第三章 高校一年生

 四月、入学式の日がやって来た。

 県立東高等学校夜間定時制。式典は夕方から広々とした体育館でこぢんまりと行なわれた。新入生は二十五名。女子の方が若干多い。また、一見して成人と分かる男女が数名。それ以外は皆、僕と同年代のように見えた。校長による入学許可、地元選出国会議員の代理や市長、県教育委員会副委員長の祝辞と式は進んでいった。来賓の顔ぶれに、高校ともなると夜間定時制でもこんなに立派なのかと、僕は意外感を覚えた。

 入学式が無事に終了すると、直ちに教室に移動し、説明会が行なわれた。校則や時間割、日常生活の注意点、そして今後の日程。最後に担任の先生は、「夜間定時制では、続けていこうとする意欲が第一です」と話を締め括った。

 そんな話が一時間近く続いた後、僕たちは解放された。校舎の外に出てみると、すでに日は暮れ、あたりは真っ暗になっていた。多くの新入生が保護者と共に去っていく中、僕は夜の道を独り歩き始めた。

 複雑な気分だった。高校に行く気など無かったのに、成り行きで夜間定時制に入ってしまった。昼の世界で独りを貫くつもりだったのに、夜の世界に目新しさを感じてしまった。

 自宅から東高までは徒歩と電車で約五十分。香澄は毎日ここまで通ってきている。父たちの会社もこの近所にあり、二人は自家用車で通勤している。大回りをする線路に対し、道路はほぼ最短距離。自動車なら約二十分で着くはず。夜、部活動が終わって帰宅すると、かなり遅くなるだろう。説明会ではバイク通学可と言っていた。昔、父もバイクに乗っていたと聞いたことがある。確かに物置には、父が使っていたというヘルメットが残っている。この件、父に率直に相談してみよう。

 そんなことを考えていると突然、僕を呼び止める声が聞こえた。紺色のスーツを着た女子。目に力のある丸顔。名前は確か杉山由希。彼女の家も僕と同じ街にあるらしい。僕たちは夜の道を駅へ向かって歩き始めた。

 彼女は僕の中学校の名を口にすると、「西野君はそこの卒業生でしょう?」と言った。

「そう。杉山さんは僕のことを知っているんですか?」

 僕が少々堅苦しい口調で訊き返すと、彼女は軽く笑った。

「そんな話し方、することないよ。私のことは呼び捨てで構わないし」

「……杉山は俺のことを知っているの?」

「弟が西野君と同じ中学校で、西野君の一学年下なんだ。弟は西野君に助けられて、それからずっと西野君のファンなんだよ」

 杉山によれば、弟は一年生の時にいじめに遭っていた。そこに僕が現れ、いじめている連中を追い払った。

 概要だけでは誰のことか分からなかった。詳しく訊いてみると、杉山は「下駄箱の靴にジャム」と言った。その瞬間、思い出した。

 ある日、下駄箱の前を通り掛かると、一年生が誰かの靴に給食のジャムを流し込もうとしていた。「自分で食え」と僕が命じると、一年生は怯えたようにその場でジャムを飲み込んだ。

「弟は誰が犯人か分からなくて、陰で見張っていたんだって。あの日、弟は『犯人が分かった。先輩が追い払ってくれた』と本当に喜んでいたんだよ」

 その翌日、弟は学校にいじめの被害を訴え出た。「家庭科準備室の物凄く怖い先輩が証人だ」と言ったらしい。それを契機にいじめは治まった。

「あの時、俺は先生にちょっと事情を訊かれただけだから、全然知らなかった」

「弟も初めは西野君と分からなかったみたい。弟から特別表彰の話を聞いたよ。去年は学校全体で全然いじめが無かったんでしょう?」

 多分、全然ではない。悪意を垂れ流す連中はそれなりにいた。それでも、学校の雰囲気はかなり良くなった。僕も陰で努力していたが、何よりも山崎たちの学年が学校を去ったことが大きい。

 その時、僕はふと疑問に思った。弟が僕と同じ中学校なら……。

「杉山はどこの中学? 学校では見た覚えが無いんだけど」

「私は別の中学に通っていたから」

 杉山はそう言うと、口を閉ざしてしまった。

 そう言えば、先程先生から注意があった。定時制には様々な事情を抱えた者が集まってきている。だから余計な詮索をしないように。それを思い出し、僕は話題を変えた。

 

◇◇◇

 

 入学式の翌日、僕と杉山は学校の食堂で昼食を摂っていた。

 今日は個人面談やオリエンテーションなどが行なわれることになっている。定時制は夕方五時過ぎから始まるが、職員室は昼過ぎに開くので、早く来られる者は先に面談を受けるようにと言われていた。

 食堂は制服姿の全日制生徒で混雑していた。男子も女子も皆、着こなしが良かった。ネクタイを首元でしっかりと締め、シャツの裾を外に出すこともなく、ブレザーのボタンをきちんと留めていた。噂通り、隅々まで管理教育が行き届いている様子だった。

 一方、定時制に制服は無く、僕はTシャツの上にトレーナー、下はジーンズ。杉山はブラウス、春物セーター、そしてジーンズ。紺色ブレザーの人混みの中で、僕たちの姿は異様に目立っていた。

 しばらくした頃、教員らしき人が「君たちは何?」と声を掛けてきた。「定時制の生徒です」と答えると、教師はフーンと鼻を鳴らして去っていった。その瞬間、どこからともなく「定時制が食堂に」という声が聞こえてきた。僕たちは思わず顔を見合わせてしまった。

 食事が終わろうとする頃、僕は視線を感じて顔を上げた。隅の自動販売機の前に香澄が立っていた。僕と目が合うと、香澄は慌てたように背を向けた。

 相変わらず、香澄は男たちに取り巻かれていた。そこには山崎の姿もあった。連中は飲み物を買うと、そのまま去っていった。ふと見ると、杉山もその後ろ姿を目で追っていた。

 

◇◇◇

 

 四月の第二週、ある日の夕方。食堂に定時制の全校生徒約七十名と教員十数名が集まっていた。給食の時間だった。定時制は大幅な定員割れを起こしており、食堂が広々として見えた。

 定時制では暴力といじめは即退学。そのため粗暴な者は一人もいなかった。また、身だしなみは自由。そのため、髪の形や色も様々、服装もそれぞれ。化粧が許されているからなのか、それとも元々そうなのか、上級生に可愛い女子が多いのが印象的だった。

 上級生の間では、それなりに会話が弾んでいた。一方、一年生のテーブルは静まり返っていた。知り合って間もないためか、特に男子が陰気と言えるぐらいに大人しかった。

 そう言えば、先週の個人面談の際、教頭先生が僕にこっそりと依頼してきた。クラスメートの面倒を見てあげてほしいと。先生は僕の中学時代を知っていた。どうやら、極めて特殊な事情は中学校から高校に申し送られているようだった。

 中学時代、僕はカウンセラーの野沢先生の指示の下、難しい生徒たちの相手を務めていた。本来なら中学生の僕がするようなことではないが、とにかく人手が足りなかった。校内をフラフラとさまよう生徒までいて、保健室の先生一人では対処し切れなくなっていた。

 野沢先生の指示は多種多様だった。大量の「してはいけない事」。ごく少量の「してほしい事」。「俺が何とかする」などと安請け合いをしてはいけないこと。先生は発達心理学や精神医学に関する専門的な事柄まで僕に教えてくれた。

 改めて一年生のテーブルを見渡してみると、確かに問題のありそうな生徒がいる。しかし、深刻な者はいない模様。本当に深刻なら、全日制はもちろん、おそらく夜間定時制にも来られない。

 そんなことを考えながら食事を続けていると突然、作業着姿の男性が声を上げた。

「先生。五月の遠足ですけど、家族を連れてきては駄目ですか」

 先生たちの間で笑い声が上がり、「気が早いなあ」という声が聞こえてきた。

 質問したのは同級生の清水さん。生徒皆が素性を明かさない中、清水さんだけは大っぴらに自分のことを語っていた。現在三十一歳。僕の父が勤める会社の生産ラインで働いているとのこと。

「家族も連れていってやりたいんですよ」と清水さんは言った。

 体育の先生がまるで独り言のように、しかし皆に聞こえるような大声で答えた。

「どうせ電車で行くのだし、たまたま行き帰りが一緒になっても変ではないよな」

 そこに教頭先生が口を挟んだ。

「これまでも、保護者の同伴を認めた例はありますから。でも、遠足も授業の一環だということは忘れないでくださいよ」

 

 短い給食の時間が終わり、二時限目の数学が始まった。先生は教科書に沿って授業を進めていたが、解説は一々中学校レベルにまで遡っていた。

 僕は一番後ろの席で高校三年の数学の問題集を広げていた。数学、物理、化学、地学。理系の科目は面白く、勉強はいくらでも捗った。隣を見ると、杉山が高校二年の数学の参考書を手に何かを計算していた。

 授業が始まってしばらくすると、椅子に仰け反ったり、体をモゾモゾと動かしたりする生徒が出始めた。集中が続かないのか、こんな低レベルの授業にも付いていけないのか、彼らはいかにも退屈そうだった。しかし、授業を妨害する者は一人もいなかった。

 初回の授業のことだった。二人の男子が私語を始めた。元々知り合いだったのか、二人の私語は延々と続き、いかにも耳障りだった。その時、「うるせえ!」という怒声が教室に響き渡った。見ると、清水さんが二人を睨み付けていた。「邪魔すんじゃねえ。こっちは遊びで来ているんじゃねえんだ!」というライン工の一喝に逆らえる者など、どこにもいなかった。

 授業が終盤に差し掛かった頃、先生が「練習問題を解きましょう」と宣言した。

「西野君と杉山さんは皆に教えてあげてください」

 先生は教室を歩き回り、生徒一人一人を確かめていた。僕と杉山も席を立ち、他の生徒の質問に答えて回った。先生は「あげてください」と言ったが、教頭先生には「義務」と申し渡されていた。この義務を果たさないと授業に参加したとは認めず、欠席扱いになると警告されていた。

 僕が清水さんの相手をしていると、突然「分かんない」という女の声がした。見ると、菊池が杉山に向かって声を上げていた。慌てて先生が割って入り、僕もそこへ向かった。

 菊池は感情的になっていた。僕は脇からなるべく穏やかに声を掛けた。

「菊池。落ち着いて話せ。そうしないと、こちらも分からないから」

「私は馬鹿だから、早口で言われても分かんない……」

 菊池はそう言うと、泣き始めた。

「西野君と杉山さんは他の人たちを見ていてくれますか」

 先生は菊池のそばにしゃがみ込み、小声で話し始めた。

「自分のことを馬鹿と呼んではいけません」

 そんな声が聞こえてきた。

 

 夜九時、放課後になった。僕は急いで体操着に着替えて体育館へ向かった。定時制にはバドミントン部と卓球部と書道部しか無い。僕は杉山に誘われてバドミントン部に入部していた。

 他には誰もいない夜の体育館。僕たちは手早く準備運動を済ませ、館内に散らばってラリーを始めた。

 部員は女子六名、男子一名。部の規模は中学時代の柔道部とさして変わらないが、実力は相当なものらしい。四年生の佐野さん、三年生の岩瀬さん、二年生の石川さんは昨年、定時制通信制の全国大会に出場したとのことだった。

 向こうのコートでは、杉山が二年生の寺田さんと石川さんを相手にしていた。杉山はシングルス、二年生ペアはダブルスの練習。杉山の技量も相当なもののように思われた。

 隣のコートでは、一年生の遠藤さんが三年生の岩瀬さんとラリーを続けていた。遠藤さんは初心者で、部内唯一の二十代。そんな年上の下級生にも、岩瀬さんは遠慮なく「腕が縮こまっている」と叱咤の声を飛ばしていた。

 僕は四年生の佐野さんと組になり、シャトルを打ち続けていた。佐野さんも容赦が無かった。初心者の僕を相手に次から次に打ち込んできた。僕が返せば返すほど、佐野さんの激しさは増していった。

 そして、時間の大半を実戦形式の練習に費やして、あっという間に部活動は終了した。

 

 夜十時半、女子五人がジャージ姿のままスクーターや自転車で走り去るのを脇目に、僕は杉山と徒歩で学校を後にした。

 皆の姿が視界から消えた瞬間、杉山が弱音を吐いた。

「疲れた……。体がなまっている。練習がきつい……」

 肉体的にはともかく、心理的には僕も同感だった。

「俺がいた柔道部と一緒だ。部員が少ないから、全員を鍛えて試合では総力戦をするんだ」

 杉山は大きく頷いた。

「柔道部は先生の指導があって県大会だったけど、ここは生徒だけで全国だろう。凄いな」

「柔道部の先生って、橋本先生だっけ」

 意外な言葉だった。杉山は僕の中学校の内情を知っている様子だった。

「そう。橋本先生……。そうか。弟から聞いたのか」

 杉山は何かを考え込むような表情になった。どうしたのだろうと思い、僕は杉山をちょっとおだててみた。

「それにしても、杉山は上手いな。さすが、中学校でやっていただけのことはある」

 杉山が自慢げに鼻を鳴らした。

「実は、全日制のバドミントン部に俺の知り合いが……」

 その瞬間、「安田香澄」と杉山が言った。その冷ややかな口調に僕は驚いた。

「知っていたのか……。バドミントンの試合で当たったことがあるとか」

「そうではない。中学校に入った時から安田のことは知っている」

 僕が「そうなの?」と訊くと、杉山は事情を話し始めた。

 杉山は元々僕と同じ中学校の生徒で、僕の一学年上だった。

 中学一年生の時、杉山は香澄と同じクラスになった。クラスには幼稚な生徒が多く、同級生とは友達付き合いをする気になれなかった。すると、「澄ましている。気取っている」と陰口を叩かれるようになり、いじめられるようになった。机に落書き。物を隠す、捨てられる。その他、諸々の嫌がらせ。その間、周囲の者たちは見て見ぬ振りを続けていた。

 当初は誰が犯人か分からず、杉山は黙々と対応していた。犯人が分かった後は、なるべく穏やかに「やめてほしい」と伝えるに留めていた。その大人の対応がいじめをエスカレートさせた。担任に相談しても、深刻に受け止めてくれなかった。

「あの担任は『皆仲良く』としか言わなかった。結局、担任が相談を握り潰す形になっていたんだ」

 いったんは鎮静化したいじめが再発した。杉山は我慢し切れなくなった。首謀者の女子の教科書とノートを破り捨て、激しい取っ組み合いの末に首謀者を組み伏せ、床に転がる首謀者の髪とネクタイを掴んで校舎内を引き摺り回した。それは杉山が生れて初めて振るった激しい暴力だった。そこまでして、ようやくいじめは全校に知れ渡る所となった。

 もはや、いじめの加害者グループはもちろん、傍観者たちの顔も目にしたくなかった。そのため、自らが転校することにした。

「私は転校前の最後のホームルームでクラス全員に言った。『ここにはいじめをする者と、知らん振りをする者しかいない。こんな卑怯者たちと一緒にいたくないから転校する。屑は屑同士で仲良くやれ』って」

 新しい学校で二年生になってしばらくした頃、突然、以前の同級生十数名がいじめを傍観したことを謝罪しにきた。その時に僕の存在を知った。

「私の知らない所で私のために戦ってくれた人がいたなんて、思いもよらなかった。西野君が私の言いたかったことを言ってくれた。本当に嬉しかった」

 新しい学校ではいじめは受けなかった。しかし、精神的なショックが中々消えなかった。突発的に精神的な疲労や虚脱感、意味不明な焦燥感を感じることがあり、そのたびに学校を休んでしまった。

「あいつの泣き叫ぶ声や、髪の毛やネクタイの感触が蘇ったり……、授業や部活の最中、突然『私は何をしているのだろう』とか『もうやめよう』とか思ってしまったり……。学校を抜け出してフラフラしていて、お巡りさんに学校に連れ戻されたこともあったんだ」

 そんな状態では上手くやっていけるか自信を持てず、高校には進学しなかった。昨年一年間は高卒認定試験を目標に、塾に通っていた。

「そんな時に突然、前の学校の校長先生が連絡をくれたんだ。夜間定時制高校はどうだろうって。その中で、西野君が行くという話を聞いて、私も急いで願書を準備して二次募集に応募したんだ」

 そこまで話が進んだ時、駅に着いた。僕たちは会話を中断してホームへ急いだ。

 深夜の電車はがらがら、空席だらけだった。座席に腰を下ろすと、僕はナップサックからチョコレートを取り出し、杉山に一粒差し出した。「疲労回復の薬」と教えると、杉山はヘーッと感心するような声を上げた。

「ところで、中一の時の担任って誰?」と僕は訊いた。

 杉山が口にした名前には聞き覚えが無かった。

「西野君は知らないと思うよ。年度の終わりに別の学校に移ったらしいから」

「そもそもの首謀者は今どうしているんだ?」

 杉山が皮肉っぽく鼻で笑った。

「噂では、高校でもすぐに本性を現して、今は因果応報を満喫しているらしい」

 その言い方に、僕も失笑してしまった。

「あの中学校には、本当に幼稚な生徒が多いでしょう。小さく群れて、くだらない話をしたり、人の悪口を言ったり。校舎の中で鬼ごっこをするような生徒までいて、まるで幼稚園。私は学校そのものから逃げ出したけど、西野君は良く家庭科準備室で我慢したね」

