第四章 高校二年生

 二年生の四月、在校生総出で入学式が行なわれた。僕たち自治会役員は受付と案内、軽音楽部は校歌斉唱の伴奏、その他の生徒は体育館に椅子を並べたり、後片付けをしたり。新入生は二十七名。昨年より幾分増えていた。

 学校改革によって定時制が変わった。改革のスローガンは入口の整備と出口の強化。従来の四年卒業コースに加え、三年卒業コースが設けられた。さらに、大学や専門学校への進学希望者には特別進学指導と称する個別指導が、就職希望者には特別就職指導と称して資格取得の指導が行なわれることになった。

 特進生は毎日午後二時までに登校して授業開始まで自習し、週一回は個別指導を受ける。特進生になるには申請をすれば良く、成績は関係ない。要するに、強制はしないが、働かないのであれば学校に出てこいということだった。

 この改革のために、物置として使われていた部屋と教室が新たに定時制専用となり、教員が一名増えた。昨年の対話集会で学校の歴史を語った教員、天田先生だった。

 

◇◇◇

 

 入学式翌日の午後、登校してみると、事務の人が「教頭先生が西野君を探している」と声を掛けてきた。一体何だろうと思いつつ、とにかく僕は職員室に出向いた。

 教頭先生は僕の顔を見るなり、いきなり話を切り出した。

「新入生二人の面倒を見てあげてくれませんか」

 新入生の中に県内上位校の元一年生男子と元一年生女子がいる。二人とも精神的な問題で元の高校から脱落し、男子は親に連れてこられ、女子は昨年の対話集会の話を聞いて自ら移ってきた。ただしほぼ間違いなく、問題は一時的なもの。

「そういう状況ですから、図書室での自習や部活動に誘ってあげてほしいんですが」

「ええ。分かりました」

 お安い御用と思っていると、先生は「ところで」と話を続けた。

「三年卒業コースや特進指導をどう思いますか?」

 僕は返答をためらった。校内の授業だけで三年卒業が可能となるよう、午後などにも授業が行なわれるようになった。それはそれで重要な改革かも知れないが、高卒認定試験に合格し、四年卒業コースに留まった僕には全く関係の無い話だった。何よりも、学校改革はもっと大きな話だったはず。今回の改革は小手先の変更のようにしか思えなかった。

 僕の様子に気付いたのか、先生は苦笑しながら話題を変えてきた。

「自治会役員の中で現在一番余裕があるのは西野君ですかね」

 平日午後に登校している役員は今も三名。会長の中島さん、副会長の杉山、庶務の僕。中島さんは今年大学受験。杉山も予定通りなら受験のはずだが、どうするつもりだろう。

「多分、そうだと思います」

 僕の答に先生は軽く頷くと、「話は以上です。期待していますよ」と言った。

 

◇◇◇

 

 新学期が始まって最初の金曜午後、僕は特進指導へ向かった。

 全校生徒約八十名の内、特進生は約二十名。一日に四名の指導が行なわれる。個別指導のゆえに当然、指導内容は生徒によって異なるとのこと。

 杉山を担当するのは博士号を持っている教員、原先生だった。先生は指導の冒頭、杉山に釘を刺したらしい。高校を中退して高認合格の資格で大学に進むのは、形式上は飛び級に該当する。当校としては推奨しない。先生はひとしきりそんな建前を話すと、受験の準備をするのなら付き合うと囁いてきたとのことだった。

 定時制職員室を覗くと、すでに他の生徒の指導が始まっていた。そんな中、天田先生は僕に向かって手招きし、「座りなさい」と声を掛けてきた。

「私が西野君の担当です」

 先生は僕の勉強法や各科目の進み具合を尋ねてきた。

「理系科目の勉強はかなり先まで進んでいるんですね。高校の数学と物理が終わってしまうようなら、大学の教材を紹介します。それから今度、全科目の実力判定をしましょう」

 次に、先生は進路希望を尋ねてきた。僕は返答をためらった。最近、現実の問題として意識し始めていた事柄があった。

「希望は大学進学ですけど、進学先はまだ……」

「西野君の受験は来年度でしたね?」

「はい。次の次です」

「それなら、具体的に決めるのは先でいいでしょう」

 僕が頷くと、先生は「以上です。何かありますか?」と訊いてきた。突然話を締め括られて、僕は呆気にとられた。

「特進指導というのは……、要するに勉強しているかどうかのチェックですか?」

「そうです。勉強するのは君です。他には?」

「特進指導というよりは……」

 見ているだけ。そう思った瞬間、先生がフフンと小さく笑った。

「特進生と呼ばれて悪い気がする人はいないでしょう。格好良い名前を付けるだけで生徒のやる気を引き出せるのなら安いものです……。とは言え、やはり定時制の生徒は難しいですね。四分の一しか乗ってこないんですから」

 周囲を見回すと、ある生徒はプリントを渡され、別の生徒は本とノートを見てもらっていた。僕だけは自主努力に任せるということらしい。もちろん異存は無かった。

「まあ、ぼちぼちやりましょう」と先生はのんびりした口調で言った。

「先生はなぜ定時制へ」

「私はあと二年で再任用も終わりになるんです。その前に一度、定時制を経験しておこうと思いましてね」

「全日制にもこういう指導があるんですか?」

「ある訳ないでしょう。生徒が多すぎます」と先生は鼻で笑った。「それにしても、学力にせよ生活態度にせよ、噂以上に差が大きいですね。私が担当する五人も、てんでばらばらです。ぼちぼちやらせてもらわないと私の身が持ちませんよ」

 先生はそう答えると、それぞれの教科に関する事柄はこれまで通り各教科の先生に質問することなどを説明し、最後に意外なことを言った。

「学校に、使われていない花壇があるでしょう。私はあそこで花を育ててみようと思っているんです。西野君にも手伝ってもらいます」

 

 給食の時間、食堂は昨年度よりもいくらか賑やかになっていた。

 僕たち二年生は昨年一年間にわたって退学者を出し続け、この四月に編入生二名を加えて総勢十九名になっていた。そして、僕の友人たちは皆相変わらず元気だった。

 先程から隣のテーブルで清水さんが饒舌に喋っていた。佳織ちゃんがここの全日制に合格し、家族全員で入学式に出席してきた。そんな現況を杉山や菊池に話し続けていた。

 新入生のテーブルには、清水さんの奥さんの姿があった。三年卒業コースが出来たのを機に、家族全員で同時の高校卒業を目指すとのことだった。

 そう言えば、僕たちが入学した時は、清水さんが授業中の私語をやめさせた。今年の新入生に清水さんのような者はいないらしい。結局、授業が始まって二日目の給食の時間、自治会役員と一部の上級生が全新入生を取り囲み、学ぶ権利の侵害は絶対に許さないと厳しく言い渡した。その間、新入生たちは皆、身を固くし、顔を強張らせていた。僕たちの学年は経験しなかったが、実はこれは毎年恒例の儀式とのことだった。

 

 放課後、部活動が始まった。バドミントン部の新入部員は男子一名、女子三名。その内、女子一名は経験者。昨年僕と遠藤さんがそうしてもらったように、初心者三名は、四年生の岩瀬さん、三年生の寺田さん、石川さんから個別に指導を受けていた。

 また、全日制女子部から香澄たち三年生三名が金曜日の練習に参加していた。全日制には他にも参加希望者がいる模様。しかし、部活動の一体化が進むと、定時制の部員が定時制の大会に参加できなくなってしまうらしい。そのため、それ以上の参加は定時制側が断わっていた。

 

 深夜、部活動が終わり、僕は香澄と二人で帰路に就いた。

 昨年の秋以降、香澄は僕と一緒に下校する際、ネクタイを外すようになった。香澄が原点の否定を撤回したことで、僕は香澄に穏やかに接することが出来るようになっていた。香澄も特にわだかまりを見せることもなく、僕に自然に接してきていた。そのため、僕たちの付き合いが普通の状態に戻るのに、それほどの時間は掛からなかった。

 本年度、香澄と山崎は中学校と高校を通して初めてクラスが分かれていた。中学校では二年生から三年生に掛けてクラス替えが無く、三年間一緒という例も珍しくない。しかし、全日制では毎年クラスが替わる。六年目にして、とうとう山崎の運も尽きた様子だった。

 香澄が男たちにまとわり付かれることもなくなった。その原因は全日制に広まった噂にあった。

 彼氏ではないようだが、香澄には親しい男がいる。対話集会の定時制代表。全日制よりも成績が良い。幼馴染で家同士の付き合いがある。金曜日の夜は二人で下校している。

 噂の出どころは、香澄と共に部活動に来ている二人。二人が僕と香澄の関係を尋ねてきたのが切っ掛けだった。香澄は告白を軽く受け流せない。告白されるたびに、とても気まずい思いをする。そのことを知った二人が率先して噂を振りまいてくれた。

 空席だらけの深夜の電車。僕たちはボックス席を占有し、二人並んで腰を落ち着けた。その瞬間、香澄の首筋のあたりから微かに汗の匂いがした。思わず、僕は大きく息を吸ってしまった。まさに条件反射。昔から、僕は香澄の汗の匂いが好きだった。

 香澄と目が合った。香澄は何事も無いように話し掛けてきた。

「個別指導の特進コースだっけ。全日制には羨ましがっている生徒が随分いるよ。智和君も特進生に選ばれたんでしょう?」

 僕はナップサックからチョコレートを取り出し、香澄にも分けながら答えた。

「それは誤解。コースではないし、選ばれた訳でもないし」

「でも、智和君は天田先生の指導を受けているんでしょう?」

 僕は「ん?」と鼻を鳴らしてしまった。

「今日、自習室で先生に話し掛けられて、その時に智和君の担当だと聞いた。全日制の進学実績が伸びたのは長年、先生が進路指導を担当してきたからなんだよ」

 知らなかった。僕はフーンと鼻を鳴らした。

「私、初めて先生と話をしたんだけど、緊張しちゃった」

「緊張するようなことか?」

「先生は進路指導の鬼と言われているんだよ。去年の対話集会でも、先生が話したら体育館が静まり返ったじゃない」

 そんなに怖い人だろうか。それとも、僕が分かっていないだけだろうか。

「時々思うんだけど、智和君は怖いもの知らずだよね」

 一瞬、皮肉かと思った。しかし、香澄の口調は気軽で無邪気だった。

「そんなことはないよ。怖いもの知らずは……」

 その先を口にするのはやめた。香澄が小さく首を傾げた。

「せっかくだから、香澄も天田先生に見てもらったらいいよ」

 香澄はさらに首をひねると、ウーンと唸った。

 やはり、と僕は思った。香澄は自分の勉強のことをほとんど口にしない。僕が尋ねても、すぐに話をはぐらかす。昨年、僕と成績を比べ合って以降、ずっとその調子だった。

「天田先生は生徒に教えるのが生き甲斐みたいな人らしいよ」と僕は教えた。

「智和君は先生からどんな指導を受けているの?」

「西野君には花を育ててもらいます」

 香澄はエッと声を漏らした。

「勉強するのは君です。俺は先生にそう言われた」

 香澄はフーンと鼻を鳴らした。

 

◇◇◇

 

 四月最終週、ゴールデンウィーク直前の午後、目の前で全日制の生徒総会が開かれていた。僕と杉山は体育館の一番後ろからその様子を眺めていた。

 今日は定時制自治会長の中島さんが来賓として挨拶することになっていた。数日前、突然山崎が第一自習室に現れ、定全融和を前提に話をしてほしいと要請してきたとのことだった。

 先程からステージ上では、山崎による活動報告が続いていた。山崎はやけに堂々としていた。昨年の対話集会の件にも都合の良い解釈を加えて、上手く話をまとめていた。まさに厚顔無恥。そんなことを考えていると、杉山が囁いてきた。

「山崎は議長を差し置いて、最後まで自分で仕切るんだね」

「そうだな。中学校でもそうだった……」

 活動報告が終わり、中島さんの来賓挨拶となった。

 中島さんはステージ中央に立つと、「共に手を携え」とか「生徒会の皆さんの努力に敬意」などと当たり障りの無いことを言い始めた。おそらく、生徒会執行部には指導が入っているのだろう。山崎たちは中島さんの一言一言にわざとらしく頷いていた。そして話が終わった瞬間、役員が一斉に席から立ち上がり、中島さんに大げさな拍手を送った。

 次はいよいよ会長退任の挨拶。山崎の最後の時がやって来た。

 山崎は中学時代と何も変わっていなかった。「血と汗と涙の結晶」とか「全身全霊を捧げて」などと、仰々しく自画自賛を繰り返していた。その姿を眺めている内に、僕は否応なく中学時代の出来事を思い出してしまった。

 真面目な顔で勇ましい言葉を捲し立てれば、それなりに目立つ。下手な冗談でごまかそうとする者よりも、よほど信頼できるように見える。その上、山崎は普段から優等生を演じていたし、実際に成績も学年一位だった。周囲の目には、それがリーダーの資質と映ったのだろう。山崎には取り巻きが出来、生徒会長にも選ばれた。しかし、そのせいでどれだけ多くの者が苦しんだのか、山崎も取り巻きたちも全く理解していない。

 山崎は調子に乗る。乗れば乗るほど、言葉が激しくなる。そして最高潮に達した時、山崎の言葉は限度を超えて暴言となる。いわく、犯罪は被害者のせい。いわく、目下は貶められるべき。いわく、礼儀知らずは人間失格。

 山崎は敢えて弱い者を選び、その想いと意欲を削いでいく。取り巻きがそれに同調し、周囲の同類が浮かれて追随する。

 程なく退任の挨拶が終わり、雑な拍手が起きた。次いで、新生徒会長がステージ中央に立った。その姿を目にした瞬間、僕は思い出した。昨年の対話集会で真っ先に難癖を付けてきた女子。今回は山崎が推薦者になっていたはず。昨年の対話集会を知らない新入生が会長推薦を真に受けて、そのまま投票してしまったのだろうか。

