一ゲームは俊敏性とシャトルコントロールの正確さ、戦術と持久力の勝負となった。互いに拾って拾って拾いまくり、相手を前後左右に振り回す。そんな地道な打ち合いが延々と続いた。

 僕が第一ゲームを取ると、第二ゲーム、相手はプレースタイルを変えてきた。強打に次ぐ強打。頭の戦いから力の戦いへ。僕の見立ては間違っていた。相手はオールラウンダーだった。僕は驚きと焦りから押し込まれ、第二ゲームを落としてしまった。

 第三ゲーム前のインターバル、僕は社会人クラブで受けた教えを反芻した。昨年の決勝では強打の応酬に熱くなり、軽打を打つことを、頭を使うことを忘れてしまった。同じ失敗は繰り返さない。何度もそのように反芻し、僕はコートに立った。

 第三ゲームは接戦、試合はとことん長引いた。暑かった。静まり返っていた。忍耐、集中、切れてはいけない。僕は自分に言い聞かせ続けた。試合が終盤に差し掛かった頃だった。突然、相手の膝がガクッとした。その瞬間、相手と目が合った。勝ったと思った。そしてマッチポイント。シャトルが上がった。僕はフロアを蹴って跳び上がり、力の限りにラケットを振り抜いた。

 夕方の満席の車内、目の前の座席で女子たちが声を潜めて雑談に耽っていた。自分へのご褒美と称して購入した名産品の菓子を早速開けたらしく、おすそわけが僕の所にも回ってきた。その代償として、僕のメダルが女子たちの間を行き来していた。

 それにしても、まさか香澄が来ていたとは思わなかった。閉会式が終わり、会場を去ろうとした時のこと。突然香澄が姿を現し、僕に向かって控え目に優勝の祝辞を述べた。訊くと、今朝会場に到着し、大会終了まで誰にも気付かれないようにしていたらしい。

 とは言え、僕は香澄の存在自体には気付いていた。多くの観客の中、香澄の姿は際立っていた。白いシンプルなブラウス、胸元にはボウタイ。淡い紫色の膝下丈フレアスカート。そして、胸の膨らみがボウタイを突き上げ、腰の膨らみがスカートを押し上げる。

 遠くからその姿を目にするたびに、僕は他人事のように、上品な装いのスタイル抜群な子がいるなどと思っていた。しかし、正体には気付かなかった。香澄は髪型を変えていた。口元を隠していた。何よりも、香澄のあんな装いなど僕は一度も目にしたことがなかった。

 五か月ぶりの香澄だった。香澄は傍目にも明らかに怖気づいていた。僕に対しても皆に対しても極度に遠慮がちに振る舞っていた。香澄は今、独りでどうしているのだろう。代表チームは指定席、香澄は自由席。同じ列車でも車両が分かれていた。

 新幹線から在来線に乗り継ぎ、僕の街の駅が近付いてきた頃だった。遠藤さんが「忘れ物は無い?」と声を掛けてきた。僕は全てを確認し、別れの挨拶を返して一足先に電車を降りた。

 夜が深まろうとする中、駅は閑散としていた。重い足を引き摺りながら改札口へ向かおうとすると、香澄がためらいがちに「荷物をお持ちします」と近付いてきた。香澄の左肩にはショルダーバッグ。香澄の右手は空いていた。

 僕たちは駅を出て、夜の道を歩き始めた。

「香澄は髪を伸ばし始めたのか。あの眼鏡は何? 視力が落ちたの?」

「いいえ。あれは父のです。父が『日差しが強いから持っていけ』と言うものですから……。度は入っていないのですが、紫外線や反射光をカットしてくれるんです」

「俺が勝ち残っていたことは、ちゃんと知っていたの?」

「はい。昨日の夕方、遠藤さんが連絡を下さいました」

 あの人は、と僕は内心で呆れた。遠藤さんは僕には何も言わなかった。

「そして、独りで高速バスに乗った」

「はい」と香澄は頷いた。「これでもう、バドミントンはおやめになるのですか?」

「最後のショットでストリングが切れてしまったし、潮時だと思う」

「でも閉会式では、稀に見るレベルの男子個人戦決勝と言っていましたけど」

「そこまでではないよ」と僕は謙遜した。

 そこで会話が途切れた。香澄は緊張を隠し切れない様子だった。意味は分かる。僕としては、香澄との関係はあれで終わったものと思っていた。しかし、香澄は何らかの決まりを付けるつもりなのだろう。僕も無言で歩を運びながら、あの時のことを思い返した。