「まあ、色々あったけど……」

「西野君と安田は数分違いの幼馴染なんでしょう? 仲はどうなの?」

 僕が「全然」と答えると、杉山は「やっぱりね」と言った。

「山崎の仲間だもんね。もしかして、あの二人は付き合っているとか」

「前に訊いた時には、そういう関係ではないと言っていたけど……」

 杉山はフーンと鼻を鳴らした。

「転校前の最後のホームルームで、山崎は私に向かって何と言ったと思う?『そもそもクラスの和を乱すのが悪い』と言ったんだ」

 呆れてしまった。やはり僕が知る以前から、山崎は筋違いな主張を繰り返していたのだ。

「ひどいな。いじめの被害者が悪いって……」

「山崎こそは真の屑。あの時、山崎は学級委員だったのに、いじめを黙認して最後に暴言を吐いた。その後、焦りや苛立ちを感じ続けたのは、多分あの屑を叩き潰せなかったから。あいつは今度の全日制の生徒会長選にも立候補しているでしょう。本当に腹立つ」

「まさか安田も暴言を吐いたとか……」

「安田はいつも知らん振り。男子たちに構われて、いつもその陰に隠れている」

「安田は自分がいじめの標的になるのが怖くて、その他大勢の振りをしてしまうらしい。杉山へのいじめを見て、なおさらそうするようになったと言っていた」

 僕の言葉に、杉山は意外そうな表情をした。

「西野君にはそんな話をしたんだ……」

「昔、ちょっとだけ。杉山のこととは知らなかったけど」

 

◇◇◇

 

 四月の第二週、土曜日の昼、僕は母と食事を摂っていた。

 夜の学校に入ったことで、生活パターンが変わってしまっていた。平日は朝遅くに起床。家で朝食兼昼食を済ませて登校。深夜に帰宅して、日付が変わってかなり経った頃に就寝。以前と同じなのは土曜夕方の柔道教室だけだった。学校の食堂で昼食を摂るのはやめていた。混雑が激しい上に、全日制生徒の視線が不愉快だった。

 今日はバドミントン用品を買いに行く予定になっていた。その話を切り出すと、母は平然と言った。

「香澄ちゃんは家にいないのかしら。付いていってもらったら?」

 ギョッとした。この数年間、この家では香澄の名は禁句に近い状態にあった。

「香澄は休日も部活があるんじゃない?」と僕は暗に拒否した。

「休日の部活は土曜日だけで、二週間に一回と聞いたけど。ついでに、香澄ちゃんに学校のこととかも教えてもらったら?」

「部の仲間が一緒に行ってくれるから、香澄はいい」と僕は明確に拒否した。

 母は箸を止めた。

「部の仲間って全員女子でしょう。そんなに仲の良い子がいるの?」

 僕が「クラスメートだよ」と答えると、母の顔に心配そうな表情が浮かんだ。

「あんまり香澄ちゃんを邪険にしては駄目よ」

「俺が香澄に冷たくしていると言う訳? 香澄は『私を常に先輩と呼べ』と言ったまま、ほとんどそれきりなんだよ?」

「皆の前で『特別な関係』みたいなことを言われれば、恥ずかしくなるに決まっているでしょう。智和は自分が物怖じしないものだから、そういう所が……」

 呆気にとられた。予想外の指摘だった。母は香澄から直接聞いたのだろうか。仮にそうだとしても、とても本音とは思えない。香澄は顔立ちもスタイルも良いし、一見穏やかそうで言動も素直。そのため誰も、香澄にも裏表があるとは思わない。

 中学校入学の日、香澄は僕を黙殺した。翌日の帰り道、怪我の具合を尋ねておきながら、香澄は僕をいたわろうとしなかった。そして「私を常に先輩と呼べ」と命じると、そのまま僕を置き去りにした。あの一貫した冷淡さ。事情があったのなら、置き去りにせずに説明したはず。恥ずかしさだけが理由とは到底思えない。

 僕が黙って考え込んでいると、母は呆れたような口調で話し掛けてきた。

「あれからもう三年でしょう。まだ怒っているの?」

「怒ってはいないけど、やっぱり不愉快だよ。高校でも香澄は俺を避けている。香澄には男がいるんじゃない?」

「そんなことがある訳ないでしょう。香澄ちゃんはいつも智和に気を遣っているのに……」

 その時ふと、母の視線に気付いた。母はいつになく真剣な様子で僕の顔色を窺っていた。

「とにかく、今日は約束があるから」

 僕はそう答えて昼食を掻き込み、そそくさと席を立った。

 

◇◇◇

 

 翌日、日曜日の午後、僕は自室で独りのんびりしていた。手元には杉山に選んでもらった真新しいラケットとシャトル。その感触を確かめていると、そこに珍しい人物が現れた。母たちを経由して話が伝わったのだろう。香澄は自分のラケットを手に「公園でやらない?」と誘ってきた。

 春の日差しが降り注ぐ中、僕たちは閑散とした公園で向かい合った。しかし、香澄は手にしたシャトルをしげしげと眺めるばかりで、中々打とうとしなかった。

「定時制ではいつもこれを使っているの?」

「安くあげるためだって。大会前は他の種類も使うらしいんだけど」

「ふーん。ナイロンか」

 香澄が何を言おうとしているのか、初心者の僕には良く分からなかった。

 延々とラリーが続いた。さすがに競技バドミントン五年目の香澄は上手かった。とは言え、いつも練習相手になってくれている四年生の佐野さんと比べると、どことなく迫力に欠けていた。屋外だからだろうか、正確性も劣っているように思えた。

 途中から、香澄はスマッシュを混ぜてくるようになった。難なく打ち返していると、スマッシュは激しさを増していった。もはや、迫力不足の原因は明白。同じようにラケットを振り抜いているようでも、香澄と佐野さんとではミートの鋭さが違うのだ。

 三十分以上が経った頃だった。風が吹き抜け、シャトルが流された。それをもってラリーは終了。僕たちは公園のベンチに並んで腰を下ろした。僕がシャトルを筒に戻していると、香澄は呆れ声を上げた。

「良く拾うよね。相変わらず、反射神経だけは凄いよね」

「『だけ』は無いだろう。相手のラケットを良く見ていれば、それぐらい……」

「そんなに簡単じゃないでしょう」

「簡単だよ。相手のミートの瞬間、シャトルの行き先が曲線の形で全部見えてしまうんだから」

「何、それ……。定時制ではどんな練習をしているの?」

「ひたすら打ち返すだけ。『初心者は攻撃を考える必要は無し。正しい位置取り、正しいフォーム。全部拾えば負けは無し』。それが部長の口癖」

 香澄は大きな溜め息をつくと、視線を足元に落とした。

 不思議な気分だった。小学生の頃は、いつもこんな風に二人で遊んでいた。しかし、今日の用件がバドミントンだけとは到底思えなかった。

「一年ぶりに現れて、何か用があるんだろう?」

 僕がそう切り出すと、香澄は「ん? うん」と曖昧に答え、所在なさげにラケットをいじり始めた。

「杉山から聞いたよ」

 香澄は少し間を置いて答えた。

「聞くだろうと思った」

 やはり探りを入れにきたのか。

「まだ誰にも話していない。それで?」

「杉山さんは何と言っていた?」

「山崎こそは真の屑」

「私のことは?」

「そんな奴と一緒にいる傍観者」

「そっか……」と香澄は呟いた。

「山崎は『クラスの和を乱す奴が悪い』と言ったんだって?」

 香澄はラケットに視線を向けたまま、何も答えなかった。

「中学校では、山崎が生徒会長として頑張れば頑張るほど、皆が苦しんだんだ」

 香澄は手を止めて顔を上げ、訝しげに尋ねてきた。

「山崎君が頑張ると皆が苦しむって、どういう意味? 勘違いしているといけないから念のために言うけど……、山崎君は杉山さんに厳しいことを言ったかも知れない。でも、山崎君がいじめた訳ではないんだよ」

「香澄も山崎の言動を知っているだろう。それが皆を苦しめる。学校行事自体は悪くないのに、山崎が先頭に立つと最悪になる。山崎の人間性が全てを台無しにする」

「そんなことはないよ。智和君の言葉の方がよっぽどきつい」

「内容が違うだろう。『犯罪は被害者のせい』なんて暴言の典型だ」

 わずかに間が空き、再び香澄が口を開いた。

「智和君は山崎君の悪い面ばかりを見ているんだと思う。山崎君は学校を良くするために、善意で頑張っているんだよ。なのに、自分勝手な人が多すぎる。少しぐらい言い方がきつくなっても、しようがないよ」

「なぜ、そんなに山崎の肩を持つんだよ。山崎と付き合っているの?」

「誰とも付き合っていない。智和君はそんな風にしか考えられないの?」

「違う。そこまで山崎の肩を持つ理由が分からないんだ。あれは善意ではない。悪意だ」

 その瞬間、香澄の語気が強まった。

「いい? 私と山崎君は同級生で、智和君は下級生。私はずっと山崎君を見てきた。でも智和君はそうではない。私の学校の思い出は山崎君と全部一緒。下級生の智和君との思い出なんて何一つ無い。だから、智和君には分からないんだ」

 愕然とし、次の瞬間、疎外感と怒りが湧き上がった。

 香澄から見れば、下級生の僕はその他大勢、山崎こそが共に歩む者。

 自覚と自制。激情をぶつけ合ったところで、何も変わらない。僕は深呼吸をした。

「香澄は今、自分勝手な者には厳しい言葉も仕方がないと言った。それは全面的な真理ではない。杉山は中学生の幼稚さを無視し、大人の態度で応えた。俺は中学生の幼稚さを拒否し、大人の作法を説いた。そんな俺たちに、山崎は偉そうに『中学生らしく幼稚になれ』と命じた」

 香澄がハッとしたように息を凝らした。僕は続けて指摘した。

「命じるべき相手は同級生。内容は『大人になれ』。そうに決まっているだろう」

 香澄からは何の言葉も戻ってこなかった。

「杉山はいじめと山崎の暴言にショックを受け、そのせいで高校進学が遅れたんだ。香澄と山崎が思い出作りをしている間、杉山は苦しみ続けていた。筋違いの暴言で他人の人生を狂わせておいて、『善意で頑張っているのだから』で済むはずがない」

 僕は「その上」と言い掛けて、続く言葉を飲み込んだ。明かしてはならないことを口にしそうになった。

「今度の生徒会長選で、香澄は山崎の推薦人に加わっているだろう。高校ではそこまでにしておけよ。そうしないと、また皆から白い目で見られるぞ」

 香澄は沈黙していた。

「探りを入れにきたのは、少しは後ろめたいと思っているからなんだろう? 一度、杉山の話を聞いてみるべきだ。俺が間に立ってやる」

 僕は香澄に「帰ろう」と声を掛け、ベンチから腰を上げた。

 

◇◇◇

 

 ゴールデンウィークが明けた日の午後、僕は学校の図書室にいた。

 東高には夜間定時制専用の自習室がある。夜間定時制は勤労生徒のための学校と言われているが、働いていない生徒も多い。意欲の高い者は五時過ぎの始業時刻より前にやって来る。通信制高校の単位取得、資格取得、受験勉強。平日の午後、自習室の八つの座席はそういう生徒たちで埋まってしまう。一般教室は全日制と共用のため、僕を含めて一部の生徒は図書室を日頃の居場所にしていた。

 図書室を利用する全日制の生徒はほとんどいない。せいぜい、数人の決まりきった生徒が姿を見せる程度。そもそも、開室時間のほとんどが全日制の授業時間と重なっている。まさに、図書室は定時制のために存在しているようなものだった。

 今日もいつも通り、僕たちは図書室の一番奥のテーブルを占有していた。

 僕の向かいの席では、杉山が化学の参考書を手にしていた。志望は国立理系。まずは夏の高認合格を目指している。手順が確立しているのか、てきぱきとした勉強ぶりだった。

 僕の隣の席では、遠藤さんが数学の問題集を広げていた。志望は看護学校。先程から計算用紙に数式を書き殴っていた。

 遠藤さんはこれまで勉強法というものを考えたことがなかったらしい。そのため、僕の勉強ぶりにしきりに興味を示し、僕のやり方を真似るようになっていた。書き殴るのも僕の忠告によるものだった。綺麗さよりもスピードと量。そんなちょっとしたアドバイスにも、遠藤さんは必ず素直に従っていた。

 全日制の五時限目終了のチャイムが鳴った。それと同時に、杉山が両腕を突き上げて伸びをした。

「やっぱり、西野君も携帯電話を買ってもらったら?」

 杉山の勧めに、僕はウーンと唸った。多分、買っても使わない。

「杉山は去年、塾に入った時に買ってもらったんだっけ」

 頷く杉山に、僕は軽く失笑してしまった。それでは常に親に見張られているも同然。

「家族以外に連絡を取り合う相手はいるの?」

「失礼な」と杉山は笑った。「いるよ。この前は遠藤さんとも連絡先を交換した。西野君も買えば、皆で連絡を取り合えるでしょう」

「携帯は束縛されるようで嫌なんだ。それに、メール程度なら家のパソコンでも出来るし」

 杉山はわざとらしく脱力の仕草をすると、話題を変えてきた。

「ところで、夏の高認と今度の全国模試は申し込んだ?」

「うん。模試は二年生向けの奴。杉山も両方申し込んだんだろう?」

 杉山が頷くと、脇から遠藤さんが「二人とも勉強熱心よね」と口を挟んできた。すると、杉山は愚痴をこぼした。

「勉強熱心と言えば、菊池には本当に参る。いつも『分かんない』って、やる気があるのか無いのか、それこそ分かんない……。そう言えば、菊池は西野君とは普通に話しているよね。何だか意外」

 それこそ杉山の言葉の方が意外で、僕は「何が」と訊き返した。

「西野君は真剣になると目付きが凄く鋭くなるでしょう」

「人相悪いかな」と僕はわざとらしく笑顔を作って見せた。

「ううん」と杉山は首を振った。「そういう種類の目付きではないけど、菊池も西野君の前では『分かんない』なんて言えないだろうにと思って」

「菊池に懐かれてしまって、俺もきついことは言えないんだよ」

「今度から西野君が菊池の面倒を見るよう、先生に頼んでみようかな」

 遠藤さんがフフと笑った。

「もう少し長い目で見てあげなさいよ。菊池さんは良い子よ」

「本当ですか?」と杉山が不満を漏らした。

「本当よ。それに、菊池さんは杉山さんのことも気に入っているみたいよ。何だかんだ言いながら、結局面倒を見てくれるから」

 僕は思わず笑ってしまった。

「杉山も懐かれているじゃないか」

 その言葉に、遠藤さんは優しく微笑み、杉山は苦笑した。

 

 午後四時を回り、校舎内が騒めき始めた。全日制の七時限目が終了した模様。程なくして全日制の生徒が図書室に姿を現した。

 そう言えば、ゴールデンウィーク前半に全日制バドミントン部の地区予選が行なわれたらしい。男女ともにそこで敗退。三年生は部活動を引退したとのことだった。

 一方、僕は連休中、柔道漬けだった。一般向け教室だけでなく、久々に子供向けにも参加した。運動における僕の本当の目標は高校生の内に二段を取ること。しかし、このままでは中々達成できそうにないと感じていた。

 

 午後五時過ぎ、僕たちは図書室での自習を切り上げ、いったん自習室に顔を出し、その後教室へ向かった。

 同級生はまだ揃っていなかった。ショートホームルームが始まる頃、職を持っている生徒たちが次々に教室に駆け込んできた。それでも揃わなかった。ホームルームの終わりに担任の先生が言った。

「残念ですが、四月末をもって一年生二名が学校を辞めました」

 改めて教室を見渡すと、授業中退屈そうにしていた茶髪と金髪の姿が無かった。

 

 三時限目は体育の授業。僕たちは体育館に集合していた。先生は姿を現すなり、「今日からはダンスをやる」と宣言した。

 これまでは、基礎体力向上と称して基本的な運動ばかりをしていた。しかし前回、一部の生徒が「詰まらない」と言い出した。先生はその声に柔軟に応えてくれたようだった。

 まず、先生はノートパソコンで三十秒のヒップホップダンスの動画を見せてくれた。次いで自ら模範演技を行ない、僕たちに指示を出した。

「グループに分かれて練習し、授業の終わりに実演してもらう。それでは……」

 先生は数名の男女の氏名を呼んだ。

「その者たちはリーダーとして各グループのメンバーに教えてあげるように」

 リーダーに指名された者たちが動画を確認し始めた。僕は杉山、遠藤さん、清水さんと組になり、リーダーがやって来るのを待った。

 僕たちの前に立ったのはやはり菊池だった。菊池は「良く見ていて」と言うなり、いきなり激しく踊り始めた。

 先生の模範演技など比較にならなかった。体全体に生気が漲り、普段は暗い童顔に笑みがこぼれていた。綺麗な手首とほっそりとした脚の軽快な動きが小気味良かった。動きの切れが良いからだろう。ターンした時に髪がフワッと広がったのが印象的だった。

 踊り終えた菊池に、僕は「お前、凄いな……」と驚嘆の声を掛けた。菊池はこれまで見たことがないような得意げな表情をした。「やれば出来るんだ」という杉山の声には、フフンと鼻を鳴らして笑みをこぼした。その後、僕たちは見様見真似でダンスを覚えていった。

「清水さんは手しか動いてない。遠藤さんは腰が変。西野君は盆踊り。杉山はタコ」

 菊池のそんな楽しそうな声が次から次に飛んできた。

 

 授業が済み、部活動も終わった帰り道、杉山は何度も「タコ」と繰り返した。

「何だか腹立つ。菊池はタコしか言葉を知らないんじゃない?」

 僕は思わず吹き出した。

「でも、確かにタコ踊り……」

 瞬時に、「西野君は盆踊り」と杉山が切り返してきた。僕は杉山を宥めた。

「多分、菊池も誰かにタコとか盆踊りとか言われたんだよ。でも、今日の菊池は凄かった。それに手とり足とり、杉山に付きっきりで教えていたじゃないか。良い所あるよな」

 杉山は黙っていた。「正直に言ってみな」と声を掛けると、杉山はようやく「まあね」と答えた。

 