 就任の挨拶が始まった。直後、隣から「これは……」と杉山の気の抜けたような声が聞こえてきた。新会長は「目安箱の設置を求める」と主張していた。まるで小中学生だ。目安箱ぐらい勝手に設置すれば良いではないか。定時制ではすでに自習室に意見箱を置いている。レベルが違いすぎる。これでは定時制自治会にも、山崎たち前執行部にも及ばない。

「意見箱はいつも空っぽだよ」と僕は皮肉を呟いた。

「山崎がまともに見えるのが、何だか腹立つ」

 

◇◇◇

 

 五月中旬の土曜日、僕と杉山は県庁所在地にある県立体育館の観客席にいた。今日はバドミントンの全日制県大会、女子シングルスの試合の日。

 先の地区予選で全日制女子部は、団体戦は三回戦で負け、個人戦ダブルスも早々に敗退。唯一、個人戦シングルスの香澄だけが県大会出場権を獲得した。とは言え、香澄も地区予選で優勝した訳ではない。おそらく、これが高校生活最後の試合になるだろう。杉山は香澄が全国大会の応援に駆け付けた話を持ち出して、「安田の最後の試合になるかも知れないから」と応援を買って出た。

 僕たちは全日制女子部の三年生二人と共に、香澄の試合のコート近くに陣取った。その二人は定時制の練習に参加していたメンバーで、僕たちとは顔馴染みになっていた。

 香澄は健闘していた。予想に反し、一回戦、二回戦と順調に勝ち上がっていった。僕が香澄のプレーを見守る傍らで、時折杉山がコート上の香澄に檄を飛ばしていた。

 三回戦の相手はスポーツに力を入れている私立校の選手。その高校は設備も練習量も段違いに充実しているらしく、残念ながら進学重視の公立校では歯が立たなかった。そして、香澄の部活動は幕を下ろした。

 帰りの電車の中、香澄はジャージ姿で席に座り込み、ずっと独りで脱力していた。その様子に声を掛けることが出来ず、僕たちは少し離れた所で声を潜めて雑談を続けた。

「去年の佐野さんが出ていたら、どこまで行ったかな」と杉山は言った。

「分からないけど、全国大会決勝の佐野さんは物凄い迫力だったからな」

 そこに、三年生女子が「定時制はこれからだよね」と口を挟んできた。僕と杉山が同時に頷いた。「今年も全国に行けそう?」という問いに、杉山は力強く答えた。

「女子は優勝メンバーが残っているから、間違いなく行ける」

「そうだな。特に杉山は個人戦全国三位だし。頑張れよ」

 僕の言葉に、杉山は呆れたように言った。

「西野君も男子シングルスで頑張りなさいよ」

「去年は強い奴が何人かいたんだ。今年もやってみないと分からない」

 杉山が微かにニヤッとした。

「佐野さんに、西野君が弱音を吐いていると言い付けてやろう」

 杉山の冗談めかした言葉に、僕も冗談を返した。

「それはやめて。この前も突然現れて、俺と遠藤さんを散々しごいて、『ああ、すっきりした』だって。あの人、全然女子大生らしくない。と言うか、女かどうかさえ怪しい」

「そんなことを言わないの。卒業式で佐野さんは西野君に抱き付いて泣いていたじゃない」

 その瞬間、体全体が一気に熱くなった。

「抱き付いてなんかいないよ。紛らわしい言い方をするなよ」

「あの時も、西野君は顔を赤くしていたよね」

「そんなことは……。分かったよ。絶対に全国に行くから」

 電車が僕たちの街の駅に着いた。僕は杉山に別れを告げ、香澄と二人で歩き出した。香澄は虚脱感を漂わせ、無言で歩き続けていた。

 そう言えば、昔も似たような出来事があった。香澄が小学六年生、水泳教室の記録会。そこで良い結果を出せば、さらに大きな大会に出してもらえることになっていた。帰り道、トボトボと歩く香澄に、僕はなけなしの小遣いでちょっと値の張るジュースを奢ってあげた。あの時、香澄は確か「終わった」と言ったはずだった。

 しばらくした頃、香澄がポツリと言った。

「終わった」

 僕はチラッと香澄に目を遣った。

「中学高校を通して最初で最後の県大会……」

 考えてみれば、僕は中学一年生の時から全ての県大会に出場していた。柔道とバドミントン。種目は違っても、県大会の緊張感と高揚感は一緒だった。

「大学でも続ければいいじゃないか」

「大学の部活は大変でしょう。もう、いいかなと思う……」

「今日は『とにかく一勝』が目標だったのに、三回戦まで行っただろう。結局あの相手が優勝したんだから、組み合わせ次第では地方大会に行けたよ」

 香澄からは何の言葉も戻ってこなかった。

「もう、これで終わりにするの?」

「夜の部活もこれで終わり……。これからは受験勉強に集中しなきゃ……」

「そうか。まずは受験か……。あそこのコンビニでジュースでも買おう」

 そう声を掛けて、僕は店へ向かった。

 

◇◇◇

 

 五月下旬の日曜日、僕は街のショッピングモールの食品売り場にいた。

 昨年スクーターを買ってもらった時から、米を買ってくるのは僕の役目。今日はここで安売りをしていると母に指示されて、僕は目当ての米十キロを求めて店内をうろついていた。すると突然、「智ちゃん」と声を掛けられた。

 香澄のお母さんだった。お母さんはショッピングカートを押していた。どうやら一人で来ている様子。「お使い? 偉いわね」とお母さんは言った。

「特売の米を探しているんですけど、いつもの場所に無くて……」

 僕の困惑にお母さんは笑みをこぼすと、「こっち」と言って売り場に連れていってくれた。

 レジで精算。作荷台で商品整理。僕はリュックサックに米を押し込み、隣で買い物袋に商品を仕舞い込んでいるお母さんに声を掛けた。

「お母さんは自転車でしょう。スクーターのトランクにかなり入ると思いますよ。リュックサックにもまだ余裕がありますし」

「そう? いいの?」

「どうぞ」

 僕の申し出に、お母さんは嬉しそうに笑みをこぼした。

「じゃあ、帰る前に少しお礼しちゃおうかな」

 僕たちは屋外休憩スペースの丸いテーブルに着いた。お母さんはココア、僕はコーヒー。こんな場所でこんな風にお母さんと向かい合うのは初めての経験だった。

 お母さんは今でも綺麗だが、若い頃はもっと美人だったのだろう。僕の周囲で美人と言えば、お母さんと遠藤さん、あとは香澄だろうか。考えてみれば、僕と香澄が生まれた頃、お母さんは二十歳台後半。今の遠藤さんと大差ない。そういう歳なのかと僕はふと思った。

「智ちゃんはバドミントンの全国大会に出られそうなんでしょう。凄いわね」

「いや。実際にやってみないと……」

「私は中学高校とソフトボールをやっていたのよ。目標は地方大会出場だったの。全国にはとても手が届かなかったけど……」

 そう切り出すと、お母さんは昔話を始めた。打順は二番、守備はセカンド。いつも地区予選は勝ち抜くが、県大会で負けてしまう。結局、地方大会には一度も出られなかった。

 ひとしきりそんな話をすると、お母さんは話題を変えてきた。

「私は智ちゃんがうちの子と仲直りしてくれて本当に嬉しいのよ。時々、あの子の用事にも付き合ってくれているでしょう。中学生の時からずっとそうだったら良かったのに」

「まあ、それは……」と僕は言葉を濁した。

「あの子は意地っ張りだから、智ちゃんみたいにきつく言ってくれる人がいないと駄目なのよ。ずっとあの子と一緒にいてあげてね」

 ハッとした。「ずっと」とは一生涯という意味だろうか。確かに、お母さんは僕たちが子供の頃から良くそんな話をしていた。

「智ちゃんはあの子の表も裏もちゃんと分かってくれているでしょう。だから、あの子にはいつも『智ちゃん以上に分かってくれる人はいないんだから』って言っているのよ」

 いきなり重荷を背負わされてしまいそうな勢いに腰が引け、僕は無理やり話題を変えた。

「ところで、香澄は勉強のことをほとんど口にしないんですけど、頑張っていますか?」

「あの子も部活を引退して、ようやく勉強に集中するようになったみたい」

「結局、どこを第一志望にしたんですか?」

 お母さんは佐野さんも通う地元の国立大学の名前を口にした。その答に僕は改めて現実を認識し、本音を隠して敢えて指摘してみた。

 東高全日制の進学実績と香澄の校内順位を考えれば、妥当な線かも知れない。とは言えこの時期なら、もう少し上を狙っても良さそうな気がする。教育にせよ研究にせよ就職にせよ、その方が幅が広がるのは確かだろう。僕の父と香澄のお父さんは東京でトップクラスと言われる私立大学の出身。香澄もまずはそういうレベルを目標にするものと僕は思っていた。

 僕の指摘に、お母さんは首を小さく横に振った。

「あの子はまだ危なっかしくて、とても家からは出せないわよ。それに、高望みしすぎて行きたくもない滑り止めに行くことになるのも……」

「まあ……、それは……」と僕は曖昧に同意した。

「智ちゃんも高卒の資格を持っているんだから、次の春に大学を受けるんでしょう?」

 そうか、と思った。普通の人は制度の詳細を知らないのだ。

「資格の授与には下の年齢制限があって、僕はもう一年待たないといけないんです」

「そうなの……」とお母さんは気落ちする様子を見せた。「今度こそ、うちの子と同級生になれると思ったのに。でも再来年、またうちの子と同じ学校になれるわよね」

 思わずむせてしまった。屋外に気まずい風が吹いた。お母さんがエッと声を漏らした。

「ごめんね。私は智ちゃんの成績を良く知らないの……」

 お母さんはいかにも言いづらそうに事情を明かした。僕が高校入試をすっぽかした直後から、僕の両親は僕の話をあまりしなくなった。過度な干渉はしないと決めたのだろう。

「香澄からも何も聞いていないんですか?」

「あの子は昔から智ちゃんの成績のことはほとんど口にしないから」

「僕としては、自分のことは自分で決めたいだけなんです。だから、禁句にするようなことではないんです」

 そして現状を説明した。全国模試の成績。先生の指示ですでに大学の勉強を始めていること。お母さんは驚いたように何度も「凄いわね」と繰り返した。

 説明が終わると、お母さんは「あの子にも教えてくれると」と言った。

「いいですよ」

 お母さんはホッとする様子を見せた。

 

◇◇◇

 

 五月最後の金曜午後、僕は天田先生と二人で花壇にしゃがみ込んでいた。先生は当初、花を育てると言っていたが、僕が気乗りしないのを見て、方針を変更した。

 目の前では、水菜とイタリアンパセリが順調に成長していた。先生によれば、どちらも育てやすい野菜らしく、初心者の僕でも収穫まで辿り着けるだろうとのことだった。平日は毎日午後一時から基本的に僕一人で担当し、休日の世話は近所に住む天田先生が行なうことになっていた。

 今日は先生と二人で虫食いを確認し、水を撒き、雑草を抜いて回っていた。

「水菜はもうすぐ収穫できますね。給食で使ってもらいましょう」と先生は言った。

「はあ」と僕は応えた。

「何ですか、その気の無い返事は。少しはこういう作業も楽しんだらどうです。給食で皆が喜んでくれたら、他の生徒にも参加を呼び掛けてみましょう」

「はい」と僕は何となく答えた。

 先生は手を止めて、僕の方を見た。

「君は本当に教え甲斐の無い生徒ですね」

 いきなりの言葉に、僕は声を失った。

「この前の全国模試の結果には驚きました。三年生向けで浪人生も混ざっているというのに、二年生の君が全国四位に入っていましたね。全国の有名校にはそんな生徒もいるとは聞いていましたが、私は初めて見ました」

 僕は無言で軽く頭を下げた。

「君は何でも自力でやってしまう。決して悪いことではないのですが、それを出来るのは居場所を間違っているからです。君は大学生でもおかしくありません。しかし、今の君が例えば大学院に放り込まれたら、分からないことだらけでしょう。その時には人に助けてもらわなければなりません。ところが、君には人に助けてもらう能力が無い」

「助けてもらう能力ですか……」

「そうです。本当に困った時には人に助けてもらう必要があります。しかし、君は助けてもらえません。なぜだか分かりますか」

「ええと……」と僕は困惑した。「いえ。分かりません」

「君には隙が無いので、誰も手を出したがらないのです。ですから、私は君が想像したこともないような作業を手伝わせているのです。農作業の経験はありますか?」

「いいえ」

「これからは気合を入れて、『分からない、分からない』と頭を抱えてみせてください」

 人間性の本質を突く言葉。先生が鬼と恐れられる理由が分かったような気がした。しかし、嫌な気分ではなかった。僕は気合を入れて「はい」と答え、ささやかな抵抗を試みた。

「でも先生。水菜とイタリアンパセリって、ちょっと苦いんですけど。もう少し美味しい物の方が良かったなと……」

「初心者が何を言っているんです」と先生は笑った。「美味しい物を簡単に作れたら、誰も苦労しません。君も大人の味を覚えなさい」

 その時、校門の方からバイクのエンジン音が聞こえてきた。杉山のスクーターが到着した所だった。

「もうすぐ二時ですね。そろそろ終わりにしますか」

 そう言って、先生は伸びをした。

 

 深夜、部活動が終わり、僕は杉山と帰宅の途上にあった。目の前には杉山のスクーター、僕はそのテールランプを追い掛けていた。

 見慣れた光景だった。ある時は杉山が前、ある時は僕。しかし、これまで金曜日の夜だけは、僕は香澄と電車で帰宅していた。そのため、金曜深夜の国道を杉山と走るのは、これで未だ数回目だった。