 下級生女子を集団で自殺に追い込んだ。深夜の話し合いの翌日までには、そんな衝撃的な噂がすでにかなりの範囲に広まっていた。さらには真偽不明の様々な噂が出回り始め、お父さんは心労で倒れ、香澄は自室に籠り続け、お母さんが僕に縋り付いてきた。

 香澄はパワハラに一切関与していない。山崎たち男子は香澄たち女子の前では悪質なことはしなかった。菊池の件も「下級生を厳しく躾けた」と歪曲して香澄たちに伝えていた。その上、山崎は仲間の面倒見が良い。そのため香澄は、事件らしい事件は僕と杉山の件しか知らず、どちらも例外的な出来事だと思っていた。

 お母さんのその説明は僕の心に響かなかった。しかしあの夜、母が香澄を恩知らずと罵ったせいで、僕もお父さんとお母さんへの恩義を意識せざるを得なくなった。

 暴露から四日目の月曜日。僕は有無を言わさず朝から晩まで香澄を引っ張って回った。中学校、全日制、定時制。香澄は各所で説明と謝罪を行ない、同級生の思い出の破棄を公表し、社会奉仕活動を公約した。中学校では校長先生が僕の顔を立てて、全日制ではバドミントン部の顧問の先生が香澄の貢献を認めて、定時制では清水さんがお父さんへの恩義から、香澄の弁護を買って出てくれた。

 また香澄の両親は、香澄の今年の大学進学は認めないと言った。しかし意外にも、香澄は落ちていた。解答欄を間違うなど何らかの失敗をしてしまったのだろう。それが親たちの見解。例年よりも競争率が高く、合格ラインが上がってしまったのだろう。それが先生たちの分析だった。

 土曜午前は事件の舞台となった中学校でゴミ拾いと草むしり。それ以外は自宅で家事手伝いと受験勉強。香澄はそんな謹慎生活を送っているはずだった。

 向こうの方に自宅の灯りが見え始めた。その時、香澄が歩みを止めた。

「ちょっと、ご報告したいことがあるのですが……」

 僕も立ち止まり、香澄の顔を見詰めた。

「一学期末で社会奉仕活動が終わりました」

「中学校の先生たちは何と言っていた?」

「教頭先生と高橋先生に『もう十分だから、これからは受験勉強に専念しなさい』と言われました」

「学校側と保護者会の話し合いはどうなったか聞いた?」

「話はまとまったと聞きました」

「そうか……」と僕は呟いた。「全日制や夜間部の方には報告した?」

「全日制には。でも夜間部にはまだ……。菊池さんが怖いと言うか……」

「菊池は何もしないよ。皆もそう。現に、香澄も安田家も他の連中のようなことにはなっていないだろう。皆、香澄の説明と謝罪と償いを認めている。だから、早い内に夜間部にも顔を出しておけよ。あとは、香澄と一緒に定時制の練習に来ていた二人と、全日制の前の生徒会長にも。あの三人には色々と新しい噂を広めてもらったから」

「はい」と香澄は頷いた。「あともう一つ、お話したいことがあるのですが……」

「長い話になるの?」

 香澄はウーンと小首を傾げた。

「それなら、近所の公園に行こう」

 街灯が一本立つだけの深夜の公園。人の気配は全く無かった。僕はベンチに腰を下ろし、ふくらはぎに手をやった。すると突然、香澄が僕の目の前で直立不動の姿勢を取った。

「智和様。これまで本当に申し訳ございませんでした」

 香澄が腰を折って深々と頭を下げた。僕も姿勢を正し、香澄の言葉遣いには敢えて口を挟まず、無言で隣を指差した。香澄が座るのを待ち、僕は続きを促した。

「智和様は、まだ私のことを怒っておられますか?」

 その問いに、僕は考え込んでしまった。

 同級生の思い出の破棄。それは山崎への絶縁宣言であると同時に、僕への仕打ちに対する罰でもあった。中学校と高校の学校行事の写真、旅行の栞と土産物、卒業文集に卒業アルバム、学校の制服や山崎の前で着た私服。香澄は山崎を想起させる物を全て廃棄した。