◇◇◇

 

 五月中旬の日曜日、遠足の日がやって来た。午前、僕は集合場所となっている学校の最寄り駅へ向かっていた。

 一年生の目的地は、離れた街にある水族館。昼頃現地に着いて昼食を済ませ、その後館内を見て回ることになっていた。また、清水さんの提案が切っ掛けとなり、遠足とは別の保護者会行事に参加するという名目で、家族なども同行して良いことになった。

 駅に着いてみると、すでにほとんどの参加者が到着していた。教員と生徒、保護者会参加者、合わせて三十七名の団体だった。

 行きの電車の中、あちこちでそれなりに会話が弾んでいた。向こうの方では、清水さん夫妻が先生たちと話し込んでいた。その近くで、菊池と杉山が清水さんのお母さん、娘さんと賑やかに談笑を続けていた。

 聞けば、清水さんと奥さんは同い年。娘さんは中学三年生。誰も余計なことは言わなかったが、察しはついた。清水さんは子供が出来たことを切っ掛けに、中卒のまま働き続けてきたのだ。いかにも物議を醸しそうな話だが、清水さんは堂々としていた。家族四人、とても楽しそうだった。

 僕は遠藤さんと並んで席に座り、二人で雑談を交わしていた。会話自体はいつもと大差ないのに、ドキドキが止まらなかった。

 遠藤さんは軽く化粧をしていた。いつものクールな顔立ちが今日は際立って端整に見えた。その上、上品さも感じさせるカジュアルな装い、颯爽としたパンツルック。他の女子は単なる女子だが、二十四歳の遠藤さんは紛れもなく女性だった。

 そんな僕に、遠藤さんはいつも通りの気さくな口調で話し掛けてきた。

「家族揃って遠足って、楽しそうでいいわね」

「ええ。でも最初は大変だったんでしょうね」

「余計な苦労は無い方が良いのだろうけど、清水さんも奥さんも見る目があったのね……」

 高校生ぐらいで子供を作ったカップルは、その後破綻する例が少なくない。喧嘩をしたり、他の異性に目移りしてしまったり。

「一生を共に出来る相手を一人探し出す。たったそれだけのことを出来ない人も多いの。私はそういう人たちをたくさん見てきた」

 遠藤さんは僕の知らない世界を随分見てきたようだった。何とも言いようがなく、「そういうものですか……」と曖昧に答えた。

「目の前の相手をどのように考えるのか、それに集中できない人は駄目なのよ」

 返事に困った。すると、遠藤さんは薄い笑みを浮かべた。

「『もっと良い男はいないかな』なんて考えている女は好き?」

「絶対に嫌です」と僕は即答した。「それは、相手のことなんか考えず、気分次第で男を乗り換えるという意味でしょう。そんなの、人として信用できません」

「そうよね」と遠藤さんは軽く笑った。「きっと、清水さんも奥さんもそういうことは考えない人なのでしょうね」

 続けて、遠藤さんは「幸せそうで羨ましい」と漏らした。

 こんな所でいきなりそんな風に心情を明かされて、僕は困ってしまった。安易に同意してはいけないような気がして、僕は軽口を叩いた。

「遠藤さんも良い相手を見付けて結婚すればいいじゃないですか」

「それなら西野君が結婚してくれる?」

 即時の切り返しに、ウッと言葉に詰まった。遠藤さんの方が一枚上手だった。返すべき言葉を探していると、遠藤さんは鼻で笑った。

「冗談。高一では結婚できないものね」

 僕は脱力し、冗談めかして言い返した。

「僕を待たせておばさんにしてしまったら可哀想なので、大変残念ですけど辞退します」

 すると遠藤さんは、「私はいつまでもお姉さんよ」と笑った。

 予定通り昼前に目的地に着いた。僕たちは団体客用のレストランに入り、昼食を摂り始めた。

 向こうのテーブルから、しきりに「お婆ちゃん」という菊池の声が聞こえてきていた。菊池は清水さんのお母さんの隣に座り、何かとお母さんの世話を焼いていた。すると、僕の真向かいから清水さんの笑い声が聞こえてきた。

「菊池は面倒見がいいな。でも、お袋はまだ六十にもなっていないし、ちゃんと働いているんだぜ」

「今日の菊池は授業中とは大違いですね」と僕は応じた。

「菊池さんは勉強が苦手と言っていたけど、優しいのが一番だよね」と奥さんが言った。

「清水さんの所は一家四人で本当に仲がいいですね」

「おう。それは自慢できるよな」と清水さんは胸を張った。

「恋愛から始まる仲の良い家族って理想的ですよね」

 その瞬間、清水さんと奥さんが顔を見合わせた。しまった、言葉を間違えた、理想の家族計画には程遠い話、と僕は焦った。すると清水さんは、「まあ、色々あったけどな」と苦笑した。

 昼食が済み、僕たちは水族館に入館した。午後二回目のイルカショーの開始まで、自由行動の予定になっていた。僕は皆から離れ、独りでブラブラと館内を歩き始めた。

 ここは高校入試の日にやって来た場所だった。あの時は高校進学の意欲を完全に失っていた。しかし今は、定時制に入学して良かったと思える。少なくとも、三年間も家に籠もり続けるよりはずっとましだった。

 定時制では、学校の活動を妨げず、他者を尊重し、授業に出席していれば、その他のことは大抵自由。一方全日制では、社会で認められている行為の多くが禁止されている。定時制の在り方に慣れてしまうと、もはや全日制の管理教育は異常としか思えない。

 また、定時制の生徒は皆それぞれ訳有りのためか、気の優しい者が多いような気がする。杉山とは気が合う。打てば響くように言葉が返ってくる。遠藤さんはさすがに経験が違う。時折、思いもよらぬ言葉が返ってくる。

 水槽を眺めながらそんなことを考えていると、程なく集合時刻がやって来た。その後、僕たちはイルカショーを楽しみ、裏の飼育施設を見学させてもらい、水族館を後にした。

 帰りの電車の中、清水さんが僕の隣にドカッと腰を下ろした。突然のことに僕は動揺した。すると、清水さんは真剣な表情で僕の耳元で囁いた。

「西野は杉山と付き合っているの?」

 僕は否定したが、それにはお構いなしに清水さんは話を続けた。

「俺は、高校生でもやりたければやればいいと思うよ」

 セックスの話だと思った。

「ただし、やるのなら本気でないといけない。必ず責任を取らなければいけない。俺は責任を取った。だから全然恥ずかしくない」

 そう言うと、清水さんは身の上話を始めた。元々、清水さんはお母さんと二人暮らしだった。そんな時、高校の同級生だった奥さんを妊娠させてしまった。様々な意見が錯綜する中、奥さんは産むと決意し、清水さんの家に転がり込んできた。

「大変だとは思ったけど、それでも俺は嬉しかったんだ。お袋と二人で寂しく暮らしていたのが、急に人が増えて賑やかになったんだぜ」

 清水さんは高校を辞めて職を探した。しかし中卒の十五歳では、家族を十分に養える仕事は見付けられなかった。子供を中絶し、奥さんと別れるのだけは絶対に嫌だった。最後に高校の先生に付き添ってもらい、一番望みの薄そうな所、全国的にも有名な県内最大企業、僕の父が勤める会社に出向いた。

「受付の人は良い顔をしなかったんだけど、その時、安田という人が人事に掛け合ってくれたんだ。『昔は中卒も採っていたのだし、仕事が出来るのならいいじゃないか』って。そんな俺が今では生産ラインの主任だぜ。母子家庭の中卒を相手にしてくれた人なんて、先生と安田さん以外、誰もいなかった。二人がいなかったら、娘は生まれてこなかった。二人には本当に感謝している」

 その後、娘さんも成長し、中学三年生になった。

「今時、親が中卒というのも何だし、やっぱり俺も高校に行きたかったんだ。それに高卒になれば、いずれ課長ぐらいにはなれるだろうし。だから、俺は定時制に入ることにしたんだ。今年俺が入って、来年娘が全日制に入れば、娘と一緒に同じ高校を卒業できるだろう。それが楽しみなんだ」

「清水さんは元々、東高全日制の生徒だったんですか?」

「いや。元は別の高校。定時制だから東高に入れたという感じかな」

「奥さんのご両親とは、今はどうなっているんですか?」

 僕の問いに、清水さんは苦笑した。

「最初は揉めたけど、いざ生まれるとなったら助けてくれたし、今はもちろんそれなりの付き合いがある。俺も責任を取ったし、やはり孫は可愛いんだよ。今では、この分なら曽孫も見られるなんて言っている。あと残っているのは、娘を大学まで行かせて、女房を人並に高卒にしてやることだな」

 その時、高校の最寄り駅に着くというアナウンスが流れた。

 

◇◇◇

 

 五月中旬の火曜日、遠足の二日後の午後。僕は杉山と遠藤さんと共に図書室で自習を続けていた。

 先日、定時制バドミントン部は全日制女子部に対抗戦を申し込んだ。部長の佐野さんは「今年はメンバーが揃った」と意気込んでいる。今日、佐野さんの代わりに僕たちが女子部部長から回答を聞くことになっていた。

 午後四時を回り、程なく女子部部長が図書室に姿を現した。そこには、なぜか男子生徒が付いてきていた。ネクタイの色は青。二年生のようだった。

 香澄は申し出を受けると言った。期日は、六月上旬の前期中間テストの後、六月中旬の定時制県大会の前。試合形式は、全日制形式の団体戦に続き、新人戦シングルス二試合。定時制のメンバー表はすでに渡してあった。香澄が差し出してきた全日制のメンバー表を見ると、僕の相手は香澄になっていた。

 そこに突然、男が口を挟んできた。

「いくら新人でも、男子が女子と試合をするのはおかしいと思う」

 僕も対戦相手に意外感を覚えたが、それ以上に、男のいきなりの言葉が癇に障った。素性を尋ねると、男は男子部部長と名乗った。

「こちらは全くの初心者なんだけど」と僕は反論した。

「体力差があるだろう。女子に試合を申し込むなんて恥ずかしいと思わないのか? 君の相手は俺がするから」

「女子が男子と強化試合をすることはないの?」

「無い訳ではないけど……」

「このメンバー表は女子部できちんと話し合って作ったんだろう?」

「女子部に変な申し込みがあったら、男子部としても黙っている訳にはいかないんだよ」

 僕は男の言葉遣いにカチンときた。

「ちょっと待て。『変な』とはどういう意味だ。それにさっき、『恥を知れ』と言ったよな。そんなことを言われる筋合いは無いよ」

「だって、全日制の女子が定時制の男子の相手をするなんて……」

 その瞬間、男の本音に気付いた。しかし、僕が言い返す前に、杉山が話に割り込んだ。

「この人、他人を見下しているよね。おまけに、これで女子を守っているつもりなんだ。気持ち悪い」

 杉山の言葉に、男は気色ばんで食って掛かった。

「気持ち悪いって何だよ。君は一年生だろう。二年生に向かって失礼じゃないか」

「定時制の一年生が自分よりも年下だと思うなよ」と僕は忠告した。

 杉山はそんなやり取りを無視して言葉を続けた。

「安田がはっきりしないから、こんなことになるんだ。自分たちが決めたことに勝手に口出しされているんだよ。安田は部長でしょう。この気持ち悪い人を追い払ってよ。それとも、また人任せで知らん振り? 独りでは何も出来ないの?」

 香澄は表情を強張らせ、僕に視線を向けてきた。

 なぜ、黙って僕を見詰めているのだろう。何とかしてほしいという意味だろうか。まずは一言、自分で言ったらどうだろう。いや。すでに言った結果がこれなのだろうか。

 そんなことを考えながら見詰め返すと、香澄はゆっくりと男に向き直った。

「前にも言ったけど、私が西野君と試合をしてみたいの」

「なぜ『出しゃばるな』と、はっきり言わないの」と杉山が迫った。

「出しゃばらないで」と香澄は男に言い渡した。

 男は一瞬身を固くし、すぐに黙って席を立った。男の姿が消えると、遠藤さんが杉山に話し掛けた。

「由希ちゃん。きつい言い方をしては駄目」

「弥生さん。私、間違っていますか?」

「由希ちゃんは可愛いのに、そんな怖い顔をしたら台無しよ」

 次いで、遠藤さんは優しい口調で「安田さん」と声を掛けた。

「女の側がはっきりしないと、男は認められたと勘違いしてどんどん図に乗るの。男ってそういう生き物なのよ」

 その後、一番冷静な遠藤さんに打ち合わせを任せ、僕は独り考え込んでいた。

 争いの構図はいつも同じ。香澄の前に男が立ち、香澄と同格を主張し、僕を格下と決め付ける。上級生と下級生、高校生と中学生、全日制と定時制。中学校の校長先生は「敵を増やすな」と言った。生活指導の高橋先生は「無視しろ」と言った。しかし、伸し掛かってくるのなら、やり返すしかないではないか。

 ふと気付くと、すでに打ち合わせは終わっていた。皆に遅れて、僕も荷物をまとめ始めた。

 

◇◇◇

 

 六月上旬の日曜日、対抗戦の日がやって来た。午後、僕は学校に着くと手早く体操着に着替え、体育館へ向かった。

 体育館では、全日制女子部が練習を行なっていた。見ると、隅の方には男子部と思われる見学者たち。男子部部長が僕の方を睨んでいた。僕はそんな視線など無視し、定時制の一団に加わって早速準備運動を始めた。

 全日制の練習はいかにも窮屈そうだった。目一杯に広がっても、あちこちでシャトルが交錯していた。普段はここに男子部も加わるはず。その混雑ぶりは容易に想像できた。

 僕たちの準備運動が終わるのとほぼ同時に、全日制の練習も終了した。全日制部員が壁際に退くのと入れ替わりに、僕たち定時制が館内に散らばった。僕は遠藤さんと形ばかりのペアを組み、杉山一人とネットを挟んで向き合った。

 しばらくしてふと気付くと、隣のコートで部長の佐野さんと二年生の寺田さんが、さらにその向こうで三年生の岩瀬さんと二年生の石川さんが激しく打ち合っていた。そして壁際では、全日制部員が硬い表情でその様子を見詰めていた。

 試合開始前、全日制の顧問が全生徒の前に立ち、この対抗戦は全日制にとって良い刺激になるだろうと訓示した。それに続き、全日制部長の香澄から注意事項の説明があり、いよいよ試合開始となった。

 第一試合は二年生ペア同士のダブルス。僕は線審として間近でプレーを見続けた。

 試合で使用している水鳥の羽根のシャトルは、普段僕たちが使っているナイロン製シャトルとは明らかに飛び方が違う。パンという小気味よい音と共に弾けるように飛び出し、途中でブレーキが掛かったようにスッと減速してしまう。数日前、定時制の部活動で初めて水鳥シャトルを使った時、初心者の僕は軽い違和感を覚えた。一方、経験者は経験を積んでいる分だけ、違和感も大きいらしい。

 目の前の試合でも、定時制側が点差を付けられて第一ゲームを落としてしまった。ところが第二ゲーム以降、様相が一変した。おそらく慣れてきたのだろう。第二ゲームは接戦、第三ゲームは余裕で定時制側が取った。

 第二試合もダブルス。定時制側は三、四年生のペアが出場した。やはりキャリアが違うのだろう。全日制の二年生ペアでは全く勝負にならなかった。

 第三試合、杉山がシングルスを戦っていた。僕は線審の役目を終え、コートの脇からその様子を眺めていた。

 明らかに身のこなしが違った。杉山がしなやかな鞭とすれば、全日制の選手はハエ叩きを振り回しているようにしか見えなかった。僕は近くにいた佐野さんに尋ねた。

「全日制はどうなっているんですか。僕たちよりも練習しているはずですよね」

 佐野さんは鼻で笑った。

「いくら定時制の大会とは言え、私たちは全国大会で準決勝まで行っているのよ。地区予選二回戦止まりのチームに負ける訳がないじゃない。全日制は部員が多すぎる上に、バスケやバレーと交代で体育館を使うから、十分な練習をしていないのよ」

 試合中、選手たちには様々な声が掛けられていた。定時制側からは「頑張れ」という声援。全日制側からは技術的なアドバイス。そんな中、「きちんとホームポジションに戻れ」と全日制の声が飛んだ。その瞬間、佐野さんが舌打ちし、杉山に向けて怒鳴った。

「杉山さん。一々、ホームポジションに戻らない!」

 館内が静まり返った。佐野さんの声を聞き付けて、全日制の顧問がやって来た。「相変わらずだな」と先生が気さくに声を掛けると、佐野さんも「お久し振りです」と笑みをこぼした。

 佐野さんと先生はしばらくの間、小声で言葉を交わしていた。何の気なしに耳を傾けていると、先生のしみじみとした声が聞こえてきた。

「家のことがなければ、佐野もこちら側にいたのだろうに……」

 佐野さんは明るい声で答えた。

「仕方ないですよ。でも、定時制も楽しいです。毎年、小田原見物と箱根の温泉ですから。今年も絶対に行きますよ」

 その時コート上で、杉山がヘアピンを決めた。第三試合も定時制の勝ち。全日制側からアーッと落胆の声が漏れた。

 第四、第五試合は二年生同士のシングルス。全日制側は気落ちしたのか緊張しているのか、一人はプレーが荒く、一人は動きが鈍かった。結局、団体戦は定時制の五戦全勝で幕を閉じた。