 杉山は毎週末の帰り道に給油をしている。せっかくなので、僕もその習慣を見習おうと思っていた。程なくして、煌々と輝くオレンジ色の照明が行く手に見え始めた。

 深夜のガソリンスタンドは閑散としていた。杉山は慣れた手付きで給油を済ませてしまうと、「寄っていかない?」と隣のコンビニを指差した。

 僕たちは飲み物を買って、コンビニの駐車場隅の薄暗いベンチに腰を下ろした。

「今日も原先生が『天田先生は変わった。本当に楽しそうだ』と言っていたよ。進路指導の鬼が定時制に異動した途端に庭いじりなんて、誰も想像していなかったみたい」

 その話に、僕は意外感を覚えた。

「原先生と天田先生は昔からの知り合いなの?」

「うん」と杉山は頷いた。「天田先生は一度、藤花高校に異動していて、原先生はその時の教え子なんだって」

 天田先生は東高全日制の大学進学実績を押し上げた。その手腕を買われて県内トップの藤花高校に異動し、先生の指揮の元、藤花高校の大学進学実績も大幅に向上した。その結果、藤花高校の関係者とその周辺は数字ばかりを求めるようになった。

「天田先生はそれに嫌気が差して、東高全日制に戻ってきたんだって。先生の理想は個別教育で、特進指導と特就指導も先生の発案らしいよ」

 初めて聞いた話に、僕は首を傾げた。

「それだと、やっぱり分からない。東高全日制ではいつも、授業、補習、大量の宿題だろう。藤花高校もそんな感じらしいし。そんな無理やりの勉強なんて、本当に天田先生が主導していたの?」

「特進指導と一緒だよ。宿題は自習の教材で、成績には関係ないらしいよ。この前、原先生とその話をしていたら、天田先生に『一々採点していたら、こちらの身が持たない』って笑われた」

 僕はフーンと鼻を鳴らした。香澄の様子から、てっきり全て強制だと思っていた。

「それで、今日の天田先生の話はどうだった?」と杉山が訊いてきた。

 今日の話をすると、杉山はウーンと唸った。

「何だか、お腹が痛くなりそう……。天田先生は、弥生さんには『同じ医療関係なら、看護師ではなく医師を目指したら』と言ったんでしょう。大丈夫なのかな」

 天田先生は適当なことは言わない。定時制には自身を不当に過小評価する生徒がいる。間違いなく遠藤さんもその一人。どう見ても、遠藤さんの頭の回転の速さは並ではない。

「遠藤さんは中学校で勉強をやめてしまっただろう。先生によれば、遠藤さんは人間観察に興味が偏りすぎていて、勉強ではせっかくの能力を活かし切れていないんだって」

 僕の指摘に、杉山は何度か小さく頷いた。

「そう言えば、『西野君を見ていたら、自分も同じように勉強したくなってきた』とか言っていたよね。図書室では、何だか当たり前のように西野君の隣に座るしね」

 僕は少し照れくさくなって、話題を庭いじりに戻した。

「ところで、杉山も前のように一時から学校に出てきて、庭いじりを手伝えよ」

 杉山はエーッと嫌がった。

「誰に言っても、皆嫌がる。遠藤さんは『スーパーの特売があるから』とか言うし、一年生の二人は揃いも揃って『太陽が眩しい』とか言うし」

「皆、先生のせっかくのお楽しみを邪魔できないんだよ」と杉山は笑い声を上げた。「それに私、第一志望を決めたし」

 杉山が大学と学部の名前を口にした。突然の発表に僕は驚いた。

「私、やっぱり一度はああいう街に住んでみたいんだ。今度受験するか、その次にするかは、まだ決めていないけど」

「大学よりも街なの?」

「両方」と杉山は笑みをこぼした。「ここは人口や産業はそれなりでも、やっぱり田舎だよ。それに、原先生から聞いたんだけど、あの大学は天田先生の母校なんだって」

 僕は思わずヘーッと声を上げてしまった。

 そんな雑談を交わしている内に飲み物も無くなり、僕たちは再びスクーターに跨った。

 

◇◇◇

 

 六月最初の土曜日の夜。今夜は香澄と一緒に勉強することになっていた。香澄の面倒を見てやってほしいというお母さんの依頼をうけてのことだった。

 二階の自室に座卓を用意して待っていると、程なく香澄が姿を現した。香澄は僕の向かいに腰を下ろすと、バッグから筆記用具と参考書、プリントの束を取り出した。

 見ると、プリントは数学と物理と化学の練習問題。香澄の志望は文系のはずだが、センター試験の対策なのだろう。僕は全日制の勉強漬けの内実を初めて知った。

「どの科目も似たような問題が並んでいるけど、いつもこんな感じなの?」

 香澄が頷くのを見て、僕は首を傾げてしまった。さらに詳しく香澄の勉強法を聞いて、僕は呆れた。香澄は与えられた大量の宿題を丁寧にこなしていくことしか知らなかった。

「これでは駄目だよ」

「どこが駄目なの?」と香澄は心外そうに言った。

「出題範囲が決まっているのだから、良くも悪しくも、試験問題を解くという作業は問題と解法のパターンマッチングにしかならないんだ。理系の勉強では、教科書で内容を理解し、問題集の解説で解き方を覚える。解説の無い練習問題なんて無意味。解法はノウハウ。ノウハウは一から自分で編み出すものではなく、まずは学ぶもの」

「でも、解説は授業や補習で……」

「似たような問題が多すぎる。つまり、多様性が少なすぎる。同じ時間と労力を掛けるにしても、カバーできる範囲が狭くなる」

 僕は本棚から問題集を取り出して香澄に押し付け、安物のザラ紙の束と新品のボールペン一本を香澄の目の前に置いた。

「一か月で一本、使い切ること」

 香澄が目を丸くした。

「杉山も遠藤さんも、一緒に勉強している一年生も、図書室自習組は全員そうしている。遠藤さんは俺の言う通りに勉強して、医師を目指せと言われるまでになった」

 そして、僕は教科書の読み方や問題集の使い方などを教えていった。

 小学生の頃も、僕たちはこうやって勉強会を開いていた。週末、寝支度を済ませてから、一緒に勉強したり各々で読書したりする。僕の家で開く場合、場所はいつも一階の客間。そして夜も更けようとする頃、母の指示で僕は二階の自室に引き揚げる。

 小学生の時は、母が定期的に覗きにきた。しかし今回、そのつもりは無いらしい。勉強会の終わりも僕たち自身で決めることになっていた。もはや子供ではないのだから、自覚を持って自分たちできちんとせよ。親たちは僕たちにそう言った。

 こんな風に向かい合わせで勉強するのは、僕が小学五年生の時以来。今日は中々勉強に集中できなかった。二人きりの部屋の中、香澄の吐息にドキッとした。石鹸の香りにクラッとした。

 しばらく前から思ってはいたが、やはり香澄は昔とは変わっていた。大人びてきた顔立ち。締まったウエストに形の良いお尻。背丈は僕よりもわずかに低いのに、なぜか腰の高さは僕と同じぐらい。そして何よりも、まるで成長の象徴のように胸が豊かになっていた。

 小耳に挟んでしまった母と香澄の会話。香澄のスポーツブラはEFカップ。不意にそんな雑念が浮かんだ時だった。香澄が顔を上げた。

「勉強は捗っている?」と僕は訊いた。

「うん。何とか……」

 僕は大きく頷き、「頑張って」と声を掛けて問題集に目を落とした。

 僕も昔から、香澄は可愛いとは思っていた。しかし、多くの者が囁く通り、香澄は本当に綺麗で魅力的になったのかも知れない。

 香澄の志望は地元の国立大学。僕が上を目指してこの街を出れば、そこで幼馴染の近所付き合いは終わりを迎える。ここが東京圏や京阪神なら、もっと選択肢があったのに。

 深夜、香澄の手が完全に止まっていることに、ふと気付いた。見ると、顔が真っ赤になっていた。慌てて香澄の額に手を当ててみると、熱が出ているように感じられた。香澄の耳たぶを摘んでみると、冷たいはずのものが熱くなっていた。

「多分、頭の使いすぎ……」

 香澄の弱々しい声に、僕は拍子抜けした。この程度の勉強で熱なんて。

「その内に慣れる。今日はもう寝ろよ。客間に布団を用意してあるから」

 僕がそう勧めると、香澄は覚束ない足取りで部屋を出ていった。僕も香澄に付いて一階に降り、頭を冷やす物を持ってきてやった。

 その後、僕は自室に戻って勉強を続け、午前二時いつも通りにベッドに入った。

 

◇◇◇

 

 六月下旬、定時制自治会の総会が開催された。まずは自治会の活動報告。次いで部活動の活動報告、春の県大会における各部の戦績。

 バドミントン部は、女子は団体戦優勝、個人戦も上位独占、男子は僕が個人戦で優勝。その結果、二年生以上の全員が県代表として全国大会に派遣されることになった。

 その後、順調に議案をこなし、学校側との団体交渉も無事に終了した。

 室内の空気が緩んだその時、突然校長先生が前に進み出て、「皆さんに報告したいことがあります」と切り出した。

「学校改革の最終案が決まりました」

 室内が騒めいた。

「学校改革は定全分離を前提に、定時制だけで行ないます」

 本校定時制を中核に新しい高校を作る。新設校は、学年の無い完全単位制の昼間定時制と、これまで通りの夜間定時制からなる。開校は来年四月。場所はここから二百メートル。この春、再編のために廃校となった小学校を譲り受ける。

 現在の在校生の身分は現高校の生徒のまま。通う先が新設校の夜間部に変わるだけ。定時制の教職員は全員、開校と同時に新設校に異動する。校長先生も近く設立準備室長に転じ、開校と同時に新設校の校長に就任する。

「つい数日前のことですが、県議会でこの案が承認されました」

 先生の話が終わると、次から次に質問が飛び出した。学費のこと、校則のこと、時間割とカリキュラム。先生は、全て変更なしと言った。

「そういう高校を新設するという案はしばらく前からあったのです。それを、市や定時制卒業生の皆さんの力をお借りして、こちらに引っ張ってきたのです。既存の施設の改修とわずかな増設で済むというのが決め手になりました」

 僕はやり取りを聞きながら、昨年の出来事を思い出していた。話が途切れた所で、質問をぶつけた。

「なぜ、融和から分離に方向転換したんですか。最初の案では、定時制を完全単位制に、全日制を進学重視型単位制にすることになっていましたよね」

 途端に、先生の顔に苦々しいものが浮かんだ。

「昨年の対話集会の影響が思いのほか大きかったのです。その後、父兄や卒業生や教育関係者を巻き込んだ議論になってしまいました。その結果、違いが大きすぎて連携強化は困難、という結論になったのです。特に、全日制三年卒業と定時制三年卒業には学歴上の違いが無いという点に反発する人が多くて……」

 唯一、山崎に詭弁と決め付けられてしまった部分だった。

「本校定時制が三年卒業可能になったのは、十年以上前のことです。本校では歴史的に定時制の方が強いので、その時には反発は出なかったのですが……。もちろん皆さんには、ここ東高の卒業証書が出ます。その点は安心してください」

 そして、先生は僕をジッと見詰めながら、説得するかのような口調で話を続けた。

「来年度の昼間部には新入生しかいません。そこで、部活動の運営や昼間部の自治会の在り方などについて、皆さんの力をお借りしたいのです」

 ふと見ると、教頭先生も僕の方を見ていた。その瞬間、そういうことか、と気付いた。四月、僕は教頭先生に、一番余裕のある役員は誰かと訊かれた。

「自治会役員の皆さんを中心に、よろしくお願いします」

 校長先生は有無を言わさず話を締め括った。

 

◇◇◇

 

 七月中旬の金曜夕方、定時制のゼロ時限目で全日制の八時限目、僕たち図書室自習組は全日制文芸部のビブリオバトルに参加していた。

 遠藤さんはこのイベントをとても気に入ったらしく、昨年の冬から本の紹介者としてバトルに参戦している。今回も全日制の生徒に混ざり、戦地での看護師の活躍を記した本を紹介していた。一風変わった本だけに、二十名弱の聴衆の半数の票を集め、遠藤さんが今日の優勝者に選ばれた。

 その後、僕たちはいったん第一自習室に顔を出し、そして教室へ向かおうとしていた。

 先日、今年二回目の全国模試の結果が戻ってきた。二回目は二位だった。杉山も好成績を維持し、全日制三年生のトップと遜色が無かった。この分なら、杉山は次の春にも志望する大学に入れるだろう。

 そんなことを考えながら校舎内を歩いていると、下校していく全日制三年生たちの姿が廊下の窓越しに目に留まった。

 全日制では、一年生の時から七時限目に授業もしくは補習を行なっている。三年生は部活動を引退した者から順次、八時限目も補習もしくは自習となる。

 その時、僕は思わず足を止めてしまった。校門へ向かう男女の姿。お揃いの制服、揃った足並み。香澄と山崎が肩を並べて歩いていた。

 胸の奥底から全身に向かってズキッと痛みが走った。部活動を引退して下校時刻が同じになったことで、山崎と顔を合わせる機会が増えてしまったに違いない。やはり、香澄はどうしても山崎を振り払えないのだ。

 思い返してみると、あの二人は高校受験の際にもああやって歩いていた。勉強のこと、志望先のこと、将来のこと。幾度となく語り合ったのだろう。もちろん、香澄が他人とそういう話をすること自体は間違いではない。しかし、僕には何一つ語らないのに、よりによって山崎と。中学生の時、僕はそのことに怒りと悲しみを覚えた。

 今回は大学受験。高校受験とは訳が違う。大学院に進まなければ、それが最終学歴になる。僕は怒りと悲しみばかりでなく、懸念を覚えた。

 山崎の学力は香澄と同程度。それでも、山崎は得意げに香澄にアドバイスしようとするだろう。そんなことをされたら、香澄が混乱するだけだ。

 勉強は自分でするもの。他人に教えられて満足する者は、教えられなければ先に進めない。勉強を教わるのではない。他人から勉強法を教わり、自分で勉強法を工夫し、自分で勉強する。慣れてしまえば、授業ではなく自習が勉強の中心になる。