 山崎に関わり続けたことが疑念の元。山崎の交際宣言を許してしまったことが致命的。人生が掛かっている以上、出来ることは全てやる。人を死に追いやるほどのパワハラ。そんなものを当然視させてしまうような刷り込みなど根底から払拭すべき。それが香澄を含む安田家の結論だった。

「いや。怒ってはいない」と僕は否定した。

「両親にも何度も叱られて、自分でも色々考えたのですが……」

「どんな風に叱られたの?」

「私は智和様の目上でも格上でもない。思慮や見識も足りない。だからなおさら、思い上がってはいけない。厳しさと残虐さは違う。犯罪的な正義などあり得ない。そんな風に何度も叱られました。それから、智和様がずっと私を助けようとしてくださっていたことも良く分かりました。両親にも、智和様の恩だけは決して忘れてはいけないと、何度もきつく言われました」

 僕は溜め息をついた。香澄は再躾、再教育とでも呼ぶべきものを相当受けたようだ。

「それから、卒業式の日の屋上のことですが……」

 僕は息を詰めた。眩い日差し、お揃いの制服、揃った物言い。

「なぜ謝罪を勧めた」

「山崎への最後の気遣いのつもりだったんです。智和様や杉山さんだけでなく、高校の先生方も山崎のことをあまり良く思っておられない様子だったので、少しでも人間関係を改善しておいた方が良いと思って……」

 僕は息を殺した。傾く日差し、お揃いの制服、揃った足並み。

「絶縁の約束は」

「申し訳ございませんでした。やはり仲間意識が残っていたんです。山崎にも良い所はあると……。両親には、認識が甘いと言われました。山崎に関わり続けていたら、いずれ私も山崎に苦しめられるようになっていただろうと……」

 僕はフラッシュバックを鎮めるべく深呼吸をした。

「そもそも、山崎が俺や杉山に謝罪したところで、山崎の全般的な人間関係を改善することにはならないだろう」

「智和様が私に、一度は杉山さんの話を聞いてみるべきだとおっしゃったのと同じことをしようと思ったんです」

「それなら、それこそなぜ山崎を擁護して俺を非難した」

「あの時は……、なぜあそこまで言われなければならないのか、それが分からなかったんです……。でも、山崎に謝罪を勧める前に、被害者側のご意向を確認すべきでした。謝罪の場でも、被害者側の智和様ではなく、まともに答えようとしない山崎の方を責めるべきでした。山崎の目を気にして、一声も掛けずに智和様を置き去りにしたことは人として間違っていたと反省しています」

 香澄が力なく目を伏せた。僕も足元を眺めながら、動悸が治まるのを待った。

 今でも時折、フラッシュバックする。そのたびに、胸の奥底から全身に向かって痛みが走り、虚脱感と無力感に襲われる。これは理性や意思の強さの問題ではない。明らかに、僕は香澄と山崎の並んで立つ姿を目にしすぎたのだ。

 今日、遠目にスタイル抜群と思った女の子の正体に気付いた時も、真っ先に起きたのはフラッシュバックだった。春のあの夜、苦痛の中を駆け巡った性的なイメージ。虚像と分かっていても心の痛みが全身を貫き、僕はしばらく言葉を発することが出来なかった。

 それにしても、なぜ香澄はこの期に及んで無理に取り繕おうとするのだろう。香澄は山崎と共に大学に進学しようとしていた。その上で卒業式のあの日、菊池に暴露される瞬間まで、あらゆる意味で山崎を優先していた。あれで最後にするつもりだったとは到底思えない。