 次は新人戦の第一試合、遠藤さんの出番。静まり返る全日制側とは対照的に、定時制側からは盛んに声援が飛んでいた。相手は初心者の中で一番上手な者とのことだった。

 バドミントンを始めて二か月の者同士、全くラリーが続かなかった。そして、体力で劣るはずの遠藤さんが試合をリードし、徐々に点差を広げていった。

 遠藤さんは佐野さんの指示を忠実に守っていた。攻撃などは一切考えず、とにかく確実に打ち返す。相手コートの右側に打ち返したら、自分もコートの右側に寄る。左に打ったら左に寄る。相手の目の前には常に遠藤さんがいる。遠藤さんのいる方向に打つと、遠藤さんに打ち返される。遠藤さんのいない所を狙うと、ネットに引っ掛けたり、ラインの外に打ち出してしまったりする。佐野さんは、初心者は真っ直ぐには打てても、対角線には打てないと言っていた。結局、遠藤さんが二ゲームを連取して、試合は終わった。

 新人戦の第二試合、いよいよ僕の出番がやって来た。佐野さんはコートに向かおうとする僕の腕を掴むと、「教えた通りにやるのよ」と囁いてきた。

 一昨日、佐野さんは部員全員にアドバイスをしてくれた。佐野さんいわく、僕は反射神経が良く、動きも機敏で、拾って返すだけならすでに初心者ではない。僕が拾い続ければ、相手は狙い所を見失い自滅する。「結局私たちのレベルでは、得点はミスの回数なの」と佐野さんは言った。

 そんなことを反芻しながら、僕は主審の前に進み出た。

 試合前の握手、香澄が手を差し出してきた。その手に触れた瞬間、香澄の手を握ったのはいつ以来だろうと思った。僕が記憶を辿っていると、「二人とも、いつまで手を握っているの」と主審の声が飛んできた。

 試合は一進一退。その間、僕は違和感を覚え続けていた。

 普段僕の相手を務めてくれている佐野さんのフットワークにはリズム感があるような気がする。リズム感が良い時には、歩幅や位置取りに余裕があるように見える。一方、目の前の香澄からは、バタバタするような慌ただしさしか伝わってこない。

 その点に関しては、僕の方がまだましなように思われた。踵を紙一枚分だけ浮かせて、前後左右、決してバランスを崩さず、小刻みに俊敏にどこまでも移動する。多分、それはバドミントンのフットワークではない。でも、柔道でそれを出来なければ、あっという間に投げられて痛い思いをする。僕はそうやって体で覚えてきた。

 第一ゲームは佐野さんの予言通りになった。僅差で香澄のミスの方が多かった。

 僕はとにかく丁寧に打ち返していただけだった。相手コートの中央あたりを狙って打ち返せば、技術不足のせいでシャトルは適度に散らばってくれた。一方、香澄はストレートに打ったりクロスを狙ったり、色々試みては、成功よりも失敗の方が多いというありさまだった。

 どう見ても、香澄は本来の実力を発揮していなかった。香澄も不本意だろうが、僕も面白くなかった。第二ゲームが始まる直前、僕はネット際に歩み寄り、香澄に手招きした。

「佐野さんによれば、バドミントンは自分の失敗で相手に得点を入れていく競技らしい。俺はもっとラリーを続けたい」

 ネット越しにそう囁くと、香澄は考え込むような素振りを見せた。

 第二ゲーム以降、僕たちは示し合せたかのように慎重にラリーを続けた。ただし、僕は拾って返すだけ。一方の香澄は着実に強打やフェイントを混ぜてくる。そんな展開になると、さすがに基礎技術で勝る香澄には敵わなかった。僕は二ゲームを連取され、試合は香澄の逆転勝ちとなった。

 本日の対抗戦、定時制の圧勝、ただし女子のみ。僕は皆に飲み物を奢る羽目になった。

 帰り道、杉山と二人で歩いていると、意外にも香澄が校門の所で待っていた。香澄は制服に着替え、手にスポーツバッグを持ち、独りポツンと立っていた。

 いつもと違う組み合わせに、僕たちは言葉少なになってしまった。駅へ向かってしばらく歩いた頃、杉山がボソッと呟いた。

「八百長」

「本当に違うから……。練習と試合は違う。それが良く分かった」と僕は脱力した。

 その後、駅までの道でも電車の中でも、香澄は僕を挟んで杉山の反対側に立ち、ずっと黙り込んでいた。

 僕たちの街の駅に電車が到着した。普段ならこのまま駅を出て、駅前駐輪場で杉山が自転車に乗るのを見届けて、僕は徒歩で家へ向かう所だった。しかし電車を降りた所で、香澄が僕と杉山を呼び止めた。

 僕たちはホームの端の、人気の無い所まで移動した。香澄は自分から声を掛けたにもかかわらず、中々口を開こうとしなかった。仕方がなく、僕が「どうした?」と促した。

「四年前のことだけど、あの時は怖くて、どうすれば良いのか分からなかったの。今から考えれば、いくらでも方法があった。直接あの人たちに関わろうとしなくても、担任の先生にこっそり言うとか、匿名で手紙を書くとか……。担任の先生だけでなく、校長先生とか、教育委員会とか、警察とか……。杉山さんを見捨てる形になってしまって後ろめたかった。でも、どうすれば良いのか本当に分からなかったの」

 杉山はフーンと鼻を鳴らした。

「杉山さん。ごめんなさい」

 杉山はしばらくの間、香澄をジッと見詰めると、おもむろに口を開いた。

「山崎が言ったことについては?」

「あの時は判断が付かなかったの。その後もずっと、少し厳しい言い方ぐらいに思っていた……。でもやはり、被害者に掛ける言葉ではなかったと思う」

 杉山は僕に向き直った。

「西野君が『謝っておけ』と言ったの?」

「いや。『杉山と話す気があるのなら、俺が間に立つ』とだけ」

 杉山は再度フーンと鼻を鳴らすと、言い聞かせるような口調で香澄に話し掛けた。

「安田にとっては昔のことかも知れない。でも、私にとっては今も続いている。あの後、私はPTSDになった。あの事件が無かったら、私は一年遅れにならず、普通に高校に通っていた。あの事件で私の人生は狂ってしまった。最近ようやく立ち直って、西野君が定時制に入ると聞いたから、私も入った。そして今、私は本当の人生を取り戻そうとしている。昔、元の同級生が同じ謝罪をしにきた。あの子たちは『西野君が正しい。山崎は間違っている。山崎を軽蔑する』と言った。だから、あの子たちは今も友達。安田だって加害者ではない。だから、いつまでも責める気はない。でも、安田は未だに山崎と一緒にいる。あの屑は優等生気取りで私にとどめを刺そうとした。それは絶対に忘れない。そしてあの屑と一緒にいる以上、安田も同類と思われて当然。だから、安田の謝罪は簡単には信用できない」

 沈黙が訪れた。杉山も香澄も言葉を発しようとしなかった。湿り気を帯びた風が吹き抜けた。しばらく待って、僕が話をまとめた。

「杉山の言葉は筋が通っている。一方で、安田の説明も理解できる。やはり、残された問題は一つだと思う。安田は山崎の同類なのか。その問いには行動で答えるしかないと思う」

 杉山が頷いた。一方、香澄は視線を下げたまま動こうとしなかった。僕は二人に「帰ろう」と声を掛けた。

 夕方の道を僕は香澄と二人で家へ向かって歩いていた。先程から、香澄は俯き加減で何かを考え込んでいた。

 僕としては複雑な心境だった。香澄が杉山に謝罪して、ホッとしたという気持ちがある。香澄が山崎との関係について何も語らず、どこまで本気なのかという疑念もある。そして、僕と香澄の関係は全く改善していない。

 程なく、別れる所に差し掛かった。その時、香澄がポツリと呟いた。

「皆、とっくに杉山さんと和解していたのか……」

 僕は足を止め、疑問をぶつけた。

「なぜ、杉山に犯人を教えてやらなかったんだよ。それだけでも違ったのに」

 香澄も歩みを止めた。

「杉山さんが怖かったの」

 意外な言葉に、思わず香澄の顔を覗き込んでしまった。

「杉山さんには人を寄せ付けない雰囲気があるでしょう。そんな杉山さんが、誰が犯人か分からなくて、クラス全員を睨み付けていた。だから、怖くて近付けなかった」

 言われてみれば先程の杉山も、話し方は直截的で目付きは鋭く、いかにも近寄りがたいオーラを放っていた。しかし、口振りは冷静で論旨は明確。多分、杉山は自分の考えを正確に伝えようとしていただけだ。

「それは誤解だよ。杉山は面倒見が良いから、定時制の女子たちに人気があるんだ」

 香澄は「そっか……」と呟くと、そのまま去っていった。

 

◇◇◇

 

 六月下旬のある夜、定時制自治会の夏の総会が開かれた。会議室は生徒と教員でぎゅうぎゅう詰め。人の吐息と体温で室内はそこはかとなく蒸していた。

 活動報告では、バドミントン部の成績が発表された。先の県大会の結果、僕と遠藤さん以外の五名が県代表に選出され、八月の全国大会に派遣されることになった。

 拍手と激励の声が治まると、自治会長は部の新設希望の有無を尋ねた。すると意外なことに、菊池が手を上げた。

 菊池はストリートダンス部を作りたいと申し出た。菊池によれば、ストリートダンスでも年三回、高校生の地方大会と全国大会が開かれる。その中のスモールクラスという競技部門に参加したいとのことだった。菊池が「部員は一年生の女子三人」と発表した瞬間、二年生の女子二名が手を上げた。結局、会員五名の同好会として発足し、きちんと活動が続くようなら、来年四月に部に格上げすることになった。

 菊池たちに触発されたのか、それに続き、休眠状態になっていた軽音楽部が同好会として三名で復活することになった。

 次に、自治会長が学校生活における注意点を確認した。東高夜間定時制には校則がほとんど無く、法律と社会常識で判断することになっている。私語などによる学校業務の妨害、バイク通学者の交通法違反。それらで学校側による処分を受けても、自治会は当該生徒を擁護しない。

 そして、自治会長は自治会の歴史を語った。昔、不良が学校を荒らしていた。その際、学校は指導と教育による解決を目指した。一方、勤労学生を中心とする自治会は教育を受ける権利を主張し、破壊などの違法行為を警察に告発した。その時に、「自分たちの権利は自分たちで守る」という鉄の掟が出来た。現在も自治会は、素行不良者だけは入学させないよう学校側に申し入れている。

 最後に、自治会役員の追加が議題に上った。僕と杉山は一年生のクラス代表として、すでに連絡役やクラスの取りまとめ役をこなしていた。その僕たちを役員に選出するという案だった。何の意見も反論も無く、瞬時に全会一致で可決された。

 続いて、自治会と学校の団体交渉が行なわれた。自習室の資格関連書籍の更新、給食メニューの改善、その他いくつかの要望が自治会側から出された。

 団体交渉も波乱なく終了し、室内にホッとするような空気が広がった。その時突然、校長先生が「皆さんに訊きたいことがあるのですが」と切り出した。

 東高夜間定時制では一日四時限の授業を受け、四年で卒業することになっている。三年で卒業するためには、通信制高校の授業を一部受けるか、高卒認定試験を受けて、四年生分の単位を各自で取らなければならない。もし一日五時限の授業を受ければ、労力が大幅に軽減される。

「もし今の制度を残した上で一時限目の前にゼロ時限目やマイナス一時限目を設けたら、出席したいという人はどれぐらいいますか?」

 思わぬ質問だった。とは言え、僕は今のままで良いと思った。しかし室内を見渡すと、意外なことに半数以上の生徒が手を上げていた。

「もし全日制も八時限目の授業を行なうようになったら、校内で双方の生徒が本格的に入り交じるようになります。それについてはどうでしょう。もちろん、定時制と全日制の授業は別ですよ」

 皆が騒めいた。

「皆さんも、本校の改革が進んでいることは聞いていますね。それに関連して、定時制と全日制の生徒が共存できるかどうかを知りたいのです。残念なことに両者が対立している学校もありますから、当事者である皆さんに訊いてみようと思ったのです」

 いくつか意見が出たが、結局定時制側に異論は無く、全日制生徒の考え方次第だろうという所に落ち着いた。見ると、校長先生は視線を下げて考え込んでしまっていた。

 総会が終了した。皆が部屋を後にする中、自治会長が僕と杉山の前に古い資料をドンと置いた。

 

◇◇◇

 

 七月最初の月曜深夜、帰宅してみると、香澄が僕を待っていた。

 香澄は今日から僕の家で寝泊まりすることになっている。香澄のお父さんは二週間の出張。お母さんは東京近郊に住むお母さんのご両親の世話をし、今後について親族と話し合ってくるとのことだった。出張に関しては、総務部のお父さんよりも営業企画部の僕の父の方が多い。僕の両親は「うちでもあり得ることだから」と、喜んで香澄を引き受けた。

 小学生の時以来のことだった。香澄は夜食を食べる僕の向かいに座り、麦茶を飲んでいた。母は僕の世話を香澄に任せ、すでに寝室に引っ込んでしまっていた。

 僕たちの付き合いと親同士の付き合いが別物なのは間違いない。香澄を独りにしておけないのも確かだ。そして、香澄に対する親の評価は変わっていない。結局、多少居心地が悪くとも、今は香澄と普通に接するしかなかった。

 一方、香澄は意外に平然としていた。香澄は僕の忠告を聞き入れて杉山に謝罪した。それで全てが終わった気になっているのだろうか。

「全国模試の結果が届いているよ」

 そう言うと、香澄は僕宛ての封筒をヒラヒラさせた。「開けていいよ」と答えると、香澄は早速開いて中身を取り出した。

 香澄は前屈みになって、食い入るように成績表を見詰めていた。僕は食事を続けながら、その姿を何となく眺めていた。

 ポロシャツにショートパンツ。香澄は太腿まで素足を晒していた。胸元のボタンは留まっておらず、今はそこから鎖骨とブラジャーの肩紐が覗いている。子供の頃も散々目にした姿だし、今更取り繕っても仕方がないということなのだろう。

 僕がそんなことを考えている間も、香澄は何度も成績表を目で追っていた。少し不安になってきた。ひどい点数なのだろうか。何か失敗してしまったのだろうか。すると、香澄がためらいがちに口を開いた。

「これは……、二年生向けの模試だよね?」

「そう。全日制の二年生が学年全体で受けたのを、俺も個人で受けた」

 再び香澄は黙り込んでしまった。僕は箸を置き、香澄から成績表を受け取った。

 ホッとした。この調子なら、よほど特殊な学部でない限り、全国どの大学にでも入れるだろう。当然、高卒認定試験など余裕で突破できるはず。

「香澄たちは学校で受け取るんだろう。それがそう?」

 僕がテーブルの端に置かれた紙片を顎で指すと、香澄は小さく頷いた。「見せて」と求めると、香澄は渋々差し出してきた。僕は早速、得点、偏差値、全国順位を目で追った。

 あらかじめ自分の成績表を用意していた所を見ると、香澄は僕と勝負するつもりだった模様。しかし話にならなかった。全日制の中ではどの程度のものだろう。そう思って校内順位を確かめてみると、一応上位に入っていた。

「香澄の学年のトップはどれぐらいの成績?」

「智和君よりずっと下……。と言うより、その全国順位は一体何?」

「そうだな……。まだ上に一人いるなんてな……」

 僕は二人分の成績表を香澄に渡し、食事を再開した。東高全日制は進学校とは言うものの、やはり二番手クラスなのだろう。最難関と言われる国立大学に現役で合格するのは毎年数名。一方、県内トップの藤花高校は余裕の二桁。

 その時、香澄が呟いた。

「こんなに凄かったのか……。だから、ずっと自習を認められていたのか……」

 僕は思わず「何を今更」と冷たく呟いてしまった。

 僕は食事を済ませると、食器を手早く片付けた。次は風呂だと考えていると、香澄が声を掛けてきた。

「智和君は今も一学年上の勉強を続けているんでしょう。相変わらず、授業中は自習をしているの?」

 僕は現状を説明した。定時制の授業は中学校の復習から始まる。そのため、普通の学力の生徒には授業中の自習が認められている。僕も個人面談の後に小テストを受け、主要科目の自習を認められた。今、科目によっては二学年上の勉強をしている。

「どの学年にも自習を認められている生徒がいる……」

 そう言い掛けた時、廊下の方から足音が聞こえ、ダイニングに母が現れた。

「智和はお風呂に入ったの? 香澄ちゃんも夜更かししては駄目よ」

 その一言で夜の雑談はお開きとなり、香澄は一階の客間へ、僕は二階の自室へ向かった。

 

◇◇◇

 

 七月上旬の水曜午後、僕は定時制自治会の役員として校長室に呼び出された。

 この時間に登校してきている役員はほとんどいない。二年生で自治会副会長の中島さん、そして杉山と僕の三人で校長室に出向いた。

 校長先生は僕たちに椅子を勧め、一人一人にコーヒーを出してくれた。そして、ちょっと立派なテーブルを挟んで僕たちの向かいに座ると、「この高校の改革案です」と小冊子を差し出してきた。

 そこには定時制の未来像が描かれていた。さらにページをめくっていくと、ふと「全日制と定時制の連携」という文言が目に留まった。

「このままだと、いずれ定時制は統廃合の対象になります。いくら拠点校とは言え、さすがに一学年八十名の定員に対し、二十名を切るようではまずいのです」と先生は言った。

 現在、県内では定時制高校の統廃合が進んでいる。ここ東高定時制も大幅な定員割れを起こしており、その候補になる可能性を否定できない。それを回避するためには、どうしても改革を進め、学校の価値を高める必要がある。

 自治会総会の時とは異なり、先生の様子には緊迫感が漂っていた。

「計画が進むと、今よりも定時制と全日制が混在するようになります。ところが最近の定時制には、打たれ弱い生徒さんが多いですからね。知った顔を見たくないとか、元気な者が鬱陶しいとか……。そういう生徒さんに学校を辞められては元も子も無いのですが、一方で、自分の事情しか考えないようでは自分の居場所が無くなってしまうということも理解してもらわないと困るのです」