 凡庸な秀才に過ぎない山崎にはそういうことが分からない。多分、香澄なら今の第一志望よりも上を狙える。でも山崎が関わると、第一志望さえ危うくなる。事実、高校受験では志望先のランクを下げる結果になった。

 昨年の秋、僕と香澄は和解した。香澄があの時の約束を覚えているのは間違いない。しかし、現実問題として山崎との絶縁は不可能。なぜなら、顔を合わさざるを得ないから。

 それなら、山崎の方に迫るべきだろうか。香澄に構うなと。いや。香澄自身が振り払おうとしない以上、それこそ「邪魔をするな」と一蹴されて終わりだろう。

 香澄は弱い。この世界は狭すぎる。どうしたら良いのだろう。

 そう思った時だった。二人が校門から消えていった。ふと気付くと、定時制の皆の姿も消えていた。僕は急いで教室へ向かった。

 

◇◇◇

 

 お盆休み、全国大会が迫っていた。

 県代表女子チームの編成は、団体戦正選手は定時制の主力四名、団体戦控え兼個人戦選手は遠藤さんと他校の女子一名。一方、男子チームの主力は他校の生徒、僕は団体戦控え兼個人戦選手として参加することになっていた。

 現在、学校は閉鎖されている。そのため今日は杉山と、適当な場所で一緒に体を動かそうと約束していた。

 待ち合わせの時刻は午前十一時、場所は杉山の自宅近くの公園。ところが、頃合いを見計らって家を出ようとした所で香澄と鉢合わせした。

 約束の公園に着いてみると、すでに杉山が待っていた。杉山は「遅刻」と言った。

「悪い。急に安田も行きたいと言い出したんだ。でも、練習台は多い方がいいだろう?」

 僕の返事に、杉山はフーンと鼻を鳴らして香澄に目を遣った。

 真夏の日差しが降り注ぐ広々とした公園。僕たちは入口付近に自転車を止め、手早く準備運動を済ませ、三人で次々に組み合わせを変えてラリーを続けた。

 杉山は前回大会の個人戦第三位。そのため、今回は全国の別枠推薦選手に指定されており、県代表とは別の資格で個人戦にも参戦する。団体戦個人戦共にシードされるとは言え、合計で最大十一試合。杉山の意気込みは相当なものだった。

 三十分が経った頃、僕たちは休憩を取ることにした。香澄と杉山がベンチに腰を下ろした。僕は立ったまま真夏の空を見上げた。

 日差しがきつい。幸か不幸か風も吹かない。熱中症になってしまっては元も子も無い。適当な所で切り上げて、スポーツドリンクでも買おう。ふと、そんなことを思った時だった。唐突に、杉山が香澄に問い掛けた。

「ところで、安田は山崎に付きまとわれているの?」

 杉山も香澄と山崎が一緒にいる所を目撃したのだろうか。

「四月の生徒総会を見たけど、あんなに白けていたのに、山崎は平然としていたでしょう。多分、あれは究極の鈍感なんだ」

 香澄は考え込むような表情で足元に視線を落とした。

「安田は押しが弱いから、言えないのかも知れない。それなら、山崎が近付いてきたら、捕まらない内に逃げる。それぐらいのことはしないと駄目だよ」

 香澄は何も答えなかった。

「天田先生が西野君に教えてくれたんだって。わざわざ特進生とかネーミングするのは、集団同一化という現象を利用した教育手法なんだって。図書室自習組の皆が頑張っているのは、西野君と一緒にいるからなんだって」

 香澄が顔を上げた。

「つまり、山崎と一緒にいると、山崎に同一化してしまうんだよ」

 杉山が僕の方をチラッと見た。

「安田がしっかりしないと、また西野君が気を揉むじゃない。知らないと思うけど、去年の秋、定全接触禁止の話が出た時、西野君は真っ先に何を心配したと思う?」

「余計なことを言うな」と僕は遮った。

「西野君は『安田の部活参加は大丈夫だろうか』と言ったんだよ」

 香澄が僕を見詰めてきた。

 僕の中では一応の結論は出ていた。高校卒業をもって香澄と山崎の接点は失われる。だから、山崎が強引に迫ろうとしない限り、敢えて事を荒立てる必要は無い。むしろ香澄の妨げとならぬよう、現時点では事を荒立てるべきではない。今は、山崎は監視にとどめ、香澄の勉強を支援する。

「杉山。やめよう。それより今はバドミントン」

 杉山は小さく頷くと、ベンチから腰を上げ、広場に向かって歩き始めた。

 青い空、白い雲、セミの鳴き声。程なく限界に達した。三人とも汗びっしょりになっていた。僕たちは練習を切り上げ、近所のコンビニで飲み物を買い、日陰でささやかな涼を取った。

「今年も一家総出で応援?」と僕は杉山に訊いた。

「ないない」と杉山は苦笑した。「去年で懲りたって。でも、去年は西野君や安田や弥生さんがいて楽しかったと言っていたよ……。安田は今年は……」

「三年生はお盆明けから、また学校の補習があるから……」と香澄は答えた。

 飲み物が無くなったのを機に、杉山は去っていった。僕も帰ろうと自転車に跨ると、香澄が声を掛けてきた。

「やっぱり、杉山さんは今でも山崎君のことを嫌っているんだね……」

「それはそうだろう。山崎は暴言を吐いたきり、謝罪一つしていないんだから」

「そっか……」と香澄は呟いた。

 

◇◇◇

 

 八月最後の土曜夕方、バドミントン部の四年生から一年生まで総勢十名が学校近くのファミリーレストランに集合した。恒例の引き継ぎ式、そして全国大会の打ち上げだった。

 まずは部長の岩瀬さんによる総括。女子団体戦は二年連続優勝。女子個人戦は、遠藤さんは三回戦進出、杉山は三位入賞。男子団体戦は三回戦止まりで、僕の出番は無し。男子個人戦、僕は準優勝。今年も部員全員がメダルを持ち帰ることが出来た。そう語る岩瀬さんの口調には充実感が溢れていた。

 総括が終わり、土産話も済み、今後の活動に関する話し合いとなった。四年生の岩瀬さんと三年生の寺田さん、石川さんは次の春に卒業、そのため引退。当然、次期部長は杉山と思われた。しかし、僕たちは杉山の事情を知っていた。二年生とは言え、杉山は高卒認定試験に合格しており、大学受験が可能な年齢に達している。岩瀬さんが「どうする?」と問い掛けても、杉山は中々答えようとしなかった。

「それは迷うよね」と寺田さんが口を挟んだ。

「寺田さんも去年、同じ状況だったでしょう」と僕は尋ねた。

「私は去年、黙って第一志望を受けたんだ。受かったら儲け物と思って。結局、その程度のつもりでは駄目だったんだけど……」

 寺田さんはそう言うと、東京の文系の国立大学の名を口にした。

「それで、すぐに気持ちを切り替えた。歳だけを考えれば一浪するのと同じ。修学旅行にも行ける。全国大会にも出られる。私には二回の受験のチャンスがあるって。結局、沖縄も楽しかったし、二連覇も出来た。今年は昼間に予備校にも通っているし、今度こそ第一志望に受かると思う」

 杉山は真剣に耳を傾けていた。

「どうするか、無理に答える必要は無いよ。私も先生に言われたから。『高校を卒業で終える気は無いと公言すると、現実的に様々な問題が生じる。だから、もしそうするのなら、全てが決まった時に黙って退学届けを出せば良い』って。杉山さんも受験すればいいんだよ。特に杉山さんは今年で合格できそうなんでしょう。チャンスを逃すことはないよ」

 その時、岩瀬さんが僕に尋ねてきた。

「自治会の方は大変なの?」

「新設校の件がちょっと。昼間部で募集する生徒には、夜間部の生徒以上に難しい面があるようで……。それに昼も夜も定時制ですから、同じ部活が二つ出来てしまったらどうなるのかとか……」

「大変だね」と岩瀬さんは同情してくれた。「分かった。部長は遠藤さん。一応、西野君が副部長。杉山さんが黙って部活を休んでも、誰も何も言わない」

 僕と遠藤さんが同時に頷いた。杉山は「ありがとうございます」と答えた。

 食後のカラオケでは昨年同様、進路の話題が出た。岩瀬さんは専門学校。石川さんは地元の私立大学。寺田さんは「今度こそは絶対に第一志望に入る」と宣言した。

 帰り道、夜の国道を走っていると、行く手の信号が赤に変わり、僕の隣に杉山のスクーターが止まった。

「まだ早いから、少し話をしない?」と杉山が声を掛けてきた。

 杉山は全然話し足りないのだろう。時刻は九時半ぐらいのはず。普段よりも一時間以上早い。僕は親指を立ててみせた。

 そこからは杉山が前。僕はそれを追い掛けた。杉山はいつものコンビニには止まらなかった。どこへ行くつもりだろうと思っていると、程なくして杉山は僕たちの街のファミリーレストランにスクーターを乗り付けた。

 土曜日の夜、客の入りは程々だった。僕たちは差し向かいでテーブルに着き、ソフトドリンクを飲み始めた。二言三言、言葉を交わした後、僕は率直に尋ねた。

「杉山は受験するんだろう? 元からそのつもりだったもんな」

 杉山が頷いた。

「頑張れよ」

 杉山は再び頷くと、しみじみと語り始めた。

「高校に入って一年半だけど、本当に楽しかった。中学校を卒業して独りで勉強していた頃は、考えが堂々巡りをしているような気がして、先が見えなかった。そんな時、中学校の校長先生が『きっと西野君となら話が合います』と言ってくれたんだ。先生の言うことを聞いて本当に良かった」

 僕は自分の顔がほころぶのを感じた。

「こういう話、した覚えがあるぞ。杉山は『まだ、お別れではない』と言った」

 杉山は笑みを浮かべて、フフンと鼻を鳴らした。

「ところで、西野君と安田はどうなっているの? 私にも幼馴染はいるけど、西野君たちは複雑だよね」

 僕は率直に答えることにした。

「記憶にある限りの昔から一緒だから、好きから嫌いまで全部ある。親たちはずっと仲良くしてほしいようだけど、色々あって……」

「色々って、例えば……」

「例えば進学先とか。安田の親は、今の安田の成績なら敢えて地元を離れる必要は無いという考えなんだ」

「それは良く聞くね……。ここの国立大だってそれなりの評価だし、私大も結構あるし」

 その時、杉山が僕を見詰めてきた。

「西野君が安田に進学先を合わせるか迷っているの?」

「いや。俺はもっと上を目指す」

「それなら、安田に頑張ってもらうしかない」

「そう……だよな」と僕は溜め息をついた。

 

◇◇◇

 

 九月上旬の土曜日、今夜は香澄の家で勉強会。僕は勉強道具を手に安田家へ向かった。

 玄関でお母さんに挨拶。お母さんはいつも通り、「今日もよろしく」と迎えてくれた。次いでリビングのお父さんに挨拶。お父さんはいつもとは異なり、「まあ、座ってくれ」とソファーを指差した。

 お父さんと雑談を交わしていると、程なくお母さんと香澄も姿を現した。お母さんは浮かない表情で「お父さん」と声を掛けた。早く勉強会を始めさせろという意味だろうか。しかし、お父さんは牽制を無視し、話を続けた。

「智和君は大学の勉強をしているんだろう。今はどんな内容をやっているの?」

「複素解析と偏微分方程式、解析力学と量子力学と統計力学を始めた所です」

 お父さんは感心したようにフーンと鼻を鳴らした。

「俺は文系だから良く分からないが、やはり凄いな。小さい頃から智和君は頭が良いとは思っていたが、いよいよ本領発揮だな」

「それほどでも……」と僕は謙遜した。

「俺は全然知らなかったんだが、定時制の生徒は皆、猛勉強しているんだって?」

「えっ、いや」と僕は困惑した。「最近、学校全体でもっと勉強しようという雰囲気になってきているのは確かですけど、実際に十分に頑張っているのは三分の一ぐらい、猛勉強しているのは全校で十人程度……」

「で、それを引っ張っているのが智和君」

「いえ。真面目さという点では自治会長の方が。彼は何と言っても自習室のヌシですから」

 お父さんは意外そうにホウと声を上げ、数回小さく頷いた。

「智和君は高校を卒業したら、家を出るの?」

「ええ、まあ」と僕は曖昧に肯定した。

「そうか……。やはり、そうなるよな。でも、気を付けないと駄目だぞ。東京に行った途端に自分を見失ってしまう者は多いからな」

 僕は言葉に詰まった。僕独りで東京へ行け。お父さんは実質的にそう言っている。他意は無いのだろう。父とお父さんの地元はこの地方、母たちは東京近郊。大学在学中に知り合い、卒業後しばらくの間は遠距離恋愛。その経験があればこその言葉なのだろう。しかし、その経験の無い僕には、忠告というよりも宣告のように響いた。

「智和君も今度、修学旅行で東京に行くんだろう? きちんと大学を見学して来いよ」

 僕はエッと声を漏らしてしまった。

「全日制は二年生の十一月に東京ですけど、定時制は三年生の六月で沖縄なんです」

「沖縄?」とお父さんは拍子抜けした。「同じ学校でも随分違うんだな……。沖縄の海開きは何月だ……」

「三月か四月です。でも、中学でも高校でも平和学習なんて、他にもあるだろうと……」

 お父さんは僕の愚痴を無視し、「ところで」と話題を変えてきた。

「智和君はギフテッドなんだって?」

 突然の言葉に、僕はお父さんを凝視した。

「智和君の勉強が凄いと言うので、ちょっと西野に訊いてみたんだ。俺は良く知らないんだが、二重例外ではなく一重例外とか言っていたな……」

 話してしまったのか。あれだけ先生たちに、物議を醸すから隠せと言われたのに。

「一重例外とは、異常や障害は無いという意味です」

「そうか……。だから、西野は強調していたのか」

「この件は誰にも言わないでください」

「誰にも話していない。西野にも極秘と言われた。それで、少し考えてみたんだが……」

 何の話が始まるのだろう。僕は緊張した。

「単純逐次型学習とか重層反復型学習とか、そういう話は俺も聞いたことがある。しかし、重層反復を真の意味で実践できる者は、ほとんどいないのではないだろうか。普通は『まずは要点から』がせいぜいだ。やはり、智和君の学習法は智和君だから可能なんじゃないだろうか」