 次の春、僕は独りで遠くの街に行く。香澄はこの街に残り、香澄の際立った容姿は男たちを惹き付け、男たちはこぞって香澄の隣に立とうとする。

 嵐のような疑念とフラッシュバック。そんなものはもうこりごりだ。やはり父の言う通り、香澄とは縁が無かったと割り切るべきなのだ。香澄にしても、いくら親が僕への恩義を強調するからと言って、無理な釈明をしてまで僕に縛られ続ける必要は無いのだ。

 フラッシュバックの発生。そのこと自体は一度だけ、ネクタイの色に関連させて香澄には伝えてあった。その内実を明かして理解してもらおう。これでは僕が持たないと。

「話は終わったの?」

 僕がそう声を掛けると、香澄はおもむろにショルダーバッグの中を探り始めた。

「あの……、これを見ていただきたいのですが……」

 まだ続きがあったのかと僕は不意を突かれた。見ると、地元の国立大学からの封書。中の書類を確認した瞬間、目が点になり、わずかに遅れて香澄のしたことを理解した。

「まさか……」

「山崎は関係ありません」

 大学入試の成績表。僕に見せるためにわざわざ開示請求したのだろう。香澄は問題冊子に解答を書き写していた。それを見る限り、香澄の合格は確実だった。なのに成績表によれば、二次試験全科目ほぼ零点。意図的でなければ、こんなことになるはずがない。

「それなら、なぜ」

「智和様と同じです。色々なものに理不尽に縛られるのが嫌になったんです。なぜ、私だけ何でも一年先にやらなければいけないのだろう。遅生まれだったら、水泳もバドミントンももっと結果を残せたかも知れない。大学受験にしても、もう一年あれば結果は変わる。せめて一度でいいから、智和様と同じ条件で同じ挑戦をしてみたい。そう思ったんです」

「いつからそんな風に思っていたんだよ」

「部活動を引退した頃からです。智和様の第一志望を聞いてからは特にそう思うようになって……。智和様に勉強を見ていただいて、急に成績が上がり始めて、勉強が面白くなってきたんです。それで、バイクに乗せていただいた時に相談しようか迷ったのですが、以前あれだけ上級生を鼻に掛けていたのに、今更『私だけ何でも一年先は嫌だ』とは言えなくて……。その後はもう、怖くて明かすに明かせなくなってしまって……」

 確かにあの時、ツーリングに行こうと言い出したのは香澄の方だった。

「俺が言うのも何だけど……、やはり、出願前に親と話し合うべきだったのでは……」

「親は以前から『自宅通学だけ』と言っていますし、去年の私の成績では相手にしてもらえなかったと思います。それで、初めは仮面浪人を考えていたんです。大学に入った後も受験勉強を続けて、模試で良い成績を取ってみせればと。でも最後の最後、試験の最中に『仮面浪人なんていかにも中途半端だし、親も絶対に認めてくれない』と思って……」

 僕は力抜けして夜空を見上げた。

 仮面浪人、受験放棄。香澄はたった一枚の紙切れで裏切りの不存在を証明した。話は瑕疵なく全て繋がった。香澄は真摯に答を用意してきたのだ。

 山の上で香澄は僕に進路を尋ねてきた。なのに、僕は香澄の意思と安田家の意向を尊重するつもりで尋ね返さなかった。僕自身が香澄を委縮させていたとも気付かずに。わずかでも香澄の進路の話題に触れていたら、その後の推移は変わっていたかも知れない。僕は馬鹿だった。尊重も度を越せば無関心。僕は大馬鹿者だった。香澄の胸の感触に酔いしれている場合ではなかったのだ。

「私も行ってみたいんです……。智和様に付いていきたいんです……」

 天上を星が一つ流れた。

「香澄……。済まなかった……」

「えっ?」

 僕は香澄に視線を戻した。

「今更、お父さんやお母さんに頭が上がるの? 俺に親を説得してほしいの?」

「いいえ。父にも母にも、お父様にもお母様にも、私から全てを説明します」

 僕は香澄の肩を抱き寄せた。

「二次試験まであと半年。勉強会を再開する」

 