 先生はいったん話を切り、コーヒーを啜った。

「実は、全日制の一部にも定時制に対する拒否感があります。そこでまずは、両者の交流の機会を増やそうと思います。毎年秋に合同文化祭を行なっていますが、定時制はほとんど参加していません。自治会の方でその改善策を考えてください。同じく秋に全日制の全校集会がありますが、その場で定時制について何か話してもらえませんか」

 僕は隣に座る中島さんの様子を窺った。彼は考え込んでいた。その向こうを見ると、杉山と目が合った。

「バドミントン部は全日制と試合をしたのですよね。定時制が勝ったのでしょう?」

 杉山が「ええ、まあ」と曖昧に答えた。先生は中島さんにも声を掛けた。

「卓球部は県大会では惜しかったですね。高認は今年で合格できそうですか」

 中島さんは頷くと、「この件は他の役員と話し合ってみます」と答えた。

「それでは、よろしくお願いします」

 その一声で会談は終了した。

 

◇◇◇

 

 七月上旬、金曜日の放課後、バドミントン部は全国大会に向けて個別の強化練習を行なっていた。

 僕たちの県では、全県から優秀選手を集めて代表チームを編成している。男女ともに団体戦正選手が四名、団体戦控え兼個人戦選手が二名。昨年は正選手に佐野さんと岩瀬さん、控えに石川さんが選ばれ、女子団体戦は準決勝まで進んだ。

 一方、今年は二年生以上の四名が団体戦正選手、一年生の杉山と他校の生徒一名が控え。女子チームは名実ともに僕たちのチームと呼べるものとなり、初の全国制覇を目指して練習に励んでいた。

 それにしても体育館は賑やかだった。絶え間ない掛け声、打球音、スキール音。バドミントン部がシャトルを追っていた。ビートの効いた音楽、手拍子、床を踏み鳴らす音。ストリートダンス同好会が大地のリズムを刻んでいた。

 ストリートダンス同好会の第一目標は合同文化祭での初披露。しかし、当初の活動は惨憺たるありさまだった。いつも体育館の隅でヒソヒソ、コソコソ。見るに見かねて、最上級生の佐野さんが活を入れた。ステージ上で堂々と踊れと。それ以降、「声を出せ」という佐野さんの叱咤激励に、僕たちよりも先に菊池たちが応えるようになっていた。

 部活動が終わった帰り道、電車はいつも通りに空気を運んでいた。僕と杉山はボックス席を占有し、早速雑談を再開した。

「夏の予定だけど……、俺はやっぱり全国模試は見送る」

「高認、全国大会、全国模試、運転免許、あとは……」と杉山は首を傾げた。

「この前の模試で自分の実力は大体分かったし、今年はもう十分だと俺は思っている」

 杉山はウーンと唸ると、そのまま考え込んでしまった。

 先の全国模試。成績表を見せ合ったところ、杉山も好成績だった。昨年一年間、進学塾を拠点に勉強を続けてきた成果なのか、全日制二年生のトップと遜色が無かった。

「まあ、そうかもね……」と杉山も何となく同意した。

 僕がチョコレートを求めてナップサックの中を探り始めると、杉山が「ところで」と話し掛けてきた。

「西野君は運が無かったよね。定時制は選手層が薄いから、組み合わせが良かったらもっと上に行けたと思うよ」

 何度か聞いた台詞に、僕は少し気落ちして、アアと溜め息をついた。

「バドミントンを始めて二か月で接戦だったんだから、来年は必ず全国に行けるよ」

 先の県大会、僕は男子個人戦二回戦で負けてしまった。その相手は決勝まで進んだ。結局のところ、僕は実質的に女子の試合を眺めながら他校の男子と雑談してきただけだった。

「全国大会のお土産、期待しているから……」

 チョコ一粒を差し出しながらそう答えると、杉山は呆れたように言った。

「気の無い返事。頑張れとか言えないの?」

「頑張れよ。遠くから心の中で応援している」

 杉山は鼻で笑うと、再び「ところで」と言った。

「家の方は相変わらずなの?」

 香澄との同居、今日で五日目だった。

「安田とは普通に接している。親の前で言い争う訳にもいかないし、そもそも時間帯がずれているから、顔を合わせる機会がほとんど無い」

「家同士の繋がりか……。親はこれまでのいきさつを知らないの?」

「ある程度は知っているようだけど、深くは考えていないのだと思う」

 杉山はフーンと鼻を鳴らすと少し間を置いて、おもむろに話し始めた。

「安田には厳しいことを言ったけど、安田の謝罪自体は理解できるんだ。私も昔、もっと上手いやり方があったのではないかと、何度も悔やんだから……。それにあの時、山崎にいきなり言われて、私も上手く反論できなかったし……。かなり後になって、ようやく山崎の間違いがはっきりと分かったんだ」

「因果関係と責任問題は別。因果関係を利用した責任転嫁だ。そもそも、独りを好むのは個人の自由。集団生活での単なるプラス不足。一方、杉山が受けたいじめは明確な犯罪。絶対的なマイナス。善悪の質もレベルも全く違う」

「そう。そうなんだ。好き勝手に因果を辿って良いのなら、どんな犯罪でも全部被害者のせいに出来てしまう。しかも、山崎はそんなでたらめを堂々と言う。それが本当に腹立つ。どうして、安田はあんな奴と仲良く出来るんだろう」

「今日は随分、安田に優しいじゃないか」

「謝罪しにきたこと自体は評価しているから。それに、やはり安田は加害者ではないからね……。最近、毎日が楽しいんだ。全国大会も楽しみ。うちの親なんて本当に喜んで、応援に行くと言っているし……。定時制に来て本当に良かった」

「ホッとした。今の話、安田に伝えておくよ」

「好きにして」と杉山は苦笑した。

 家に帰り着き、夜食の準備をしていると、そこに母が顔を出した。母は、香澄のお母さんが予定を少し早め、来週前半に帰ってくると言った。そして、夜更かししないようにと念を押すと、寝室に戻っていった。

 食事を摂りながら、僕は香澄と他愛の無い雑談を続けた。香澄は、明日は自宅に戻り家事をしてくると言った。一方、僕は夕方に柔道教室に行く予定になっていた。

 月曜日の夜以降、香澄の様子が明らかに変わった。強気に出ることもなく、挑戦的な態度を取ることもなく、穏やかに接してくるようになった。人はいきなりここまで変わるのかと、驚くばかりだった。多分、切っ掛けは僕の成績を知ったこと。僕と香澄の努力と成果。それぞれに対する評価が根底から覆ってしまったのだろう。

 食事を終えて風呂から上がってみると、未だに香澄がダイニングにいた。僕は水のグラスを手に、香澄の向かいに座った。

「智和君は私のことを皆にどう説明している?」

 突然の問いに困惑した。しかし、僕は率直に答えた。

「中一のあの時から、俺から説明する場合はいつも『近所の知り合い』。赤の他人の前では『香澄』ではなく『安田』と呼んでいる。香澄は?」

 香澄は視線を下げたまま、何も答えなかった。その様子に直感した。多分、下の存在と説明してきたのだ。例えば、近所の下級生。

「その手の話は、するならとことんする。しないのなら全くしない。そうしよう」

 そして、僕は帰り道に聞いた杉山の言葉を伝えた。

「こういう普通の会話をする程度なら構わないという意思表示だと思う。昔のことなんかどうでも良くなるぐらい、毎日が充実しているんだよ。きっと」

 そう言って、僕は話を切り上げた。

 

◇◇◇

 

 翌日の土曜日、いつも通り少し遅めに起きると、香澄の姿が無かった。母によれば、自宅で洗濯などをしているらしい。そこに父が「今日の昼は外食しよう」と声を掛けてきた。

 昼過ぎ、香澄を加えた一家四人で家を出た。父の車に一家全員で乗るのは久し振り。父は「何を食うかな」などと言いながら適当に車を走らせ、程なく街中のファミリーレストランに乗り付けた。

 僕たちは奥の方の席に着き、食事を摂りながら雑談を続けた。両親はいかにも楽しそうだった。特に父の機嫌が良かった。香澄が「お父さん」と呼ぶたびに、父の口数は増えていった。子供の頃のこと。高校のこと。先日の対抗戦に話が及ぶと、父は笑いながら「たまにはこいつをしごいてやってくれ」と勝手に依頼し始めた。

 最近、僕と両親の関係は何となく良好になっていた。僕も態度に気を付けていたし、両親の僕への接し方も変化していた。中学校の卒業式の数日後、母が中学校に挨拶をしに出向いた。その際、校長先生とカウンセラーの野沢先生から何やら忠告を受けた様子だった。

 食事も終わろうとする頃、僕は未だ飽き足りず、サラダバーで野菜を盛っていた。その時、香澄の声が聞こえてきた。見ると、デザートのコーナーで香澄と山崎が立ち話をしていた。目障りな顔、不愉快な関係。あっという間に気分が台無しになってしまった。

「山崎も来ていたのかよ」

 僕の声に山崎は驚いたような表情をし、すぐに言い返してきた。

「西野か。僕は安田さんと話しているんだ。関係ない人はあっちに行ってくれ」

「俺たちは一緒に来ているんだ」

 山崎は再び驚いた顔をすると、香澄に「西野と?」と尋ねた。

「あれだけ言ったのに……。今向こうで、秋の全校集会の件を話し合っているんだ。安田さんもこっちに来なよ」

 香澄が困ったような表情をした。

「いいから」と山崎は語気を強めた。

「ちょっと待て。俺たちは家族と来ているんだ。何なら親に挨拶していくか?」

 香澄が頷くのを目にして、山崎は呆気にとられたような表情をした。そして突然、無言で背を向け、店内の反対側へ去っていった。

 山崎の向かう先では、男たちが言葉を交わしていた。山崎の中学時代からの仲間、全日制生徒会の役員。校長先生は生徒会長の山崎にも話したに違いない。休日だというのに早速打ち合わせとは、熱意だけは立派だった。

 僕は山盛りのポテトサラダ、香澄は果物を手に席に戻った。すると、母が「学校の友達?」と尋ねてきた。どうやら遠くから眺めていた模様。ただし、僕たちの声は届いていなかったはず。

「早期完了、自称優等生」

 僕の簡潔な答に、母は首を傾げ、父はフーンと鼻を鳴らした。

 それ以上その話題が続くことはなく、僕たちはレストランを後にした。ショッピングモールに寄って買い物を済ませて家に戻り、夕方僕は独り柔道教室へ向かった。

 夜八時半。帰宅してみると、両親と香澄はリビングでテレビを見ていた。そしていつも通り、僕の夕食がダイニングのテーブルに残されていた。小学六年生の時から続く土曜夜の光景。しかし今日は、香澄が僕の夕飯を温め直してくれた。

 僕は食事を続けながら、香澄に声を掛けた。

「今夜、二人で少し話をしないか?」

 香澄は考え込んでしまった。

「香澄を責め立てて、この家に居づらくさせるつもりは無い。それは約束する」

 ようやく、「分かった」と返事が戻ってきた。

 夜十一時過ぎ、両親が寝室に消えた。僕がリビングのソファーでのんびりしていると、程なく香澄がやって来て、僕の斜向かいに座った。

「話って何?」

「山崎は『あれだけ言ったのに』と言っていたけど、いつもどんなことを言っているの?」

 言葉に詰まった香澄に、僕は「山崎の言葉を聞きたいだけ」と念を押した。

「智和君は和を乱して集団を壊す。そういう人と一緒にいると、染まってしまう……」

 それは山崎お決まりの台詞。僕も知っている。見ると、まだ何かある様子だった。

「他にも何か言っているの?」

「……智和君は、言うほど頭が良い訳ではないのだろう。だから、高校入試をやめて定時制に入ったのだろう。その程度の人間に振り回されてはいけない」

 それは初めて聞いた。いかにも山崎らしい台詞。僕は嘲笑をこらえた。

「香澄は以前、親に俺との和解を命じられたと言ったよな。今でも言われているの?」

「それは、まあ……」

「親は俺たちの人間関係をどれぐらい把握しているの?」

「基本的な所は一応。森川君の時に説明させられたから……。昔から、うちの親は智和君をとても買っている。特別表彰の話を聞いた時は、二人とも凄く納得して褒めていた。私も智和君が先輩たちや保健室登校の人たちの世話をしていたとは思わなかった」

「他にも色々やった。杉山の弟へのいじめを食い止めたり……」

「本当に?」と香澄は驚いた。

「杉山に訊いてみな。別に秘密ではないようだから」

 香澄は黙り込んでしまった。その様子に、僕は「麦茶でも持ってくる」と声を掛けて席を外した。

 香澄はやけに素直だった。話をごまかすことも出来るだろうに、そんな気配など全く無い。やはり、今日の山崎には辟易したのだろう。香澄は僕との関係をどうしたいのだろう。訊いてみたかった。しかし、今日は約束がある。問い詰める訳にはいかなかった。

 麦茶のグラス二つを手にリビングに戻ってみると、香澄はソファーの上で膝を抱えて項垂れていた。僕は「ほら」と声を掛けて、グラスを差し出した。

 僕が元の席に落ち着くと、香澄は沈んだ声で話し始めた。

「山崎君はずっと一緒に頑張ってきた仲間なの。でも、杉山さんの言うことも分かる。私が考えていた以上に、ひどい仕打ちだったのかも知れない」

 僕は軽く失望した。この期に及んで杉山と山崎を同列扱い。

「もう杉山には、一々傍観者を責める気など無いのだと思う。杉山は香澄の謝罪を認めている。だから、香澄は杉山ときちんと和解できると思う」

 香澄は何かを考え込むように、俯き加減になった。

「今日、山崎は『いいから』の一言で済まそうとしたよな。『説明は必要ない。黙って俺の言うことを聞け』と言ったんだ。あの強引さ。やっぱり、あいつは駄目だろう」

 その言葉を最後に、僕は深追いせずに話題を変えた。

 

◇◇◇

 

 七月中旬、木曜日の午後、僕は杉山や遠藤さんと共に図書室で勉強を続けていた。

 しばらく前から、図書室の予定表に文芸部ビブリオバトルと書き込まれていた。今日の全日制の放課後、その謎のイベントが開かれる。僕たちも適当な所で勉強を切り上げ、定時制の授業開始まで見学するつもりでいた。

 先程から、読書好きの遠藤さんのソワソワが止まらなかった。全日制の五時限目が終わり、僕たちも休憩に入ると、早速遠藤さんが話し掛けてきた。

「ビブリオバトルって本の感想を話し合うんでしょう?」

「そうらしいですね」と杉山が答えた。

「なぜバトルなの?」

 僕も杉山も首をひねった。

 しばらく経った頃、誰かが図書室に入ってきた。僕の向かいに座る杉山の顔に怒りが浮かんだ。足音が僕の背後で止まり、フンと鼻を鳴らす音が聞こえた。振り向くと、山崎が仁王立ちで僕を睨んでいた。

「安田さんに何を言った」

 思い当たる節はあるが、知らぬ振りをした。

「急に安田さんが、生徒会活動には協力できないと言い出した」

「あら、あら。お友達が一人減った」

 杉山のわざとらしい驚きに、僕も白々しく追随した。

「安田も忙しいんだよ。特に今度の生徒会長はやけに熱心だからな。安田は中学校では役員だったかも知れないけど、高校では単なる協力者だろう。今は部活の部長もしているんだし、勉強もあるんだから、放っておいてやれよ」

「なぜ、西野は僕たちの関係を邪魔するんだ」

 うんざりした。杉山と遠藤さんの目もあるのに、その話を持ち出すのか。

「僕たちの関係って何だ」と僕はとぼけた。

「あの時、僕は安田さんを守ると約束した。安田さんだって僕と一緒にいることを選んだ。なのに時々、思い出したように西野が余計な口を挟む」

 それは詭弁だ。厚顔無恥も甚だしい。

「自分に都合の良いことばかりを言うな。お前は俺に『安田との関係を捨てろ。僕が安田を守る』と言ったんだ。前半を省略するな。最初に他人の関係に口を挟んだのはお前だ」

「あら、あら。物覚えが悪いって便利」

 山崎が言葉に詰まった。杉山のアラアラが止まらなかった。

「事実として、お前と安田はたまたま学校と学年が同じになっただけだ。この前も別の男が『俺が安田を守る』と言いに来た。一体、何人の男が安田を守っているんだ」

 六時限目開始のチャイムが鳴った。

「あら、あら。生徒会長が遅刻」

 山崎が図書室から飛び出していった。

 

◇◇◇

 

 七月下旬、夏休みに入り、僕は相変わらず毎日登校していた。午後は図書室で受験勉強、夕方六時半から部活動。高卒認定試験とバドミントンの全国大会が迫っていた。

 先日の一時的な同居以降、香澄は僕の前に平然と姿を現すようになった。その真意は分からない。そもそもほんの数か月前まで、香澄は僕の要求を頑なに拒み続けていた。しかし、今の状況を敢えて壊す必要は無い。香澄が山崎と距離を置くつもりなら、僕も香澄の過去の言動には触れないようにしよう。僕はそう思っていた。

 ここのところ、香澄はしきりに僕を羨ましがっていた。全日制ではお盆直前までの日程で、平日午前は全員参加の夏季補習、それに続いて午後から部活動、夜と休日は大量の宿題。夏休みとは名ばかりの、普段とほとんど変わらぬ日常が続いていた。一方、定時制には宿題など存在せず、夏期補習の対象は成績不振者および希望者で、僕は参加していなかった。