 頭を殴られたような気がした。僕は興醒めし、顔をしかめた。

「いや。智和君を批判している訳ではないんだ。智和君の『余計なことは考えず、とにかく暗記と理解の両方をやる』というストイックさは、香澄も見習うべきだ」

「人間の能力はゼロか一かではありません。誰でも色々な能力をそれなりに持っています。香澄も間違いなくかなり上の方です。でも、やろうとしなければゼロと一緒です」

 お父さんはウーンと唸った。その時、お母さんが口を挟んだ。

「お父さん。智ちゃんが『こうしろ』と言うのなら、全部そうすればいいでしょう」

「いや。香澄が刺激を受けるのは良いが、刺激を受けすぎて自分を見失うのはまずい。それを心配しているだけだ」

 香澄は項垂れたまま、貝のように口を閉ざしていた。僕が「何か言うことは」と問い掛けても、香澄は何も答えようとしなかった。

 昨日の僕と今日の僕。同じ人間なのに、呼び名が成績優秀者からギフテッドに変わっただけで、周囲の認識まで変わってしまった。そして今、僕の目の前でお父さんとお母さんが揉めている。

 今日はもう駄目だ。そう思い、僕はソファーから腰を上げた。

「今日は帰ります。方針を良く話し合っておいてください」

 僕はそのまま玄関へ向かい、安田家を出た。夜の道を歩き出した所で、お母さんに呼び止められた。

「智ちゃん。ごめんね。こちらから頼んで教えてもらっているのに……」

「僕だって、本人が無理だと言うのなら、無理強いはしませんよ」

「今日の勉強会は……」

「僕の教え方で良いのなら、香澄を僕の所に寄越してください」

 家に帰り着いてしばらく経った頃、香澄が僕の自室にやって来た。そして、こんな夜遅くにどこで買ってきたのか、香澄のお父さんがショートケーキを差し入れてきた。

 

◇◇◇

 

 九月下旬、秋休みの平日午後、僕はいつも通りに学校で農作業に勤しんでした。

 水菜はすでに収穫し尽くしていた。一方、イタリアンパセリは独特の風味が不評で、給食ではほとんど使ってもらえず、僕と天田先生が適当に収穫しては自宅に持ち帰っていた。その間に、イタリアンパセリは大きく成長し、白い花を咲かせ、種を落とし、一部には新しい芽が出始めていた。

「さて」と先生は言った。「しばらく畑を休ませた後、今度はここで何を育てますかね」

 先生が眺めているのは、水菜を植えていた一角だった。いつの間にか、呼び名が花壇から畑に変わっていた。

「その前に、このイタリアンパセリはどうするんですか。いくら千切っても生えてくるんですけど」

 水やりの手を止めて僕が尋ねると、先生はニヤッとした。

「今度の文化祭で売ってみたらどうです。バナナの叩き売りを見たことはありますか?」

 思わずエーッと声を上げてしまった。

「僕が叩き売りをやるんですか? しかもパセリ……」

 先生は僕の困惑をあっさりと無視した。

「こちらの方では春に咲く花を育ててみましょう。来年の卒業式にちょうど良い花を」

 ちょうどその時、全日制の女子生徒たちがそばを通り掛かった。女子たちが先生に挨拶をすると、先生も近況を尋ね返し、雑談が始まった。僕はそれを脇目に水やりを再開した。

 秋休みだというのに、自主的に登校してきた全日制三年生の姿がそこかしこにある。この期間、職員室と研究室は立ち入り禁止だが、教室は自習場所として解放されている。彼らは一人ずつ順番に皆の前で問題を解いていくという勉強会を開いているらしい。ただし参加は任意で、香澄は来ていないはずだった。

 思い返してみると、昨年の今頃は対話集会が開かれていた。そして集会は紛糾し、最終的に定全分離が決まった。あの時、先生は全日制側だった。僕は先生の考えを聞いてみようと思い、女子たちが立ち去るのを見届けて、水を向けてみた。

「去年の今頃は対話集会をしていましたよね」

「そうですね。全日制の集団主義と定時制の自由主義がいきなりあそこまで衝突してしまうとは予想外でした」

「そこまで難しい議論をしたという自覚は無いんですけど……」

 僕の言葉に、先生は小さな笑い声を漏らした。

「何を言っているんです。君たちは管理教育の中心でリベラリズムを叫んだのです。その結果、全日制が割れてしまい、定時制を分離するしかなくなったのです」

「済みません……」と僕は小声で詫びを入れた。

「いいんです。数人の生徒が主張したぐらいで割れてしまう方がお粗末なんです」

「あの後、全日制の職員会議ではどんな議論になったんですか」

「それは生徒には明かせませんよ」

「でも、いきなり『定時制は目障りだから出ていけ』ですよ」

 先生はアアと納得するような声を漏らした。

「確かに、あれはいけませんね。私は小さく固まっている定時制の人たちを見ていて心苦しくなりました……。どう考えても、妥協の余地を探るのが先です。実際、全日制が管理を緩めるという方向もあり得るのですから」

 先生は何かを思い出したかのように、首を小さく横に振った。

「多数決では、かなりの生徒が賛成していたでしょう。私には理解できませんね。他人に管理される誇りなんて。もっと若者らしく自由を求めたらどうなんでしょうね……」

 僕はハッとした。狭い。息苦しい。もっと自由でありたい。先生なら言ってくれる。

「世界が狭すぎるんですよ。だから多様性を嫌う。西野君も一度はここを離れて、色々な世界を見てきなさい。そして、いずれは世界に出なさい」

 言ってくれた。

「先生の地元はこの県内で、先生も大学進学で地元を離れたんですよね?」

「誰かから聞きましたか」と先生は笑みをこぼした。

「先生はなぜ、そこを選んだんですか?」

 先生は何かを考え込むと、おもむろに言った。

「社会からの到底本質的とは思えない干渉が嫌だったんです。要するに、縛られたり踊らされたりしたくなかったんですね。いざ行ってみたら、同じ考えの者がゴロゴロいました。しかも、天才も秀才も、奇人も変人も、皆気さくでノリが良くて……」

「大学は楽しかったですか?」

「楽しかったですね。仲間たちと徹夜で議論したり、自転車で色々な所に行ってみたり。人生で一番楽しかった時かも知れない……。いや。そんなことを言っていてはいけませんね。私は新しい学校が楽しみです。まさか設立に参加することになるとは思ってもみませんでした。あと一年半しか無いのが本当に残念です」

 程なく作業が終わった。僕は用具を片付け、水飲み場で手を洗い始めた。その間、僕の頭の中では先生の言葉が何度も蘇っていた。人生の中で一番楽しかった。自由を求めろ。世界に出ろ。心の奥底から何かが湧き上がってくるのを僕は感じた。

 手を洗い終わろうとする頃、背後から足音が近付いてきて、フンと鼻を鳴らす音が聞こえた。振り返ってみると、あの男。せっかくの気分が台無しになってしまった。

「西野。ちょっと来いよ」

「良く俺がここにいると分かったな」

「花壇は教室からも見えるんだよ。西野が手入れをさせられているのは皆知っている」

「今日は何の用だよ」

 ここでは人目に付くという意味だろうか。山崎は僕の問いには答えず、「付いてこい」と顎で指示してきた。

 山崎が向かっていたのは校舎の屋上だった。全日制では、普段から屋上で集会などを開いているらしい。しかし、夜間定時制の僕にとっては、屋上は未知の場所だった。

 フェンスで囲われた外界。それでも空は広かった。そして誰の姿も無かった。穏やかな風に吹かれながら初めての景色に目を遣っていると、早速山崎が問い質してきた。

「生徒会長に何か言ったのか?」

「当然だろう。去年の対話集会で真っ先に難癖を付けてきたんだから。彼女とは合同文化祭の打ち合わせの時に、とことん話をした。意外に素直な子じゃないか。山崎こそ、いつまでも生徒会長に口出しするのはやめろ」

「結局、学校改革は僕の言う通りになったじゃないか」

「良く言う。全日制は何も改革していないのに」

 山崎はフンと鼻を鳴らした。

「安田さんに『学校の宿題なんかやめてしまえ』と言ったらしいな。安田さんが受験に失敗したら、西野はどう責任を取るつもりだ」

 僕は溜め息をついた。やはり、香澄自身が山崎に向かって絶縁を宣言しない限り、山崎の干渉は止まらない。しかし、今の香澄にとっては心理的な負担が重すぎる。

「責任? 山崎が言うことなのか?」

「授業の内容を一つ一つ理解して吸収していく。出された課題をきちんとこなしていく。やはり、まともに授業を受けたことがない者には、当たり前のことが分からないんだな」

 僕は首を振った。速習、重層反復、粒度による知識のふるい分け。山崎にはそういうことが分からない。

「山崎」と僕は噛んで含めた。「そういう話は、俺よりも良い成績を取ってからにしろ」

 山崎の顔に苦々しいものが浮かんだ。

「成績は関係ない。勉強には当たり前のやり方があると言っているんだ。今日、安田さんが来ていないのも、西野が余計なことを言ったからじゃないのか? 全日制の教育には実績がある。自主ゼミは全日制の伝統だ。定時制の西野が口を出すな」

「自主ゼミは任意参加だろう。今後、安田は一切参加しない。これは安田自身が決めたことだ。安田の勉強に口を出すな。少しでも口を出したら、俺が学校に訴え出る。必ず、ためらわずにそうする」

 山崎は憎々しげにチッと舌打ちすると、苛立つ様子で言い返してきた。

「西野は何も分かっていない。生まれは三分しか違わないのに、安田さんは一学年上になった。だから、早生まれの安田さんは苦労した。なのに、遅生まれで楽をしてきた西野が『やめてしまえ』なんて、安田さんの努力を否定するつもりか。ご両親に頼まれたからと言っていい気になるな」

 僕は耳を疑い、山崎を凝視した。

「いいか? 僕は中学高校とずっと安田さんと一緒にいたんだ」

 中学一年生から高校二年生まではクラスメート。高校三年生も同じ補習クラス。登校すれば真っ先に挨拶し、同じ教室で同じ授業を受け、空き時間には生徒会活動を手伝ってもらい、都合が付けば一緒に下校する。

「西野は安田さんがどんな風に笑うか知っているか。中学でも高校でも、安田さんは僕と一緒に遠足や修学旅行に行ったんだ。その時の安田さんの姿は全部、僕の記憶に残っている。安田さんと一緒に写真に写っているのも僕だ。西野ではないんだ」

 一つ一つの言葉が僕の心に突き刺さった。

「同級生と上級生下級生は全く違うんだ。学年の違う幼馴染にどれだけの意味があるんだ。安田さんと一緒にいるのは西野ではない。僕なんだ。安田さんと同じ経験をしているのは西野ではない。この僕なんだ。下級生の西野に分かるはずがないんだ」

 山崎はいったんそこで言葉を切り、僕を睨み付けてきた。

「分を弁えろ。僕たちの邪魔をするな」

 山崎はそう言い切ると、踵を返して屋上から去っていった。僕は山崎の後ろ姿を眺めながら、呆然と立ち尽くしていた。

 どうしようもないではないか。僕だって、香澄と机を並べる学校生活を送ってみたかった。遠足にも修学旅行にも一緒に行ってみたかった。そういう時間を共有し、そういう思い出を語り合ってみたかった。幼稚園の時から、ずっとそう思ってきたんだ。

 あんなでたらめな男は見たことがない。「早生まれで苦労した」と言うのなら、「安田の楽しむ姿を見た」ではなく、「安田の苦しむ姿を見た」でなければ、意味が通らないではないか。何よりも、生まれが間違っているのなら、同級生になったことだって間違いだろう。生まれは三分しか違わない。それは僕が言い続けてきたことだ。

 あの男には筋も道理も無い。あの男は人の心を抉りたいだけなのだ。

 

◇◇◇

 

 九月下旬、秋休み最後の日曜日。昨夜一緒に勉強し、朝目覚めてみると絶好の秋晴れ。多分、これが受験前の最後のチャンスなる。気分転換をしたい。バイクに乗ってみたい。香澄がそう言い出した。

 初めての二人乗りだった。香澄は僕の父のヘルメットを被り、後部座席に跨ると、昔のように平然と抱き付いてきた。その瞬間、僕の胸の鼓動が速くなった。

 僕たちの街からはちょっとした山並みが見える。生まれてからずっと目にしてきた山。いつも何気なく視界に飛び込んでくるのに、一度も登ったことがない山。今日はその頂を目指していた。市街地を抜け、山頂に続く道に入り、街中とは異なる風を浴びながら僕たちは走り続けた。

 一時間が経った頃、山頂の展望台に到着した。駐車場には多数の車やバイクが止まっており、そこかしこに景色を楽しむ人たちがいた。

 これまで見上げるばかりだった山の上からは、はるか遠くの街までが見渡せた。香澄は携帯電話で写真を撮りながら、しきりに「家はあそこかな」とか、「学校は」などと声を掛けてきた。僕は地図と照合しながら、「多分あそこ」と答えていった。

 ひとしきりそんなことを続けていると、香澄が「ここにも行ってみたい」と地図を指差した。山頂を越えてさらに進んだ所にある池だった。陽はまだ十分に高い。僕たちは早速スクーターの所に戻り、先を目指して走り始めた。