◇◇◇

 

 電車の中、僕は二人掛けの座席、窓際の方に腰を下ろし、外の景色を眺め続けていた。

 充実感に満ちた一年だった。そして先日の卒業式。

 いざ僕自身が卒業生になってみると、とても奇妙な気がして仕方がなかった。卒業生は四年生と僕や遠藤さんなどの三年生。一方、同じ三年生でも、菊池や清水さんなどは在校生。学年に関係なく、見送る側と見送られる側に分かれていた。

 卒業式に続いて行なわれた表彰式では、二名が功労表彰を受けた。

 天田先生の表彰理由は完全単位制・少人数教育の設計に中心的な役割を果たしたこと。先生は園芸部の外部顧問として、これからも学校の環境整備を手伝うことになっている。

 僕の表彰理由は二つ。自治会や部活動など、新しい学校の生徒活動を組織したこと。全国大会個人戦の優勝で、いち早く学校の名を世に知らしめたこと。

 卒業式が済むと、僕たちはわずかな時間、名残を惜しみながら雑談を交わした。

 菊池は昨年の夏、ストリートダンスの地方大会で健闘し、全国大会出場を惜しい所で逃していた。今年、全国大会出場が叶ったら、皆で応援に駆け付けることになった。

 清水さんは高校を卒業したら、生産ラインから営業に異動することになるらしい。その時には昇進の話も出てくるだろうとのことだった。

 そして別れ際、同級生全員で約束した。来年の卒業式の夜、卒業パーティーを開く。

 その数日後、遠藤さんから嬉しい連絡が入った。遠藤さんは地元の国立大学の医学部に合格し、医師への道を歩むことになった。

 そんなことを思い出しながら窓の外を眺めていると、突然隣の席から香澄が僕をつついてきた。見ると、香澄の手にはキャンディー。僕が口を開けると、香澄は黙って押し込み、再びガイドブックに目を落とした。その様子に僕は呆れてしまった。

「観光よりも先にやることがあるんじゃない?」

「あんまりだと思いませんか?『奇跡の入学式を見逃す訳にはいかない』って。私が智和さんと同じ大学って、そんなに変ですか?」

 確かに昨夜、お父さんがそんな軽口を叩いていた。

「嬉しいんだよ。あんなに機嫌の良いお父さんなんて初めて見た」

「やっぱり、うちの親は智和さんを褒めるんですよね。さすが一年間、全国一位ですよね」

 少々皮肉っぽい口調に、僕は失笑してしまった。

「それで、何で今からガイドブック?」

「昨日、お父様と父に『入学式に併せて観光をするから、直ちにコースを調べて宿の手配をせよ』と言われて……」

 僕は鼻で笑いながら背もたれに身を預けて目を閉じた。

 昨夜は大変な騒ぎだった。父たちは酔っ払って、香澄に大学生活のあれこれを延々と教えていた。母たちもそれなりに飲んで、僕を相手に観光旅行の希望を喋り続けていた。

 僕の母と安田家の関係もそれなりに回復していた。昨年の夏、香澄が平伏を繰り返しながら全てをきちんと釈明したことが契機となった。

 それにしても、香澄は僕への敬語をいつまで続けるつもりだろう。下であり続ける必要は無い。大学生になったら対等に。僕がそう言っても、香澄は素知らぬ顔を続けている。

「皆、香澄を認めている。皆、香澄に期待している」

 目を閉じたままそう声を掛けると、フフンと何となく嬉しそうな安堵したような音が聞こえてきた。

 目的の駅が近付いてきた頃だった。突然、ポケットの中が震えた。僕の真新しい携帯電話にメールが届いていた。

「杉山から。美味い店を教えるから、三人で一緒に夕飯を食べようだって」

 ちょうどその時、車内にアナウンスが流れ始めた。

「間もなく京都です。東海道線、山陰線……」

 電車が減速を始めた。僕は「よし」と気合を入れて席から立ち上がった。

「準備しよう」

 香澄も力強く頷くと腰を上げた。

(完)

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校舎の片隅で見た夢 種田和孝 @danara163

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