 八月上旬、高卒認定試験が行なわれた。僕は杉山と二年生の石川さんと三人で試験会場へ向かった。

 道中訊いてみると、寺田さんと石川さんは中学時代に一学年違いの先輩後輩だったらしい。寺田さんは僕の街にある県内トップの藤花高校に進学したが、入学した途端に燃え尽きて、あっという間に落ちこぼれてしまった。一方、石川さんは中学生の時に、朝起きられなくなってしまった。その後、石川さんが東高夜間定時制に進学するのに合わせて、寺田さんも入学し直した。二人は昨年秋の高卒認定試験を受験し、寺田さんだけが一足先に全科目合格を果たしたとのことだった。

 話が終わると、今度は石川さんが僕たちの事情を尋ねてきた。杉山は話したがらないだろう。そう思って僕が一人で適当に話し続けていると、程なくして試験会場に到着した。

 あらかじめ過去問を見て知っていたとは言え、大学受験の全国模試などと比べると、高卒認定試験はあまりにも簡単だった。僕はこの日のために、中学三年生の時から準備を続けてきた。試験が終了した瞬間、僕は全科目好成績での合格を確信した。

 そして、お盆休みがやって来て、学校が一時閉鎖された。

 

◇◇◇

 

 お盆休み初日の午前、突然電話が掛かってきた。

 清水さんは「今から来てくれ」と言った。娘さんが東高夜間定時制に進学したいと言い出した。親としては、東高全日制に入ってもらいたい。僕は弁が立つから、その口添えを頼むとのことだった。

 さらに清水さんは、「全日制に知り合いがいたら、連れてきてくれると助かる」と言った。香澄に電話を掛けて事情を説明すると、香澄はすぐに同行を了承してくれた。

 昼過ぎ、高校の最寄り駅に到着した。改札口を出た所であたりを見回すと、向こうの方に清水さんの姿。清水さんは僕に気付くと、軽く手を上げて近付いてきた。

「今日は済まん。で、そっちが全日制の……」

「安田香澄と申します」

 香澄の自己紹介に、清水さんの表情が変わった。

「安田部長……、総務の安田祐司部長のお嬢さんですか?」

「そうですけど……」

 その瞬間、清水さんは直立不動の姿勢を取り、「お世話になっています」と頭を下げた。そして、鋭い視線を僕に向けてきた。

「お前、知っていたのか?」

「知りませんよ。もしかしたらとは思っていましたけど、同姓の別人だってあり得るし」

 僕の返事に、清水さんは「それはそうか」とあっさり納得した。

 僕たちは徒歩で清水さんの自宅へ向かった。僕の前には、並んで歩く清水さんと香澄。見るからに、清水さんは香澄を丁重に扱っていた。どちらが年長者か分からないありさまに、とうとう香澄が遠慮がちに「その話し方はやめてください」と切り出した。僕も敢えて軽い口調で「調子が狂うからやめて」と同調すると、清水さんは「そうか」とばつが悪そうに笑った。

 清水さんの家には家族全員が揃っていた。清水さんが香澄を紹介すると、場の雰囲気が一変した。娘の進路相談があっという間に香澄の歓迎会に変わってしまった。

 賑やかな一家だった。用意されていた軽食を食べている間中、香澄のお父さんの話題が続いた。中には初耳の話もあった。会社は近隣の学校の課外授業に協力している。その窓口は総務部。だから学校関係者の間では、香澄のお父さんは案外有名とのことだった。

 食事も終わろうとする頃、香澄が僕の父のことに触れた。すると、清水さんはヘーッと気の無い反応を示した。香澄の時とは大違いだった。

「営業企画部長か。確か営業の裏方だよな……。名前を聞いたことはあるけど、会ったことはないな。うちの会社は大きいからな……。西野はそういう話を全然しないよな」

「親と子は別ですから」

 僕の素っ気ない返事に、清水さんはフーンと鼻を鳴らした。

 食事が終わり、いよいよ本題に入った。僕は早速結論を述べた。

「定時制と全日制の違いを理解した上で、最後に当事者である佳織ちゃんが決める。それ以外に無いですよ」

「お前なあ……」と清水さんが呆れ果てたような声を上げた。

「清水さんとしては全日制に入ってもらいたいんですよね。香澄。佳織ちゃんに学校の様子を話してやれよ」

 時折挟まれる質問に答えながら、香澄は説明を続けた。学校の雰囲気、授業、部活動。佳織ちゃんは真剣に、清水さんたち家族はしきりに頷きながら、香澄の話に耳を傾けていた。途中、香澄の話が学校の怪談に及ぶと、佳織ちゃんは露骨に怖がった。

 一通り説明が済むと、佳織ちゃんは僕に尋ねてきた。

「西野さんや奈緒ちゃんや由希ちゃんは、どうして定時制に入ったんですか?」

「そうそう」と清水さんも追随してきた。「菊池や杉山はともかく、何でお前みたいな奴が定時制にいるんだよ」

「僕は普通の学校に馴染めなかったんです。悪平等とか、事なかれ主義とか、幼稚な全体主義とか、そういうものが高校でも続くのかと思ったら、嫌でたまらなかったんです」

 僕は佳織ちゃんに語り掛けた。

「定時制には校則が無いし、先生たちは生徒を大人扱いしてくれる。それは良いのだけれど、定時制も決して理想の学校ではないよ」

 定時制は授業数が少ない。そのため、大学を目指すのなら、授業の無い科目を自分で勉強しなければならない。

 東高夜間定時制は定員内不合格を辞さず、素行不良者を入学させない。そのため安心して勉強できる。一方、それ以外の者は事実上、全員合格となる。そのため学校に馴染めない者も入ってくる。入学から四か月、すでに退学してしまった者がいる。遅刻欠席を繰り返す者もいるし、何を考えているのか良く分からない者も多い。

 三年での卒業を目指して勉強し、部活動にも積極的に参加する。そういう者たちは本来なら全日制高校でもやっていける。しかし、それ以外の者たちにはそれなりの理由がある。

「普通に友達になれるのは半分程度だと思う。そういう雰囲気は中々こたえる。夜中に大きな校舎でそういう者たちと一緒に寂しく授業を受けるんだから。気分転換に外を眺めようとしても、窓ガラスに自分の顔が映るだけなんだ。自立していて、良い意味で他人を無視できる。そういう人間でないとつらくなると思う」

「良い意味で他人を無視?」と香澄が口を挟んできた。

「そういう雰囲気に慣れて流されてしまったら、駄目になるということ。それに……」

「それに?」と佳織ちゃんが訊いてきた。

「学校の怪談は全部夜の話だよ。この前も、誰もいないはずのトイレから人の声がすると言うので行ってみたら、定時制の生徒が膝小僧を抱えてブツブツ独り言を言っていた」

 佳織ちゃんが顔をしかめるのを脇目に、清水さんが「まあ、そういうことなんだ」と話を締め括った。

 しばらくの後、僕たちは清水さんの家を後にした。別れ際、清水さんはちょっとした手土産を持たせてくれた。確かめてみると、安田家からのお裾分けで僕も何度か食べたことのある菓子だった。

 家を出ると、早速香澄が話し掛けてきた。

「清水さんのこと、全然知らなかった。それで私を誘ったの?」

「そう。お父さんの話を聞けて良かったじゃないか」

「あんなに丁寧に扱われて、どうしたらいいか分からなかった」

「『綺麗なお嬢さん、綺麗なお嬢さん』って、俺もどこのお嬢様のことだろうと思った」

 僕がそんな風にからかうと、香澄は鼻を鳴らして「やめてよ」と苦笑した。

 しばらく無言で歩くと、香澄が独り言のように呟いた。

「定時制には色々な人がいるんだね……」

「色々な年齢や境遇の者が混ざり合っているから。その上、皆それぞれ何かを抱えているし……」

「どんな?」

「言えない。言えても気軽には話せない。愉快な話でないのは確か。そうでなければ皆、普通の高校で楽しくやっている」

「そっか……」と香澄が溜め息をついた。

 

◇◇◇

 

 お盆休みが明けた数日後の朝、僕は小田原の街を歩いていた。

 昨日の夕方、突然遠藤さんが「行ってみない?」と電話を掛けてきた。今、バドミントンの定時制通信制全国大会が開かれている。女子チームが団体戦を勝ち抜いている。団体戦控えの杉山も個人戦で勝ち残っている。そして、いよいよ最終日を迎える。僕は遠藤さんに勧められて香澄にも声を掛け、親の許しを得て、三人で深夜の高速バスに乗った。

 夜明け過ぎにバスを降り、そこから電車に乗り継ぎ、先程会場の最寄り駅に到着した所だった。朝日が眩しかった。睡眠不足で頭が鈍り、体中が軋むように痛んでいた。隣に目を遣ると、綺麗なお姉さんではなく遠藤さんがいた。さらにその隣では、萎びた香澄がよろけていた。

 立派な体育館だった。観客席で体を休めていると、突然「西野さん」と僕を呼ぶ声が聞こえた。杉山の弟と両親だった。訊くと、杉山家は初日から来ているらしい。どこまでも勝ち抜くので、宿泊費の都合が大変なことになっている。いよいよ最終日となってホッとした。杉山の両親はそんなことを言いながらも、とても楽しそうにしていた。

 徐々に人が増え始め、館内が慌ただしくなってきた。フロアに部員たちの姿を見付けて声を掛けると、皆が手を振ってくれた。そして女子個人戦準々決勝が始まった。

 杉山が慎重な試合運びを心掛けているのは明らかだった。自分から点を取りにいくのではなく、相手の失敗で試合をリードしていた。一方、僕の隣ではウッとかアッとか、言葉にならない声が漏れ続けていた。杉山のお父さんだった。お父さんはラリー中、ちゃんと息をしているのだろうか。僕がそんな心配している間にも、杉山は着々と点差を広げ、準々決勝を勝ち抜いてしまった。

 次は女子団体戦準決勝。僕たちのチームはダブルス、シングルスと二連勝し、佐野さんの出番は回ってこなかった。僕たち夜間定時制とは異なり、昼間定時制は練習量が多く、全日制と差の無い所もあるらしい。そんな相手も混ざる中、僕たちのチームは勝ち続けていた。

 再び女子個人戦、今度は準決勝。終始リードを許す杉山に、ベンチから佐野さんの指示が飛び続けていた。相手は強く、丁寧に打ち返しているだけでは勝負にならなかった。むしろ、丁寧なプレーを心掛けてきたせいか、ラケットを振り抜く勇気を失ってしまっているように見えた。第一ゲームを落とし、第二ゲームも劣勢に立たされる中、佐野さんの声は怒鳴り声に変わっていた。しかし、佐野さんのコーチングも空しく、杉山の大会はそこで終わってしまった。

 いよいよ最後の試合、女子団体戦決勝。二年生ペアがダブルスを落とした。三年生の岩瀬さんがシングルスで一矢報いた。そして佐野さんが登場した。

 これほど激しい打ち合いを見るのは初めてだった。ラリーは一人では出来ない。相手も相当強いのだ。以前、佐野さんは言っていた。定時制は選手層が薄い。そんな中、たまに突出した選手が現れる。するとその後、その選手の天下が続くことになる。多分、今コートで戦っている二人がそうなのだ。

 試合は第三ゲームにもつれ込んだ。ベンチから盛んに声援が飛んでいた。シーソーゲームに固唾を飲んだ。追いついては熱くなり、追いつかれては痺れた。そしてマッチポイント。シャトルが上がった。佐野さんがラケットを振り抜いた。ベンチの皆が両手を高く突き上げた。

 帰り道、僕たちは杉山家のワゴン車に同乗させてもらっていた。疲れたのか、遠藤さんは早々に寝てしまった。香澄は独り窓の外を眺めていた。

 目を閉じると、優勝の瞬間が蘇った。表彰式では、皆が首にメダルを掛けてもらっていた。特に杉山は団体戦と個人戦の二つ。

 僕は今、柔道とバドミントンでどっちつかずになっている。一つに集中しようか。僕はそんなことを考え続けていた。

 

◇◇◇

 

 八月下旬、定時制バドミントン部の活動は休みとなっていた。その間、僕と杉山はバイク免許取得のために教習所に通っていた。免許取得は九月上旬になりそうだった。九月中旬には前期期末試験がある。しかし、出題範囲どころか問題そのものまで予告されるような試験など、僕たちの眼中に無かった。

 バイク通学は許可制ではなく届け出制。ただし、入構許可証を発行してもらうためには、学校側の推奨を受け入れる必要がある。推奨の内容は、距離、理由、普段の生活態度によって変わるらしい。原付や自転車を推奨された者もいれば、逆に中型以上のバイクや特例で自動車を認められた者もいる。僕たちは先生たちの「街乗りだけなら小型スクーターが最強」という説明に納得し、普通二輪免許を取って小型スクーターに乗ることに決めた。

 僕たちが教習所に通っている間、香澄は全日制バドミントン部の合宿に参加していた。合宿は毎年この時期に三泊四日の日程で行なわれ、朝から晩まで練習漬けになるらしい。

 また香澄は、毎週金曜日に定時制の練習に参加したいと申し出た。定時制高校側に異論は無く、全日制高校側からも条件付きで許可が下りた。そして、香澄は九月から定時制の部活動に参加することになった。

 香澄の意欲に触発されて、僕も部活動以外の練習場所を探してみた。すると、近所に県社会人リーグに参加しているクラブチームがあることが分かった。出向いて交渉した結果、土曜午後の練習に参加させてもらえることになった。

 その代償として、柔道は休止することにした。六年以上にわたって続けてきた柔道だった。しかし柔道の昇段よりも、高校生の内にしか出来ない全国大会出場の方が魅力的かつ重要に思えた。

 

◇◇◇

 

 八月最終日の夕方、僕は杉山と二人で高校近くのファミリーレストランに向かった。全国大会優勝のお祝いパーティーが開かれることになっていた。

 食事の冒頭、部長の佐野さんが総括を行ない、次いで佐野さんの引退が発表された。部長の座は三年生の岩瀬さん、副部長は二年生の石川さんに引き継がれることになった。

 また本日、高卒認定試験の結果通知が僕の家に届いていた。訊いてみると、杉山と石川さんも同様だったらしい。部から受験した三名全員が合格していた。

 食事の後、僕たちはカラオケボックスで遊んだ。皆、中々マイクを離そうとしなかった。絶え間なく曲が流れる中、佐野さんは何度も「部活は楽しかった」と繰り返した。

 熱唱が一段落した頃、岩瀬さんが佐野さんに卒業後の進路を尋ねた。すると、佐野さんは「うちの方がね」と言い掛けて、皆の顔を見回した。

「そうか。知らない人もいるのか……」

 三年前、両親の事業が上手くいかなくなり、家計が危機的状況に陥った。そのため、佐野さんは全日制から定時制に転入し、学校に通いながら働いて、家計を助けることにした。奨学金を勧める者もいたが、資金繰りに苦しむ両親の姿を目にして、とても新たな借金をする気にはなれなかった。

「いったん、会社を整理してやり直すというのは」と遠藤さんが口を挟んだ。

「倒産や自己破産をすると、経営者としては二度と信用してもらえなくなるらしいんです……。何代も前から続けてきた仕事なので、完全に行き詰まるまではと頑張っているんですけど……」

 佐野さんの希望は地元の国立大学への進学だった。しかし、佐野さんが希望する学部学科には昼間部しか無い。その上、大学の学費は無料ではなく、その分も稼ぐ必要がある。勉強を続けながら今まで以上の収入を得るには、それなりの夜の仕事に就くしかない。学費の全額免除には学業優秀という条件が付く上に、定期的に審査がある。定時制高校の授業は簡単だったが、大学はそういう訳にもいかないだろう。

「……何だか疲れた。これからさらに四年間、もっと厳しい勉強と、もっと厳しい仕事なんて、身も心も持たないような気がする。だから、高校を卒業したらそのまま働くことにした……。高校に入った頃は当たり前のように大学に行けると思っていたのに、何だか夢でも見ていたような気がする……」

 佐野さんは働きながら勉強も部活動も頑張り、部活動では大きな結果を残した。なのに、それは自分の夢に繋がっていなかった。夢を見失う。怒りをぶつける先も無い。泣くことさえ諦めてしまっている。そんな人が僕の目の前にいた。

「ほんと疲れた……。勉強に給料を出してくれる人、いないかな……。これで納得いくまで勉強しなさいって言ってくれる人、ほんといないかな……。そんな都合の良い話、ある訳ないか……」

 佐野さんの言葉が途切れた。

 

◇◇◇

 

 九月初日、久し振りに登校してみると、校舎の外壁に垂れ幕が吊るされていた。訊いてみると、定時制全日制を合わせて学校史上初のことらしい。「全国大会初優勝」の文字が誇らしげだった。

 そんな気分とは裏腹に、授業前のショートホームルームで担任の先生が「一名が学校を辞めました」と言った。一年生の時点である程度の脱落者が出るのは例年のことらしい。先生は僕たちに「夜間定時制では意欲が第一です」と強調した。

 給食の時間、自治会長が全校生徒に呼び掛けた。秋休み中に行なわれる全日制の全校集会の件だった。

 集会には定時制の代表も参加し、定時制に関する話をすることになっている。時間に余裕のある者は参加してほしい。また、話題を提供できる者がいれば、名乗り出てほしい。

 会長の言葉を無視して雑談を続けている者もいた。校長先生の言葉通り、全日制には関わりたくないという者が結構いる様子だった。

 そんな中、定時制では全日制とは異なる部活動をしていることを紹介してほしい、という声が上がった。近くで食事を続けている菊池に「文化祭の準備は進んでいる?」と尋ねると、菊池はニコニコしながら頷いた。