 夏が終わり、秋が始まろうとする季節。森林の匂いを運ぶ風。そんな中をのんびり走り続けていると、程なくして池に到着した。

 池の周辺に人影は全く無かった。僕たちはスクーターを降り、池を周回する遊歩道を散策し始めた。小道の脇には秋の花。時折、吹き抜ける風が草木を揺らし、水面にさざ波を立てていた。

 先程から香澄は、立ち止まっては風景の写真を、しゃがみ込んでは花の写真を撮っていた。一方、僕は背中に残る胸の感触に触発されて、昔の記憶を辿っていた。

 僕たちは互いの裸を何度も目にしたことがある。ある時は偶発的に。ある時は二人の秘め事として合意の上で意図的に。子供の無邪気な好奇心。男と女は違うと言われれば、どのように違うのか、やはり互いを確かめずにはいられなかった。

 初めてそんな比べ合いをしたのは多分、小学校低学年の頃。最後にしたのは小学校高学年、香澄がブラジャーを着け始めた時だった。揺れを抑えるためではなく、刺激から守るため。ほとんど膨らんでいない香澄の乳房を眺めながら、僕はそんな話を聞いた。一方、僕の体の形状に変化は無く、あの時は香澄に胸と股間を無言で覗かれただけだった。

 僕と香澄の間には、昔からそのレベルの性的羞恥は存在しない。僕はそう感じていたし、多分香澄も同様なのだろう。今日は当初、香澄は胸を押し潰す勢いで僕に抱き付いていた。あれだけ僕に見せたり触らせたりしたのだから、必要とあれば、その程度のことぐらい何ということもないのだろう。途中、さすがにその感触にたまらなくなり、僕は道端にスクーターを止めてニーグリップを教えた。香澄の膝と太腿で僕の腰を挟み込む。そんな話を少し恥ずかしげに聞く香澄の方がよほど初々しかった。

 池を半周程度回った頃だった。香澄があくびをした。

「大丈夫か? 昨日も夜遅くまで勉強したから……」

「大丈夫」と香澄は笑みをこぼした。「それにしても、智和君の勉強には本当に驚く。お父さんが、やはり智和君の勉強は尋常ではないって。会社の研究部門の人に訊いてみたら、智和君がしているのは大学の二年と三年の勉強だって」

「香澄も香澄なりのペースでやればいいんだ。結果だって出始めているじゃないか。この前の模試では、順位も偏差値もかなり上がっていたし」

「でもお父さんが、智和君の万能感は大物すぎるって」

 その言葉に、僕は考え込んでしまった。それでは結局、僕の存在自体が香澄に悪影響を及ぼすという意味になってしまう。

「俺は万能ではないよ。上には上がいる。ついこの間も、天田先生は凄いと思ったばかり」

「比べる相手を間違っていない?」

「そんなことはないよ。そういう人たちは手本であって、競争相手ではないし」

 その時、微かに冷たい風が吹き抜けた。

「とにかく、香澄の頭を回転させられるのは香澄だけ。だから、回転の仕方を決められるのも香澄だけ。香澄の勉強法は香澄が決める。俺に言えるのはそれだけだな」

 時計に目を遣ると、良い時刻になっていた。「行こう」と僕は声を掛けた。しかし、香澄は動こうとしなかった。

「そろそろ帰らないと、山を下りる前に日が暮れる」

「智和君は高校を卒業したら、東京に行くの?」

 覚悟は決まっていた。曖昧な希望に基づいて、自分の進路を決めるべきではなく、他人の進路に口を挟むべきでもない。高校を出れば皆、散り散りになる。それでも互いにその意思のある限り、縁が切れることはない。

 僕が天田先生の母校の名を口にすると、香澄はエッと声を上げた。

「俺が行くのはそこしかない。天田先生に『ここを離れて、世界に出ろ』と言われた。俺は生まれて初めて本当に背中を押されたような気がした」

 香澄は「そっか……」と呟き、黙り込んでしまった。しばらく待っても、香澄からは何の言葉も無かった。僕は香澄の手を取り、遊歩道を歩き始めた。

 

◇◇◇

 

 十月最後の日曜日の午後、僕は遠藤さんのアパートにいた。「どうしても落ち着かない」とこぼす遠藤さんを放っておけなかった。

 秋の高卒認定試験が来週末に迫っていた。テーブルの上には参考書と問題集、過去問のコピー。先程から、僕が無作為に出題し、遠藤さんが答えるということを繰り返していた。

 遠藤さんは緊張を隠し切れない様子だった。遠藤さんは中学校を卒業した後、高校には進学せず、高校入試を経験しなかった。また、定時制高校の成人特別入試は面接だけ。そのため、受験らしい受験はこれが人生初の経験だった。

 しかし、遠藤さんの高卒認定試験は僕や杉山とは違う。遠藤さんの目的は三年での高校卒業。そのため一部科目合格で十分。また、高卒認定試験は最低限の学力を判定する資格試験。客観的に見て、一部科目合格どころか、遠藤さんの全科目合格は確実だった。

 二時間近くにわたって最終確認を続け、僕は遠藤さんに太鼓判を押した。

「遅刻や欠席をしなければ、合格は間違いありません」

 遠藤さんは自信なさげに「大丈夫かな」と漏らした。

「医学部を勧められるような人が高認に落ちるはずがないじゃないですか。僕と完全に同じやり方で勉強しているのは遠藤さんだけなんですよ。僕は全科目一発合格です。遠藤さんも当然そうなります」

 遠藤さんの顔にようやく安堵の笑みが広がった。

「遠藤さん。コーヒー、お替り」

 僕の不躾な要求に、遠藤さんは笑いながら席を立った。

 その後、僕たちは一息ついて雑談を交わした。十一月にバドミントンの秋の県大会が開かれる。現在の部員は僕と遠藤さんと一年生四人。杉山は全く参加しておらず、戦力の大幅な低下は免れなかった。

 そう言えば、杉山は以前よりも寡黙になっていた。緊張しているのか、受験勉強のみの生活で話題が乏しくなっているのか、いずれにせよ、自習や授業の合間に杉山の溜め息を聞く機会が増えたのは間違いなかった。

 ひとしきりそんな話が続くと、遠藤さんは「西野君も大変ね」と言った。

「自分の勉強、安田さんの家庭教師、部活のバドミントン、クラブチームのバドミントン……。自治会、花壇の世話、高校設立の生徒代表……。ちょっと多すぎない? 最近は全日制の生徒会長の相談にまで乗って。校則の見直しとか、制服の廃止とか……」

 確かに設立準備が負担になっていた。調査、見学、資料作成。そんなことの繰り返しで、疲れを感じるようになっていた。

「昨日の夜も安田さんの勉強を見ていたんでしょう?」

「ええ。高認が終わったら、遠藤さんも自治会を手伝ってくださいよ」

「いいわよ」と遠藤さんは快諾してくれた。「次の総会で由希ちゃんは役員を辞めるみたいだから、私が代わりに入る。あと、奈緒ちゃんも入るって。西野君を手伝わない訳にはいかないって」

 僕が「菊池が?」と意外感を表わすと、遠藤さんは頷いた。

「球技大会と予餞会は全部、私たちに任せて」

「そうしてもらえると……」

「頑張っていれば、きっと良いことがあるわよ。この前の文化祭でも、同窓会の役員の人たちが西野君に言っていたじゃない。『新しい学校の新しい歴史を作ってください』って。久美ちゃんも『頑張れと伝えておいてほしい』と言っていたわよ」

 僕が「佐野さんが?」と驚くと、遠藤さんは微笑んだ。

「久美ちゃんもたまにここに遊びに来て、泊まっていったりしているの」

「そうだったんですか……」

「皆が西野君に期待している。私も手伝うから、無理をしない範囲で、頑張ってね」

 お姉さんにお任せします。そう思いながら、僕は頭を下げた。

 

◇◇◇

 

 十二月上旬、定時制自治会、冬の総会。六月の総会より幾分人数が減ったとは言え、学校の会議室はやはり満杯だった。本来、この人数なら体育館で開催すべきだろう。しかし冬の寒い夜、体育館でじっとしているのはつらいという意見が大勢を占めた。

 総会の慣例に従って、活動報告、決算報告と議事は進んでいった。

 その中で、秋の県大会の結果が発表された。バドミントンの女子団体戦では、三年ぶりに敗北を喫してしまった。全員が参加した個人戦、女子は遠藤さんが準優勝、男子は僕が優勝。何とか面目を保ったが、低迷期が訪れたのは明らかだった。

 それらの議題を消化し、自治会長による訓話となった。中島さんは定時制への想いをとうとうと語った。自主自立。その伝統を新しい学校に受け継いでほしい。そう強調し、中島さんは退任の挨拶を終えた。

 いよいよ最後の議題、新役員の選出となった。執行部案では、会長は僕、副会長は一年生。役員の追加で遠藤さんと菊池。退任は次の春でこの学校を去る者。杉山も理由を明かさずに退任を申し出ていた。

 執行部案とは別に、独自に立候補する者はいなかった。直ちに信任投票が行なわれ、全会一致で執行部案通りに新役員八名が選出された。

 その後、団体交渉も波乱なく終わり、定時制自治会総会は閉会となった。

 

◇◇◇

 

 年末年始、一月、二月。時は慌ただしく過ぎていった。

 高校設立の準備が最終段階に入り、自治会メンバーも着実に仕事をこなしていった。昼間部と夜間部の自治会の構成。部活動を夕方のみに行なわれるものと、夕方と深夜に行なわれるものに分類すること。学校全体の時間割や、昼間部に適用される校則への意見表明。この機に乗じて夜間部の制度に変更が加えられないかを監視すること。

 そういう作業に従事しながら、僕は実感し始めていた。鉄の掟を持つような強い自治会を維持するのは多分無理。それなりに能力のある生徒は、今後昼間部に入学するようになるだろう。夜間部には、働きながら学ぶ少数の生徒しか入ってこなくなるだろう。その結果、夜間定時制の伝統は途絶え、現在の生徒が全員卒業する頃には、学校は様変わりしているだろう。

 同窓会役員の人たちは言っていた。我々は歴史を作った。君たちも歴史を作れと。それは難しい。せめて、昼間部自治会と夜間部自治会が互いを支え合う仕組みぐらいは作っておかなければ。僕はそう思うようになっていた。

 相変わらず、香澄の勉強にも付き合っていた。とは言え、付き切りでは邪魔になる。本番が迫る中、生活のリズムが狂うのも問題だ。そのため、年末から夜の勉強会をやめ、毎週日曜日の午後、僕が香澄の家に出向いて、勉強の進み具合を確認したり、香澄の質問に答えたりしていた。

 香澄は志望先を地元の国立大学一校に絞っていた。気を散らさず、一つの所に集中したい。それが香澄の主張だった。確かに最後の模試では単願でも十分と言えるぐらいの成績を取っており、香澄の親もその主張を受け入れた。

 そして二次試験、香澄は問題冊子に解答を書き写して帰ってきた。僕も解いてみて確信した。香澄の努力は報われる。間違いなく合格している。そんな風に全ての入試日程を終え、あとは合格発表を待つばかりとなった。

 僕は疲れていた。でも、毎日が充実していた。

 中学一年生からの一時期、僕と香澄は疎遠になっていた。その間、僕の中では激しい感情が渦巻いていた。そして時折、僕は校舎の片隅で儚い夢を見ていた。それは、小学生の頃に送っていた日常が蘇ることだった。

 儚い夢。原状回復の願望。とうとう叶った。中学校入学の時は、その先に進めなかった。しかし今、手が届かないはずだったものが目の前にある。高校設立の準備が一段落付いたら、今度こそ僕は香澄に告白する。

 

◇◇◇

 

 三月第二週の木曜日、今日は夕方から卒業式が行なわれる。

 午後、僕は天田先生と花壇で作業を続けていた。目の前には大量の植木鉢、そして開花直前のチューリップ。式典後、記念品として卒業生に贈る予定になっていた。

 色は全て赤。当初、僕は色を取り混ぜることを提案したのだが、敢え無く却下されてしまった。色ごとに花言葉があり、特に黄色や白色は贈り物に相応しくないらしい。

 先程から、僕と先生は鉢の汚れを落とし、育て方や球根・種子の扱い方を解説した手作りの冊子と共に、手提げ袋に納める作業を続けていた。僕は手を動かしながら、「昼間部はどうなるんですかね」と声を掛けた。すると、先生は手を止め、凝りを解すかのように首や肩を回し始めた。それに合わせ、僕も休憩に入った。

「昼間部の入試結果が良すぎたと聞いたんですけど」と僕は話を続けた。

「少数ですが、本来なら藤花高校や東高全日制に行くような生徒まで来てしまいました。制服や校則の無い昼間の高校、しかも完全単位制の少人数教育。この学区では初めてですから。その結果として、来年度の昼間部では強い生徒と本来想定していた弱い生徒が入り交じることになります。上手く融和できるよう、ますます西野君の手を借りることになりますね」

 僕は弱々しく「はあ……」と答えた。先生が「ん?」と訝しげに僕の方を見た。

「最近、疲れを感じることが多くて……」

 先生は数回小さく頷くと、足元のチューリップに視線を移した。

「ところで、予備にと思って育てすぎましたかね」と先生は首を傾げた。

「十個以上余りますね」と僕も同意した。

「今回で離任する先生と食堂の方々にも贈りましょう。事務に退職者はいないはずですね……。残りは新しい学校に持っていきますか」

 その瞬間、香澄にも贈ろうと思った。チューリップの花言葉は「思いやり」。それに加えて、赤は「愛の告白」。

「僕にもいくつか下さい」

 先生の顔にハッとするような表情が浮かんだ。

「そう言えば、杉山さんも頑張ってきましたから、合格していたら卒業生と同じように送り出してあげたいですね。国立大の合格発表は明日ですか。受かっていると良いですね」

 僕もハッとした。

「しかし、卒業記念を中退者に贈るとなると、他所から不満が出るかも知れませんね。話が決まったら、西野君の方からこっそり渡してください」

 杉山は喜んでくれるだろう。僕は力強く「はい」と答えた。

 その時、そばに人が立った。香澄と山崎だった。二人は卒業証書の筒を手にしていた。全日制の卒業式は午前。二人ともそのまま残っていたようだ。早速、二人は先生に卒業の報告を始めた。その傍らで、僕は作業を再開した。