 入学当初、菊池は慣れない環境に神経質になっていた。「知った顔を見たくない」と、明るい内に学校に出てくることもなかった。それが今や、文化祭のステージに立とうとしている。菊池もそれなりに強くなっていたのだと僕は思った。

 給食の時間も終わりに近付き、皆が食堂から去っていく中、僕は佐野さんを捕まえた。佐野さんは虚脱感を漂わせていた。僕は佐野さんと言葉を交わしながら校舎へ向かった。

 

◇◇◇

 

 九月上旬の金曜日、今日から香澄が定時制の部活動に参加する。香澄は全日制の部活終了後、定時制自習室で弁当を食べ、独り勉強し、定時制の授業終了を待つことになっていた。

 放課後、岩瀬さんの号令の元、部活動が始まった。岩瀬さんは佐野さんの方法を完全に踏襲していた。また佐野さんに、是が非でも僕と遠藤さんを全国大会に連れていくことと命じられているらしく、僕たちの練習メニューは一段とハードになっていた。そして一時間強、休むことなくシャトルを追い続け、ようやく一週間が終わった。

 帰り道、僕は香澄と杉山と共に徒歩で駅へ向かった。どことなくぎこちないとは言え、香澄と杉山の間には会話が成り立つようになっていた。どうやら、香澄が全国大会の応援に駆け付けたことを、杉山は意気に感じたらしい。先程から二人はバドミントンのプレーについて意見を交わしていた。

 来週から僕と杉山のバイク通学が始まる。その一方で、香澄の定時制部活動への参加条件は、下校に付き添いがいることだった。香澄のお父さんが僕を保護者代理と届け出て、その問題は解決した。そのため金曜日だけは、僕は電車で通学することになっていた。しかし、わざわざ杉山まで付き合ってくれるとは思えない。この三人での下校はこれが最後になるはずだった。

 電車の中、僕たちは四人掛けのボックス席を独占していた。僕の向かいに香澄、僕の隣に杉山。電車が発車するのと同時に、香澄が「疲れた」と漏らした。

「定時制では毎日ずっと打ち合っているんだね。全日制は人数が多いから順番待ちがあるし、体育館を使えない日もあるから、実は定時制ほどは練習していないのかも知れない」

「そうでしょう」と杉山も同意した。「歴代部長が全然手を抜かないから凄くきつい。それに比べると、中学校ではいつも素振りとランニングばかりしていたような気がする」

「ところで、ステージでダンスをしていたけど……」

「あれはストリートダンス同好会」

「ストリートダンス……。多分、全日制では無理だな。格好が風紀を乱すとか言われて」

「そんなの、やる人間次第だよ」と杉山が呆れ声を出した。「全日制は本当に規則が細かいよね。服装や頭髪の検査ばかりで、後ろ姿なんて全然見分けが付かないじゃない。誰も文句を……、西野君?」

 突然、杉山が声を掛けてきた。

「さっきから、何を黙って安田の胸ばかり見ているの?」

 僕はハッとして視線を上げた。香澄が腕で胸を隠す仕草をした。

「違うよ。ネクタイを見ていただけ」

「確かに、安田の胸は立派だけどさ。男子って皆そうだよね」

 揶揄するような口調に、僕はウーンと唸って頭を掻きむしった。

「本当に違うから……。全日制も学年ごとにネクタイの色を変えていると思っただけ」

 僕は杉山の追及を振り切って、香澄に声を掛けた。

「そんな青いネクタイなんか外したら?」

「でも校則で、下校中も制服をきちんと着ることって……」

 香澄はそう言うと、わざとらしく胸を隠しながらネクタイを締め直し始めた。僕は香澄のネクタイに苛立つものを感じながら、杉山に視線を移した。

「バイク通学になったら、帰り道に杉山とこうやって話をするのも終わりか」

「別にお別れではないよ」と杉山は笑った。「でも、私と安田がこんな風に話すのは一応最後なんだね。それなら、ちょっと言っておきたいことがあるんだけど……。何人もの男子が西野君に『俺が安田を守る』とか言いに来るんでしょう?」

 香澄の表情が微かに曇った。

「弥生さんに相談してみたら? 何か思う所があるみたいだよ」

 僕は唸ってしまった。あれは山崎の売り言葉に対する買い言葉だった。しかし、遠藤さんに考えがあるのなら、一度は聞いてみようと思った。

 

◇◇◇

 

 定時制全日制共に前期期末試験が終わり、秋休みに入った。初日の午後、僕と香澄は高校の近所にある遠藤さんのアパートにお邪魔した。

 独り暮らしの女性の家を訪ねるのは初めての経験だった。ここに来るまでは、もっと派手とかもっと可愛い物が並んでいるとか、そんな光景を想像していた。しかし予想に反し、簡素かつ機能的、少々寂しさを感じさせる暮らしぶりだった。

 テーブルを囲んでケーキと紅茶を味わいながら、僕たちはしばらくの間、当たり障りの無い雑談を続けた。先日の全国大会。香澄も参加するようになった定時制の部活動。そして話題が尽きた頃、遠藤さんが「さて」と切り出した。

「この前、由希ちゃんに『意見してあげてほしい』と頼まれたのだけれど……。あらかじめ言っておくけど、意見といっても大したことは言えないわよ」

 香澄は遠藤さんを見詰めるばかりだった。「それでもいいです」と僕が答えた。

「そうなると、いくつか質問しなければならないけれど……」

 遠藤さんは僕をチラッと見ると、香澄に問い掛けた。

「安田さんは今まで何人の男子に告白された?」

 香澄はためらいがちに「十七人です」と答え、すぐに「全部断わりましたけど」と付け加えた。

「高二で十七人なんて凄いわね。とすると、告白をためらっている男子はもっといるんでしょうね」

 香澄の顔に露骨に渋い表情が浮かんだ。

「周りの男子が皆、『僕が安田さんを守る』と言い出したら、さすがに困るわよね。好きでもない人に言われても迷惑なだけだし、トラブルが起きるのは目に見えているし。確かに安田さんは美人だけど、いくら美人でもそんなことにはならない人も多いわよね。つまり、安田さんが周りをその気にさせているの」

 遠藤さんはしばらく考え込んだ後、重々しい口調で「つまりね……」と言った。

 香澄が男の目を惹いてしまうのは仕方がない。そんな香澄に見詰められて微笑まれたら、男はすぐに勘違いをする。視線にも笑顔にもニュアンスがある。しかし、ニュアンスは伝わりにくい。特に、男は女のニュアンスを理解できない。

 だから、不要な笑顔を作ってはいけない。不用意に見詰めてもいけない。相手に話を合わせるのではなく、自分の考えを自分の口ではっきりと言わなければいけない。言葉と態度が一貫していないと、男は自分の都合に合わせて解釈してしまう。

「安田さんはそういうことがきちんと出来ていないように見えるの。例えば、対抗戦の打ち合わせの時、男子部の部長がいきなりマウンティングしてきたでしょう。あれも安田さんの態度一つで事前に避けられたはずよね」

 香澄が視線を下げた。代わりに僕が口を挟んだ。

「中学生の時、安田は陰湿ないじめを目の当たりにして、周囲の機嫌を損ねないよう気を遣うようになったんです。そういう姿勢が度を越しているということですか」

「そんなことがあったの……」と遠藤さんのトーンが下がった。「染み付いてしまった癖は中々抜けないのかも知れないけど、必要な時には由希ちゃんみたいに自分独りでも『出しゃばるな』と言えるようにならないと駄目よ」

 香澄は黙って何かを考え込んでいた。

「高校生には分からないと思うけど、『隙が無い』とか、逆に『その気にさせる』とかあるの。多分、安田さんは男子の目に『その気にさせる』と映っている。気を付けないと、何の関係も無い男に付きまとわれて大変な目に遭うわよ。以上です」

 話は済んだようだった。香澄は頭を下げると、用を足しに向かった。それに合わせて遠藤さんも席を立ち、キッチンでお茶を淹れ始めた。僕はその姿を眺めながら、今の話を反芻した。

 遠藤さんの言葉一つ一つは決して意外なものではなかった。しかし、「高校生には分からない」と言う通り、それらを総合した結果は未知のものだった。その気にさせる女。そんな観点から女を眺めたことなど、僕には一度も無かった。

 それにしても告白十七人。聞いた瞬間は驚いた。中学生になった頃から年に一人か二人なら合計で七、八人。それが僕の予想だった。確かに昔から「可愛い」、「美人」などと香澄を評する声はあった。それでも十七人とは、現実は想像をはるかに超えていた。

 そんなことを考えていると、程なく香澄と遠藤さんが戻ってきた。遠藤さんはテーブルに湯呑を並べながら、「ところで」と言った。

「西野君は今まで何人の女子に告白された?」

「無いです」

 熟慮の即答に、遠藤さんは悪戯っぽく「それは絶対に嘘」と言い切った。

「西野君は格好いいわよ」

 お世辞と分かっていても、顔が緩んでしまうのを押さえられなかった。

「どこがです」と僕は否定の意を込めた。

「肩とか胸とか背中とか」

「何ですか、それ……。普通、顔でしょう」

 僕の言葉に、遠藤さんは意味不明な笑みを浮かべた。

「バレンタインデーには随分チョコを貰ったんじゃない?」

「いいえ、全然。チョコはもう流行っていないみたいです」

「本当に?『この不条理を何とかしてくれ』なのに?」

 その言葉に、僕は脱力して苦笑した。

「今日は安田の相談なんですから、僕へのアドバイスは遠慮しておきます」

「だって、安田さん一人に厳しいことを言う訳にもいかないじゃない」

 そう言うと、遠藤さんは微笑んだ。

 

 しばらくして、僕たちは遠藤さんのアパートを後にした。駅へ向かって歩き出すと、香澄が「不条理って何?」と尋ねてきた。

「大した話ではないよ」

「智和君は本当に告白されたことないの?」

「無い」

 熟慮の即答に、香澄は言葉に詰まる様子を見せた。わずかに間が空き、再び香澄が訊いてきた。

「遠藤さんって、どういう人なんだろう」

 その問いに、僕は首を傾げてしまった。遠藤さんは三月生まれの二十四歳。あんなに綺麗なのに、独り暮らしで彼氏もいない。働いている様子も無く、午後には登校してきて真面目に勉強、最後の部活動まで参加する。

「定時制に来る前のことは知らないけど、良い人なのは間違いない。元々の頭もとても良いのだと思う。それに口が上手い。『格好いい』なんて言われたのは初めてだ」

 僕は話題を変えた。

「それにしても、十七人なんて大した人気だな」

「大した人気って……」と香澄は心外そうに呟いた。

「どういう奴が告白してくるの?」

「同級生とか、上級生とか、他校の男子とか……。最近は大学生も……」

「大学生……。その十七人とは今はどうなっている? 付きまとわれたりは」

「それは無いけど……」

 僕が「けど?」と続きを促すと、香澄は説明を始めた。

 中学校を卒業するまでに五人。その五人とはもはや接点が無い。あとは高校生になってから。その内の数人とは今も日常的に顔を合わせている。仕方がないので、何も無かったことにして、普通に接している。

「高校の一年半で十二人……」と僕は首を傾げた。「何だか加速していないか?」

「ん? うん」と香澄は曖昧に答えた。

「さすがに気まずいだろう。遠藤さんの言う通りだよ。告白してくるのは相手の都合だけど、香澄も男を寄せ付けない雰囲気を作らないと……」

 そこで会話は途切れ、僕は歩を進めながら考え込んでしまった。

 昔の香澄は引っ込み思案で、僕以外の相手には強く出られなかった。しかしもはや、そこまで弱くはないはずだ。

 山崎が立候補した中学校の生徒会長選の頃には、香澄は十分積極的になっていた。高校二年生の今はバドミントン部の部長を務めている。対抗戦の時には、定時制と全日制の全部員を前にして堂々と説明を行なっていた。

 それでも時折、昔からの癖が些細な仕草や態度に出てしまうのだろう。それに触発されて、男たちが「俺が守らなければ」という気を起こす。

 ふと気付くと、周囲に人影が増えていた。平日の夕方、駅周辺の雑踏。個人の事情を話すには相応しくない雰囲気になってきた。その時、香澄がポツリと言った。

「私も男子との付き合いには気を付けているんだけど……。親にも男女交際や恋愛を禁止されているし……」

「えっ。本当に?」

 驚くと同時に、周囲の目が気になった。「ここではまずい」と話を遮った。

 

 電車の中、香澄は窓の外に目を向けていた。重大なことを打ち明けようとして、話の腰を折られてしまったからだろう。一言も言葉を発しようとしなかった。そして、僕は流れゆく景色を眺めながら、安堵を覚え、疑念を感じ始めていた。

 香澄の男女関係については、森川や山崎との噂を耳にしたことはある。しかし、香澄自身は否定し続けている。そして、それ以外に噂を聞いたことはなく、今日の話もそれと整合している。その上、恋愛禁止。確かに、香澄には男と付き合った経験は無いのだろう。

 同時に、禁止のせいで話は複雑になってしまった。香澄に恋愛経験が無いのは親に強制された上でのこと。それが無ければ、香澄はどうしていたのだろう。

 

 電車が僕たちの街の駅に到着した。僕は駅構内の自動販売機で二人分のジュースを買い、香澄をホームの端まで連れていった。

「さっきの続きだけど、男女交際や恋愛は禁止なの?」

「男子とはグループ交際しか認めてもらっていないの。携帯電話だって通話先を厳しく制限されて、女子同士で連絡を取り合うのも大変だし。例外は智和君だけ」

 香澄はジュースを一口飲むと、おもむろに話し始めた。

「中学校の森川君の事件の時……」

 お父さんに指摘された。香澄には二つの問題がある。一つ目は、森川のような男と親しくしていたこと。二つ目は、森川の恋人面を許していたこと。男女関係では、毅然とした態度を取らないと容易に事件が起きてしまう。明らかに森川の暴力はその一つ。森川は香澄の代役のような顔をして僕に暴力を振るった。香澄が人間関係をきちんとしていれば、あんな事件は起きなかった。

 そして、お父さんに命じられた。僕ときちんと和解できない内は、男女交際や恋愛は禁止。僕を事件に巻き込んでしまった償いをすること。勉強や運動の後には糖分補給が良いと聞いた。それで、定期的に自分の小遣いでチョコレートを買ってくることになった。

「お父さんには『人を見る目を養うのが先。自立するまで勝手は許さない』と言われているの」

「俺がいつも食べているチョコは……」

「お母さんたちを経由して渡していたの。『いずれ自分からきちんと説明すること』と言われていたんだけど……」

「何と言えばいいんだろう……」

 僕は続く言葉を見付けられなかった。ホームの柵に寄り掛かり、ジュースを飲みながら考え込んでしまった。

 二週間に一回のチョコレート。それを三年以上、一度も欠かさず。しばらく前に母は、香澄は僕に気を遣っていると言った。確かに、それはその通りだった。しかし、秘話は秘話でも感動秘話とは言いがたい。

 かつて、僕たちの間には約束があった。僕が香澄を守る。香澄は先に行って僕を待つ。いくら子供の口約束とは言え、あんな形で反故にされる理由は無かった。

 チョコの償い。僕との和解。その間、余計な男と余計な関係にならない。それらは全て親の命令。僕との約束を一方的に反故にする。僕の目を憚ることもなく、僕を貶めた男と行動を共にする。それが香澄自身の意思。親に認めてもらえる程度の形式的な和解を果たせれば十分。それが香澄の真意だろうか。

 僕は香澄に目を向けた。香澄はジュースの缶を手に微動だにせず、ほとんど無表情で立っていた。その姿に僕はそっと溜め息をついた。

 僕は先延ばしにするつもりだった。まずは香澄の真意を見極めるつもりだった。しかし、香澄は答を待っている。それなら、今ここで決着を付けよう。

 日が暮れ始めていた。秋の風が吹いていた。僕たちの頭上で、ホームの端を照らす灯りが点いた。僕は意を決して香澄に語り掛けた。

「あらかじめ言っておくけど、下校の付き添いの件は一度引き受けた以上、どのような形であれ、必ず続ける。それは約束する」

 香澄は緊張気味に頷いた。

「チョコはもういい。森川の件の償いとしては十分すぎる。ただし、これだけはきちんと説明してほしい。香澄は俺との関係をどう考えてきたの? 俺との関係をどうしたいの?」

 香澄は一回深呼吸をすると、おもむろに言った。

「智和君とは昔のような関係に戻りたい」

「単なる知り合いではなく、家族ぐるみの親しい幼馴染という意味? もちろん、幼馴染と彼氏彼女が別物なのは承知している」

「昔のような幼馴染として」

「香澄が山崎と距離を置き始めていることは俺も知っているけど、俺と山崎が全く相容れないのは理解している?」

 香澄の言葉が止まった。

「俺の方から山崎に近付いて行ったことは一度もないんだ。いつも山崎の方からなんだ」

 香澄は口を閉ざしていた。

「俺と和解したいと言いながら、なぜそこまで山崎にこだわるんだよ」

「だって」と香澄の声がわずかに上擦った。「中学校の討論会の後、私はクラスで浮いてしまった。そんな私に、山崎君は約束通りに気を配ってくれた」

 唖然とした。初めて知った。香澄が山崎の肩を持ち続ける理由。単なる仲間意識ではなかった。山崎への恩義だった。

「俺ではなく、山崎に助けられたと思っているの? 俺が何のために討論会を要求したか、分かっている?」

「分かっている。だからチョコを続けてきた。でも、実際に教室で私に気を配ってくれたのは山崎君だった。下級生の智和君では、そんなことは出来なかった」

 愕然とし、次の瞬間、屈辱感と怒りが湧き上がった。

 香澄から見れば、下級生の僕は無能、僕との約束など無意味。

 自覚と自制。下校の付き添いの件がある。僕は深呼吸をした。

「あの討論会では俺に賛同する者もいた。一時的に浮いてしまったとしても、永遠の孤立なんてあり得ない。そもそも、山崎に守ってもらわなくても、香澄がいじめを受ける可能性はすでに無くなっていた」