 香澄は定時制の部活動に参加していた頃、何度か天田先生からアドバイスを受けていた。今日はその礼を兼ねて、最後の挨拶に来たのだろう。香澄の丁寧な挨拶に、先生も温かい言葉で応えていた。

 香澄から聞いている所によれば、今日はこの後、全日制の卒業パーティーが開かれる。参加者は希望者のみで、先生たちや一部の保護者も参加する。先生や保護者の都合に合わせて、開始は夕方から。香澄は参加すると言っていた。

 山崎もそのつもりなのだろう。時間潰しのために、香澄の後を付いて回っているのに違いない。最後まで鬱陶しい奴。でも、同級生も今日で終わりだ。

 挨拶を済ませると、山崎が声を掛けてきた。

「西野君。ちょっと話したいことがあるんだ。後で屋上に来てくれないか」

 意外な呼び出しに、僕は少し驚いた。

「分かった。でも、もう少し掛かる」

 山崎は頷くと、「待っている」と言った。

 その後、体育館の隅に鉢を運び込み、職員室に顔を出して離任する先生に贈り、食堂に出向いてこの春で辞めるおばちゃんに贈呈し、全ての作業が終了した。

 僕は気を落ち着かせて、いよいよ屋上へ向かうことにした。

 決着を付けようという意思表示に違いない。おそらく山崎が言い出したのだろう。そうでなければ、香澄から予告があったはず。受けて立つ。今度こそ山崎を追及する。

 屋上には、春の柔らかい日差しが降り注いでいた。向こうのフェンス際で、香澄と山崎が街の景色を眺めていた。僕は二人に近付き、「待たせたな」と声を掛けた。

「構わない。見納めをしていた」

「それで用件は」

「今日は西野君に謝ろうと思って」

 予想外の申し出に、僕は山崎の顔色を窺ってしまった。

「私が勧めたの。謝るべき所は謝って、全部を綺麗にした方が良いって」

 なぜ、そんな忠告をしたのだろう。山崎など単純に切り捨ててしまえば良いものを。

「西野君。僕は厳しいことを言いすぎたかも知れない。それを謝ります」

「突然言われて、信用できるか。半年前、お前はここで何を言った」

「考えるのに時間が掛かったことも謝ります。でも、それは認めてほしい」

 出鼻を挫かれた。これでは追及しづらい。僕は香澄に目を向けた。

「状況が良く分からないんだけど」

 香澄が口を開くよりも先に、山崎が説明を始めた。

「高一の時、僕は安田さんに告白した。その時、恋愛禁止の話を聞いた。それで、高校を卒業する時にもう一度告白するということになっていたんだ。でも確かに、人間関係が悪いままでは安田さんも困ると思う。だからその前に、西野君と杉山さんに一度謝っておくことにしたんだ」

 香澄が驚くような表情を見せた。僕が「本当に?」と尋ねると、香澄はためらいがちに小さく頷いた。「告白は断わるんだろう?」と確認すると、香澄は視線を下げた。

 アレッと思った。山崎に「大学の第一志望は?」と尋ねると、山崎は香澄と全く同じ志望を口にした。

 目眩がした。僕が呆然としていると、山崎が「それじゃ」と別れを切り出した。僕は慌てて「ちょっと待て」と呼び止めた。

「お前は謝ると言った。でも、俺は許すとは言っていない。少しそこで待っていろ」

 香澄は視線を足元に落としていた。僕は香澄を睨みながら考え続けた。

 信じられない。香澄は山崎の告白を受け入れるつもりだろうか。

「夕方から卒業パーティーがあるんだ」と山崎が声を掛けてきた。

「黙っていろ。夕方までには、まだ時間がある」

 香澄を睨み続けている内に、目が痛くなってきた。柔らかいはずの日差しが、やけに眩しく感じられた。

 勝利宣言。それが山崎の真意であることは明らかだ。山崎は適当な謝罪をしながら、僕に向かって勝ち誇っているのだ。

 山崎のこの自信。根拠があるということだろうか。それにしては不自然だ。香澄が山崎の告白を受け入れたら、僕と香澄の決別は避けられない。当然、僕と山崎の和解など望むべくもない。それでも、香澄は山崎を連れてきた。

 香澄と山崎の第一志望は同じ。だから半年前、山崎は執拗に食い下がってきたのだ。山崎は香澄に合わせて志望を決めたのだろうか。いや。そう考えるのは早計だ。山崎にも将来の希望はあるのだろうし、それに見合う専攻を選んだ結果かも知れない。

 だからこそ、山崎を振り払えない。そういうことだろうか。山崎を追い払ってほしい。だから口実を作って連れてきた。それが香澄の真意だろうか。

 僕は決意した。この男の心を折る。二度と偉そうな顔をしないよう叩き潰す。禍根を残さぬよう、香澄と山崎の繋がりを完全に断ち切る。

 考えがまとまり、僕は「香澄」と声を掛けた。香澄が顔を上げた。

「杉山のいじめ事件の時、山崎はいじめを容認し、杉山を非難した。俺が暴行された時も、山崎は暴行を肯定し、俺を非難した。犯罪を支持し、被害者を貶める。山崎はそれで一貫している。山崎は悪の信奉者だ」

「おい。変なことを言うな」と山崎が口を挟んできた。

「俺と杉山に謝罪する気があるのなら、黙っていろ」

 山崎が口を閉ざすのを見届けて、僕は香澄に告げた。

「理由はそれで十分だ。俺が見ているから、今ここで山崎との縁を切れ」

「勝手なことばかり言うな」と山崎が再び口を挟んできた。

 僕は山崎に向き直った。

「お前はなぜ、偉そうに踏ん反り返っているんだ。それは謝罪の姿勢ではない」

 山崎はハッと気付いたかのように、わずかに背を丸めた。

「俺にも杉山にも口先だけの謝罪など通用しない。杉山の人生を狂わせてまで大切にしてきた中学校の秩序は今どこにあるんだ」

 山崎が言葉に詰まる様子を見せた。

「お前は初めて俺と会った時、『上級生と下級生は幼馴染の関係を続けてはならない』と言った。今でもそう思っているのか」

「当然だ。西野は公私を混同している。上級生下級生は公の問題。幼馴染は私の問題。公の問題に私の問題を持ち込むな」

「それは後付けだ。お前は公私など問題にしていない」

「いや。僕はあの時、確かに『幼馴染の付き合いを学校に持ち込むな』と言った」

「それならなぜ、同級生同士の校内での友達付き合いを許してきたんだ。友人関係だって私の問題だろう」

 山崎は小首を傾げた。

「それならなぜ、高校では『上級生を敬え』と命令して回らなかった」

 山崎は答えなかった。

「それなら、クラスメートの香澄に告白したことをどう説明するんだ」

「クラスメートを好きになって告白する。それのどこがおかしい」

 僕は腹に力を込めて怒鳴り付けた。

「お前は馬鹿か!」

 山崎の体がビクッと震えた。

「おかしいに決まっているだろう。お前こそ、恋愛という最も私的な問題を、学校という公の場に持ち込んでいるじゃないか。でたらめを言うのもいい加減にしろ。お前は単に自分に服従しない者が気に入らないだけだ」

 力んだせいだろうか。目の前を星が飛び、目の焦点がどこに合っているのか分からなくなった。その時、香澄が口を開いた。

「中学生が中学生であってはいけないの? 高校生が高校生であってはいけないの?」

 僕は呆気にとられた。

「何の話だよ。俺は山崎のでたらめぶりを指摘しているんだ」

「でも、悪の信奉者とか言葉がきつすぎる」

「謝罪すると言いながら、何も変わっていないからだ」

「私の気持ちも聞いてほしい。西野君は子供の頃から何でも良く出来た。同時に生まれたのだから、条件は一緒。そう思って、私も頑張ってきた。でも、いくら努力しても追い付けない。そして突然、私と西野君とでは元々の能力が違うと言われた」

「本当に何の話をしているんだよ」

「西野君は確かに頭が良いのかも知れない。でも、その分だけ人の気持ちを分かっていない。自分は正しい。自分は何でも知っている。そういう言い方はとても感じが悪い」

「それはまさに山崎に言えよ」

「西野君から見れば、世の中のあちこちが間違っているのかも知れない。でも、その全ての責任を山崎君に押し付けるような言い方をするのも間違っている」

「それならもっと厳密に、もっと明確に言ってやる」

 両目が鈍く痛み始めた。何となく頭も重くなってきた。

「社会の制度や思想は人為の産物であり、自然の摂理と同等の絶対性など持ち得ない。なのに社会制度は、生物学的に完全に同年齢という絶対的な事実を無視し、俺と香澄を無理やり引き離した。これはまさに人為の理不尽だ」

 僕は額に手を当て、目を半分閉じた。

「山崎は自然の摂理に対する人為の産物の優越性を主張した。山崎は人為の産物の相対性を無視し、代替の思想を提示されても、一顧だにせずに拒絶した。山崎は俺と香澄の個人的な繋がりまでも執拗に否定した。否定のためには暴力も許されると主張した。主張を通すために周囲の扇動までも行なった。山崎はまさに人為の理不尽の体現者だ」

 その瞬間、目に激痛が走った。僕はその場にうずくまって目を閉じた。まるで二枚の俎に目玉を挟まれ、グリグリと転がされているような感覚だった。

「西野」と山崎の冷めた声が聞こえた。「僕は普通のことをしてきただけだ。ただし確かに、これまで言い方がきつかったかも知れない。だから、その部分を謝ると言ったんだ。でも、西野に謝ったのは間違いだった。分を弁えろ。お前は目上に対して無礼すぎる。せっかく安田さんが最後の和解のチャンスを作ってくれたのに、お前が全てを台無しにした」

 頭が割れるように痛くなってきた。猛烈な吐き気に襲われた。

 人の動く気配。「こいつには何を言っても無駄だ」という声。去っていく複数の足音。

 僕は目を瞑ったまま叫んだ。

「香澄。良く考えろ。山崎を全否定しろ」

 香澄が戻ってくる気配は無かった。僕は四つん這いになり、その場に嘔吐した。そして動けなくなり、ざらつくコンクリートの上に横たわった。

 

 どれだけ時間が経ったのだろう。目を閉じたままじっとしていても、痛みは増すばかりだった。そして何度も吐き気に襲われた。

 こんな異変は初めてだった。このまま死ぬのだろうか。いつだったか、天田先生が言っていた。僕には人に助けてもらう能力が無いと。確かにその通りだった。だから、こんな所に独りで転がっているのだ。

 後悔が止まらなかった。山崎を叩き潰そうとした者たちを止めなければ良かった。それ以前に、先生たちの命令など無視して、僕が山崎を叩き潰しておけば良かった。

 肌寒くなってきた。日が陰ってきているようだった。こんな所に横たわっていてはいけない。しかし、頭が痛い。目が痛い。体に力が入らない。起き上がろうとする気力が全く湧かない。そう思った時だった。

「西野君!」

 菊池の声だった。

「どうしたの! 今、人を呼んでくる!」

 杉山の声だった。

 程なくして、先生たちの声と足音が聞こえてきた。僕は病院に運び込まれた。

 

 僕は処置室のベッドに横たわり、点滴を受けていた。看護師は「家族の人が来てくれるそうです」と言ったきり、どこかに消えてしまっていた。過労。眼精疲労。初めての経験だった。気付かぬ内に、限界を超えてしまっていた。

 あまりの痛さに鎮痛剤を貰ったが、それでもまだ痛みは治まらなかった。何の変哲も無い部屋の灯りが眩しくて、目を開けられなかった。あれからかなりの時間が経ったはず。今、何時だろう。杉山は僕の代役を務めると言ってくれた。上手くいっただろうか。

 香澄と山崎は今、何をしているのだろう。

 高校を卒業する時に……。今日は卒業式。

 告白する……。香澄は付いていった。

 卒業パーティー……。すでに終わっているだろう。

 手遅れだ。夜の街の闇の中、あの男が制服姿の香澄を抱き寄せる。夜の街の見知らぬ部屋で、あの男が一糸まとわぬ香澄に折り重なる。

 痛みが続く頭の中で、そんな性的な妄想が無秩序に飛び交っていた。すると、どこか離れた所から足音が近付いてきた。足音は処置室に入ってくると、僕の近くで止まった。無理をして目を開けてみると、杉山にネクタイを掴まれた香澄が僕を見下ろしていた。

 杉山は香澄の髪を鷲掴みにすると、香澄の頭を僕の方に押し出した。

「なぜ、ここにお前がいないんだ」

 凄味のある低い声だった。

「知らなかった……」と香澄がか細い声を出した。

「嘘をつくな。皆知っている。天田先生は『三人でいるはず』と言った。西野君は『三人で話している最中に』と言った。お前は本当に助けなければならない時に見捨てたんだ!」

 杉山が香澄の頭を激しく揺さぶった。卒業証書の筒がカランと音を立てて床に落ちた。

「杉山。暴れるな」と僕は声を絞り出した。

 杉山は香澄を解放すると、僕に話し掛けてきた。

「こいつらの卒業パーティーで奈緒がぶちまけた。自殺しそうになった奈緒を西野君が救っていたなんて、私も初めて聞いた。奈緒は山崎たちを一人一人名指しした。こいつもとうとう、あんな場で名指しされてしまった。縁を切っておけとあれほど言ったのに、人の忠告を聞く気なんて、こいつには初めから無かったんだ」

「菊池はどうしている?」

「西野君を看病すると言っていたけど、物凄く怒って興奮していたから、弥生さんが家まで送っていった。奈緒が言っていたよ。『西野君はいつも私に幸運を持ってきてくれる。その西野君を』って」

 その時、別の足音が近付いてきた。

「何をしているんだ」と香澄のお父さんの声。

「安田のお父さん」と僕は杉山に教えた。

「私は西野君の同級生で、杉山と申します。今、おたくの娘さんに説教していた所です」

「どういうことかね」

「こいつはいじめの加害者グループのメンバーです。そしてもはや、人ではありません。苦しんでいる西野君を見捨てて、いじめのリーダーとカップルになったお祝いをしていたんです。ちなみに、私はそのグループの被害者で、西野君はそのグループと戦っていました。あとはこいつに訊いてください」

「そうしてください」と僕も追随した。

 すると、お父さんは僕に話し掛けてきた。

「西野は忙しいので、俺が迎えに来た。支払いも済ませたし、容態の説明も受けた。点滴が済んだら帰って良いそうだ」

「待ってください。私が西野君を送っていきます」と杉山が口を挟んだ。

「杉山と帰ります。来てくださって、ありがとうございました」と僕も同意した。

 杉山は「学校からスクーターを取ってくる」と言い残し、処置室を出ていった。その後、お父さんに何を訊かれても、僕は全く答えなかった。答える気力も無かった。

 点滴が終わった頃、僕のヘルメットを手に杉山が戻ってきた。僕は香澄を無視してお父さんに別れを告げ、フラフラしながら杉山のスクーターの後部座席に跨った。

 夜の闇は目に優しかった。杉山が穏やかな運転を心掛けていることもすぐに分かった。僕は杉山にしがみ付きながら、昔の菊池の情けない表情を思い出していた。

 

◇◇◇

 

 翌日、金曜日の午後、教頭先生と天田先生が学校を代表して、遠藤さんが生徒を代表して、三人で僕の家まで見舞いに来てくれた。

 教頭先生は生徒に負担を掛けすぎたことを僕と母に何度も謝った。天田先生は「私が気を付けていれば」と申し訳なさそうに言い、「杉山さんは合格していました」と教えてくれた。そして、遠藤さんは僕の仕事を引き継ぐと申し出てくれた。

 今日は平日。学校の通常業務があり、新しい学校への引っ越しの準備もある。そのため、長話をする余裕など無かったのだろう。三人とも、香澄と山崎、菊池の件には触れようとしなかった。

 その後、僕はずっと自室のベッドに横たわっていた。一晩休んだ結果か、朝に鎮痛剤を飲んだ効果か、痛みは治まっていた。僕は目を閉じたまま独り考え続けた。

 制服は所属の象徴、排他の表明。中でもネクタイは学年の識別子。香澄は山崎と同じ制服を着て、同じネクタイを締めて、僕の前に並んで立っていた。その時点で、僕は気付くべきだった。

 多分、香澄は僕と山崎を両天秤に掛けていたのだ。その結論は山崎ということなのだろう。親による恋愛禁止の命令。その解除条件は僕と和解すること。一度は僕と和解したのだから、その命令は解除された。それが香澄の理屈なのだろう。

 もちろん、誰を選ぶのも香澄の自由だ。そこまで山崎が良いのなら、僕ももう止めはしない。それでも、いくら何でもひどすぎる。僕があれほど「あの男は嫌だ」と言ったのに、香澄はそれでも連れてきた。そしてあの言葉、あの態度。中学校入学時の事件のような犯罪性は無いにしても、あれでは二度目の裏切りだ。

 菊池は僕の説明に納得してくれていた。だから、部活動で香澄の姿を見ても黙ってくれていた。それだけに、昨日の出来事は菊池にとっても衝撃的だったに違いない。

 菊池奈緒子は元々、僕と同じ中学校、同じ学年、隣のクラスの生徒だった。僕たちが中学一年生の時、山崎が生徒会長になった。早速、山崎は挨拶運動の強化を主張し、生徒会役員が毎朝交代で校門前に立つようになった。僕は、山崎たちには関わるなと命じられていたのを良いことに、そんな運動など公然と無視していた。

 しばらく経ったある朝のこと。校門前で、山崎と仲間の男たちが登校してきた生徒たちと挨拶を交わしていた。そこを菊池が軽い会釈でやり過ごそうとした。その瞬間だった。山崎が「丁寧に挨拶できない者は人間失格」と言い放ち、仲間の男たちが一斉に高笑いした。たまたま現場を通り掛かった僕は、惨めに立ちすくむ菊池の腕を掴み、すぐにその場から引き離した。

 その日の休み時間、落ち着かない様子で校内をさまよう菊池の姿を見掛けた。あとからふと気になり、家庭科準備室を抜け出して校内を探してみると、校舎の片隅で菊池が手首を切ろうとしていた。僕は未だ綺麗なままの菊池の手首を握りしめ、全身の震えをこらえながら必死に語り掛けた。

「死んではいけない。俺が何とかする。だから待て」

 僕の報告を受け、校長先生が直ちに動いてくれた。カウンセラーの野沢先生は、自殺未遂の件だけは絶対に口外しないよう僕に命じてきた。菊池の負担が増えてしまう。自殺の気分は伝染する。自殺は連鎖してしまう。野沢先生は厳しい口調でそう言った。

 挨拶運動を軽い会釈でやり過ごそうとする生徒は菊池だけではなかった。山崎はそういう者たちに小言や嫌味を言い続けていた。校長先生によれば、山崎はその繰り返しに我慢できなくなったらしい。風紀の乱れを正すと称して菊池を見せしめにしたとのことだった。

 菊池が保健室登校をしていること自体は秘密でも何でもなかった。しかも、山崎にとって菊池は下級生。そんな弱い相手だからこそ屈服させやすいと考えたのだろう。

 山崎に最敬礼をしなければ人間失格。そんな話はあり得ない。なのに、山崎は敢えて最も弱い者を選び、公衆の面前でその存在そのものを否定した。あれは挨拶運動ではない。山崎に対して全校生徒の頭を下げさせる儀式。山崎が追求していたのは、自身を頂点とする独善的な秩序だった。

 しかし結局、山崎には口頭での一般的な注意が与えられただけだった。確かに、山崎の行為は暴言一発、自殺未遂の根本原因ではない。また自殺未遂を、山崎たちも含めて一般に知られる訳にはいかなかった事情も理解できる。それでも、根拠を開示できないから軽い処分で済ませるしかないなんて、僕には信賞必罰の崩壊としか思えなかった。

 菊池はしばらく学校を休んだ。その後、時間をずらして登校し、保健室に直行するようになった。時には家庭科準備室にも顔を出し、僕を相手にぼそぼそと話をしていくようになった。菊池は信じられないほど弱々しく後ろ向きだった。僕は接し方に気を付けながら、菊池の相手を続けた。

 その頃の家庭科準備室には、時々三年生の不良三人も顔を出していた。三人は先生たちの言うことは聞かないのに、なぜか僕には素直に従っていた。三人は山崎の暴言を噂に聞いて憤慨し、「山崎を締める」と息巻いた。僕はそれを押しとどめ、代わりに菊池を陰から見守るよう依頼した。

 一年生の冬休み、家庭と学校の環境が悪いことを理由に、菊池は隣町に住む祖父母の元に引き取られていった。僕は菊池に別れの言葉を告げた。

「何も考えずに体を動かすのも良いと思う。菊池の体育のダンスは良かった」

 その時は、まさか夜間定時制で再会することになるとは思ってもみなかった。

 多くの者が、夢を見ることもなく、怒りの持ち方も知らず、泣くことさえ諦めて、校舎の片隅にうずくまっていた。僕はそういう者を見掛けるたびに声を掛けてきた。だから知っている。山崎たちに憎悪を抱いているのは、僕や杉山や菊池だけではない。菊池と似たような話は他にもある。菊池が暴露しなかったとしても、いずれどこかで他の誰かがやっていた。

 

 夜、香澄のお父さんがやって来た。香澄は昨夜から食事も摂らず、自室に籠り続けているとのことだった。そのため仕方がなく、僕に事情を訊きにきたらしい。目の具合は未だに良くなかったが、痛みは治まっていた。僕はお父さんの求めに応じることにした。

 リビングに僕と両親とお父さん。まずお父さんが、香澄から訊き出したことを説明した。

 山崎は友人。それを超える関係になったことは一度もない。山崎とはカップルになっていない。周りが囃し立てていただけ。雰囲気に飲まれて、その場では否定できなかった。

 屋上で突然、僕がしゃがみ込んだ。意味が分からなかった。体調の異変とは気付かず、中学時代からの仲間との待ち合わせもあったため、そのまま立ち去ってしまった。

 菊池への暴言は知らなかった。菊池の存在自体も知らなかった。自分たちがいじめの加害者グループと認識されていたとは思わなかった。香澄がいじめをしたことはない。

 お父さんが香澄から訊き出せたのはそこまでだった。

 お父さんの話をうけて、僕は中学校入学の話から始めた。親三人は、ある時は顔をしかめ、ある時は深刻そうな表情を浮かべながら、ほとんど無言で僕の話を聞き続けていた。

 昨日の出来事の説明が終わった頃には、日付が変わろうとしていた。僕が話を締め括ると、父は疲れた表情でソファーの背もたれに身を預け、母はわずかに俯いて何かを考え込み、お父さんは背を丸めて下を向いてしまった。

 わずかな沈黙の後、父が口を開いた。

「今の話だと、それはいじめと言うより、集団でのパワーハラスメントだな……。特にひどかったのが体育祭か……」

「お父さんたちは香澄からどう聞いていたんだよ」

 その問いには、父の代わりにお父さんが答えた。

「山崎は正義感の強いまとめ役で、山崎を中心に皆で頑張っていると……」

 あまりにも素朴すぎる認識に、僕は呆れてしまった。

「山崎は自分とは異なる在り方を許せないんです。攻撃せずにはいられないんです。山崎にとっては、残虐性は相手を屈服させるための当然の手段なんです」

 お父さんがウーンと苦しそうに呻いた。

「攻撃対象は常に、目下、弱者、少数派。山崎たちは菊池の顔すら覚えていませんでした。弱い者はいつまでも弱い。そう思い込んで高を括っていたんです。山崎たちは中学校で起きた事件の多くに直接間接に関わっています。そのため、今回の噂が広まれば、菊池の味方は陰に陽にどんどん出てきます」

 父が小さく舌打ちした。

「どうして、そんな奴が生徒会長になれたんだ」

「山崎は相手によって顔を使い分けるんだ」

「それなら、中学校の教員たちは何をしていたんだ。お前の言う通り、侮辱にせよ名誉棄損にせよ、度を越せば立派な犯罪だ。心に深い傷を負わせれば傷害罪になることだってある。学校のコンプライアンスは一体どうなっているんだ」

「校長先生たちは頑張っていた。でも、山崎たちをかばう教師たちがいたんだ。山崎たちは全員、学年の成績上位で、生徒会や委員会の中心だったから」

「実際に被害者が出ているのにか」

「現に俺の時だって、二年生のクラス担任は被害者への配慮を切り捨てて、クラスを何も変えずに維持しようとしていた」

 父は首を小さく横に振ると、念を入れるように尋ねてきた。

「これだけは正確に答えろ。山崎はパワハラをしていたが、香澄ちゃんはパワハラと認識していなかった。そのため山崎を積極的に支持してしまい、その結果メンバーと見なされてしまった。ただし、香澄ちゃん自身はパワハラに加わっていない。つまり、香澄ちゃんはただの広告塔。それでいいんだな?」

「俺もそう思っていた。だから皆にも、『香澄も十分に理解して、山崎とは縁を切った』と説明していた。でも、これではもう分からない」

 父は大きく息を吐くと、途方に暮れたように自分の頭に手を当てた。

「香澄ちゃんはそんな子ではなかった……。どこまでも山崎をかばい続けるなんて、どう考えても入れ込みすぎだ……。お前は集団同一化と言うが、そういう話をするのなら、むしろ洗脳だろう。特に、山崎と全く同じように『同級生の思い出』を持ち出してきたというのが気に掛かる」

「ああ」とお父さんは同意した。「独善的、排他的……。何のための思い出だ……」

「山崎は息をするように詭弁を吐くんだろう? そして党派的に動いて扇動する……。多分、香澄ちゃんも恩義に付け込まれて相当刷り込まれたんだ」

「ああ。犯罪性を明確に指摘されても分からないなんて……」

 僕は会話に割り込んで、お父さんに告げた。

「もう 、権威主義にはうんざりです」

「その件も含めて、今回のことは必ず香澄からきちんと説明させる」

「もういいです。言葉だけでは信用のしようがありません。やはり、香澄は僕を見下しているんです。だから、僕がどれだけ言っても、香澄には全く通じない」

 父が強い口調で「智和」と声を掛けてきた。

「このままでは大変なことになる。下手をしたら、香澄ちゃんの人生が潰れてしまう。香澄ちゃんは安田に話そうとしない。それなら、全てを知っているお前が何とかしろ」

「俺の最優先課題は、菊池への報復を阻止すること」

 その時、ここまでほとんど黙っていた母が冷ややかに言った。

「何が洗脳よ。洗脳されていたら何なのよ。全部、自業自得に決まっているでしょう」

 父たちが固まった。

「あの子は何様のつもりよ。子供の頃から散々智和に助けてもらってきたくせに、智和を両天秤に掛けて見捨てるなんて、恩知らずにも程がある。私も二度は騙されない。やはり智和の相手は、何があっても智和のことを一番に考えてくれる子でないと駄目ね」

 ついに家族と家族の間に亀裂が走った。

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