 香澄は溜め息をついた。

「いじめの可能性は無くなったかも知れないけど、浮いてしまったのも確かだった。それも、いつまで続くか全然分からなかった」

「それでも、恩のことを言うのなら、山崎への恩義の前に俺への恩義だろう」

「それなら最初から、智和君が私を名前で呼ばなかったら、あんなことにはならなかった」

「それは違う」と僕は語気を強めた。「あんなことになる環境の方が間違っている。俺がそういう環境と闘ったからこそ、香澄は一切のいじめから解放されたんだ」

 香澄の反論が止んだ。

 僕はようやく香澄の真意を理解した。あの事件から三年半。そんな視点があり得るとは想像したこともなかった。いったん呼吸を整えて、僕の方から真相を切り出した。

「香澄は俺から恩を受けたとは感じていなかった。それどころか、俺には罰が与えられるべきと思っていた。悔い改めれば許してやる。それが香澄の真意だったんだ」

 香澄が顔を強張らせた。図星のようだった。

「山崎は俺と初めて会った時、『上級生代表』と名乗った上で『上級生を敬え。上級生を敬わない下級生が上級生に暴行されるのは当然だ』と断言した。これは明らかに脅迫だ。そして、香澄は山崎の脅迫に続けて、『私を常に先輩と呼べ』と要求した」

「脅迫なんて……」

「危害を加えることを前提に、無理やりに言うことを聞かせようとする行為」

「そんなつもりは無かった……」

「それは嘘だよ。脅迫のつもりが無ければ、山崎は『上級生を代表して、上級生の暴行をお詫びする』とでも言っていたはずだ。香澄にしても、少なくとも『暴行は当然』の部分だけは否定していたはずだ。香澄や山崎から見れば、暴行は俺への罰の一部だったんだ」

 香澄の表情がゆがんだ。

「俺は放課後の雑談中に一回名前を呼んだだけ。それに対して、山崎を中心とする上級生たちがしたのは、暴行、傷害、脅迫、その後延々と侮辱と名誉毀損。犯罪に次ぐ犯罪。そして、香澄はどこまでも山崎を擁護する。本当に悔い改めるべきは誰なんだ」

 香澄の表情が崩れた。

「俺と香澄は完全に同年齢。俺は無理やり下級生にされただけ。それが俺たちの原点だった。俺たちの間には約束があった。あんな犯罪的に反故にされるとは思ってもみなかった」

 突然、香澄の目から涙がこぼれ、灯りの光が反射した。

「ごめんなさい……。もう、下級生なんて思っていないから……。本当だから……」

 その瞬間、僕の背筋に電流が走り、急速に怒りが収まっていくのを感じた。

「特別表彰とか模試の結果とかを知って、自分がどれだけ調子に乗っていたのか良く分かった……。智和君は何も言わないのに、私だけ何度も学年何位とか、自分が嫌になった……。周りの人たちが私をどう見ているのか想像したら、怖くなった……。もう、どんな顔をしたらいいのか、全然分からない……」

 僕は努めて冷静な口調で語り掛けた。

「最近、香澄の態度が変わった。それには俺も気付いている」

「智和君との縁を切る気なんて全然無かった。それは信じてほしい……」

 僕がハンカチを差し出すと、香澄は頬を拭い、目を押さえた。そして一回、深呼吸をすると、話を再開した。

「何であんなに上下を意識していたのか、本当に馬鹿みたいだった……」

 僕たちの関係は幼馴染から先輩後輩に、自然に当然に変化していくもの。中学生になってそう思った。しかし、杉山の現状を知った。学年の上下は容易に変わる。定時制の人間関係を知った。年齢と学年が交錯する中、上下など意識せずに皆が仲良くしている。

「私と智和君の間に先輩後輩なんて持ち込むんじゃなかった。智和君と杉山さんが普通に仲良くしているのを見て、本当にそう思った……」

 しばらく間が空いて、香澄が尋ねてきた。

「私はどうすればいい?」

「まずは原点の否定の撤回。言葉だけでなく、行動で示してほしい」

 香澄が微かにハッとするような表情をした。

「この前の『そんな青いネクタイ』という言い方がずっと気になっていたんだけど……」

「香澄のネクタイを見ていると、過去の出来事がフラッシュバックするんだ。東高全日制では学年ごとにネクタイの色を変えているから、俺にはどうしても、香澄が上級生を強調しているように見えてしまうんだ。校則があるのなら、仕方がないけど」

「見たくないのなら、これからは智和君の前では外す。チョコもきちんと続ける」

 僕は了承した。

「あとは山崎との完全な絶縁」

「それは……」と香澄は口ごもった。

「これだけ言っても駄目なの?」

「完全な絶縁なんて無理だよ……。森川君の時だってそうだった……。だってクラスメートだよ。教室でも、外で行動する時でも、いつも一緒なんだから」

 現実問題として完全な絶縁は不可能。僕は溜め息をついた。

「俺は討論会のしばらく後から、暴行傷害事件があったという事実を口にすることはあっても、森川の名前を出して悪く言ったことは一度もない」

 香澄はエッと小首を傾げた。

「森川が再度詫びを入れてきて、とことん話をして、詫びを受け入れたからだ。森川は楽な部活に入り直した後、こっそり通信教育を受け始めた。俺が忠告したからだ。この中学校で成績中位では、高校は下手をしたら下位校になるって」

 香澄は呆然としていた。

「山崎は森川とは違うんだ。山崎とは絶縁。努力目標としてでも良いから」

「それなら……」と香澄はようやく受け入れた。

 僕は香澄にジュースを飲み干してしまうよう促した。日はすでに暮れていた。香澄が返してきたハンカチを受け取りながら、僕は出来るだけ穏やかに声を掛けた。

「そろそろ、うちに帰ろう」

 香澄は無言で小さく頷いた。

 

◇◇◇

 

 秋休み終盤、全日制全校集会の日がやって来た。午後、定時制の代表者が参加して、定時制と全日制の対話集会が開かれる。定時制代表は自治会副会長の中島さんと杉山と僕。その他の役員は都合を付けられなかった。

 全日制は休みと言いながら、何かにつけて生徒を登校させている。一般社会における長期休暇と言えば、お盆と年末年始、ゴールデンウィークぐらいしか無く、高校生だけが特別に休み続ける理由は無いとの考えらしい。定時制で良かったなどと思いながら、僕は自治会の資料を手に体育館へ向かった。

 僕の到着は最後に近い方、すでに体育館はすし詰め状態になっていた。フロアに直に腰を下ろす全日制の全校生徒。横の壁際には全日制の教員と思われる人たち。そして、体育館の一番後ろに二十人ばかりの私服の集団。定時制の教員と生徒だった。

 ステージ上には二つのテーブルが置かれ、椅子が三脚ずつ並べられていた。程なくして、一方のテーブルに中島さんと杉山と僕、もう一方に山崎を筆頭とする全日制生徒会役員が着いた。ステージ上の六人中五人が同じ中学校の関係者。定時制と全日制の融和の名の下に、五人の視線が激しくぶつかり合っていた。

 予定の時刻になった。全日制生徒会会長の山崎の挨拶に続き、定時制自治会副会長の中島さんが定時制の紹介を始めた。

 中島さんの話は要領が良く、とても分かりやすかった。日常生活、年間行事、生徒の人柄。話がストリートダンス同好会と軽音楽部に及んだ時には、館内に「ほう」と感嘆の声が漏れた。すかさず中島さんは、許可を得れば全日制の生徒も参加できると付け加えた。

 中島さんはマイクを握りしめ、熱弁を振るっていた。その一方で、フロアでは一部の生徒の私語が続いていた。さらには、教師の一部にも嘲笑と分かる笑み。全日制の中に、定時制に対する温度差があるのは明白だった。

 中島さんの話が終わり、質疑応答が始まった。最初の生徒はフロアのマイクの前に立つと、定時制の単位の仕組みを尋ねてきた。中島さんは学年別単位数や三年で卒業する方法を説明した。数人の生徒がその種の質問を繰り返し、新しい女子が質問に立った。ネクタイの色は赤。一年生のようだった。

「なぜ、文化祭だけ全定合同なんですか。全部、別々にしてほしいんですけど。はっきり言いますが、定時制と同じに見られたくないんです。ここは進学校です。私たちは全員、入試で良い成績を取り、入学後も真面目に勉強し、部活も頑張っています。でも定時制は違いますよね。成績も悪いし、不良もいるし」

 体育館にざわめきが広がった。

 趣旨が違う。この集会は両者の融和を図るためのものだ。この場にいる全日制生徒は約千人。片や定時制生徒は約十人。全日制代表の山崎たちは無言を貫いている。僕たちが黙っていては圧殺されてしまう。

 中島さんがいかにも困惑した口調で「あのう……」と口を開いた。

「先程も説明した通り、不良はいませんから……。部活にしても、校舎の垂れ幕とか新聞の地域面とか見ませんでしたか?」

「それは定時制のごく一部の人の話ですよね」

「ごく……ですか……」と中島さんは小首を傾げた。

「定時制には茶髪や金髪の人がいますよね」

「個人の自由ですから……。それに、地毛が黒ではない人もいる訳ですし……」

「定時制には化粧をしている人もいますよね」

「個人の自由です。それどころか、職場では化粧を求められることもありますから」

「定時制にはジャージ姿の人もいますよね」

「休み時間が短くて着替える暇が無いので、スカートで体育をやるとパンツが見えちゃうんですよ」

「定時制はみっともないです」

 あからさまな中傷に体育館がどよめいた。中島さんがうんざりした様子で杉山に目を遣ると、杉山は中島さんからマイクを奪い取った。

「みっともないとは、どういう意味ですか」

「高校生は高校生らしくあるべきです」

「進学校の優等生らしい発言ですね」と杉山は険のある受け答えをした。

「定時制は学校の風紀を乱しています。学校の評判を落とさないでください」

「何のことでしょう。具体的に言ってください」

「世間の皆がそう言っています」

 その瞬間、「あんた、馬鹿なの?」という歯切れの良い罵声が体育館に響き渡った。

「定時制には大人の生徒もいる。おじさんやおばさんに高校生のコスプレをさせてどうするの」

 騒めきと笑いが広がった。

「あなたはどうしても定時制を貶めたい訳? 定時制には校則が無い。法律と一般常識が前提。定時制では大人になることを求められる。『高校生らしさ』なんて言葉は存在しない。定時制自治会には『自分たちの権利は自分たちで守る』という鉄の掟がある。学校を荒らす者がいれば、自治会が警察に告発する。子供だからと言って犯罪を許したりはしない。私はその在り方をとても素晴らしいと思っている。定時制にはいじめを受けた生徒も入ってくる。鉄の掟がそういう生徒たちを守る。誹謗中傷はいじめの一つ。名誉毀損という犯罪。いじめをする者は犯罪者。直ちに学校から追い出すべき。定時制自治会は全日制生徒会とは違う。必要なら実力を行使する。それだけは覚えておいて」

 騒めきが小さくなり、別の種類の呟きが広がった。

「それから成績のことだけど、ここにいる三人はすでに国から高卒認定を受けている。私たちは今ここで高校を辞めても大学に進学できる。定時制には他にもそういう生徒がいる。あなたはどうなの? それに、あなたは知らないんだろうけど、成績は全日制のトップよりも定時制のトップの方が上なの。全日制が足元にも及ばないぐらい、はるかに上なの」

 杉山が「ねえ、校長先生」と声を掛けると、校長先生は黙って頷いた。その瞬間、生徒たちの間に動揺が広がった。教員たちまでが互いに言葉を交わし始めた。

「全日制は中途半端な進学校で、おまけに幼稚で傲慢で……」

 杉山の言葉に、中島さんが慌ててマイクをもぎ取った。

「質問者の方は下がられてはどうでしょう」

「今の言い方はひどくありませんか?」

「あなたも相当ですよ。それに今日は最初から、私語に混ざって定時制への悪口が聞こえてきています。その点はどうなんですか」

 質問者の女子は不満げな様子でマイクを手放した。その時、校長先生の声がスピーカーから流れてきた。見ると、校長先生が教員用のマイクを握っていた。

「今の話の中で『直ちに追い出すべき』は言いすぎです。また、『法の支配を超える校則が無い』が正確な言い方です。一方で、本校定時制に優秀な生徒がいるのは事実です」

 本校定時制は教育困難校ではなく、安心して落ち着いて学べる学校である。入学の動機は様々で、成績とは無関係な理由も多い。そのため各学年に数名ずつ、全日制と遜色ない学力の者がいる。進学先を比較しても、本校定時制は全日制に劣っていない。

「もう少し、穏やかに行きましょう。全日制の皆さんも私語を慎んでください」

 校長先生のコメントが終わると、新しい男子が質問に立った。

「卒業証書に全日制と定時制の区別が無いというのは本当ですか?」

 中島さんと杉山が顔を見合わせた。二人は知らない模様。僕が説明に立った。

「そのように説明を受けています」

 館内が騒めいた。「ずるい」という声が上がった。質問者はさらに追及してきた。

「と言うことは、定時制を三年で卒業したら、学歴は全日制卒業と同じになるんですか?」

「卒業証書が大本の証明書ですから、そうなります。同じ学校に入り、同じく卒業したら、証明書も同じになる。当然です。定時制では学力にばらつきがあって当たり前。進路希望も大学、専門学校、就職など様々。そういう者たちが頑張って最後に卒業する。全然ずるくありません。逆に、価値基準が学力だけという方がよほどいびつです」

 場が静まり返った。すると、椅子から立ち上がる音がした。全日制生徒会長の山崎がマイクを握っていた。山崎は僕を不快そうに眺めながら、おもむろに語り始めた。

「それは詭弁です。異なる学校であると説明しておきながら、同じ敷地内にあるという理由だけで同じ学校だと主張しています。本来、このような在り方が不自然なのです」

 身だしなみを整えた制服姿の全日制生徒の中を、私服姿の定時制生徒が闊歩する。通学路を歩く全日制生徒の脇を、定時制生徒のバイクが駆け抜ける。定時制の存在が全日制に影響を与え、学校の秩序を乱す。

「したがって、全日制生徒会は全日制と定時制の完全な接触禁止を提案します」

 唐突な提案に、館内が再び騒めき始めた。

「この学校には全定接触禁止の校則があり、今も一部が適用されています。例えば、授業中は互いの教室に近付いてはならないとか。僕たちはその校則の完全な適用を求めます」

「ちょっと待ってほしい。学校改革案を聞いていないのか?」と僕は口を挟んだ。

「全定の連携強化が第一案、全定の分離が第二案であることは知っています。全日制生徒会は第二案が望ましいと意見表明しているのです。ここまでのやり取りを見ても、第二案が適切なのは明らかです」

 確かに校長先生は、定時制の統廃合もあり得ると言っていた。しかし、あれを改革案と呼ぶのだろうか。

「それなら訊くけど、全日制の方が変だとは思わないのか? どう考えても、一般社会に近いのは定時制の方だろう」

「そんなことはありません。一口に一般社会と言っても、様々なレベルがあります。全日制が超管理教育と言われていることは知っています。同時に、それが地域社会から高く評価されているのも事実です。僕たちはこの学校の秩序に誇りを持っています」

「それこそ詭弁だ。それは自負心の表明に過ぎない。一般社会の普通の在り方を否定する理由を説明すべきだ」

 その時突然、校長先生の声がスピーカーから響いた。

「少し休憩しましょう。接触禁止は定時制にも関わる問題ですから、定時制の方でも話し合った方が良いでしょう」

 トイレに行く者以外はそのまま残るようにとの指示があった後、十五分間の休憩に入った。直ちに、中島さんと杉山は定時制の一団に、僕は校長先生の所へ向かった。

 校長先生は困り顔で頭に手を当てていた。

「先生。第一案と第二案って何ですか?」

「君たちにも説明しましたよね」

「先生は第一案を推していましたよね。校長の権限で何とかならないんですか。山崎は単に『目障りだから出ていけ』と言っているだけです」

「私は定時制と全日制双方の責任者です。一方に肩入れする訳にはいかないのです。分離と接触禁止は違います。それに、職員会議がありますから、生徒会の要求だけで物事は決まりません。熱くならず、それらを落ち着いて考えてください」

 僕は話を聞き終えると、定時制の一団の方へ向かった。

 定全分離は二つの学校の同居を解消し、完全に別組織にすること。定全接触禁止は同居したまま両者が接触しないようにすること。確かに分離と接触禁止は違う。しかし、山崎は分離を前提に接触禁止を主張している。

 山崎は秩序の維持と称して何でもする。常套手段は多数決。形式的な議論をして直ちに決を採る。それによって自己を正当化し、皆を縛り付ける。

 山崎は憎悪を煽ることも厭わない。今回の標的は定時制。これまでも一部の全日制生徒が定時制への陰口を叩いていた。今日も否定的な発言が相次いでいる。ここに山崎の扇動が加われば、嫌がらせに発展する可能性は十分にある。

 僕が定時制の一団に合流すると、皆は待っていたかのように「校長先生は何と言っている?」と訊いてきた。僕は先生の言葉を伝え、「皆の考えは?」と訊き返した。すると、杉山があっさりと言った。

「教頭先生は『好きにやらせたら良い』と言っている。『午後の自習は近所の市立図書館でも出来る。定時制にデメリットは無い。そもそも、接触禁止なんて校長が認めない』って」

「安田の部活参加に影響は……」

「『校長の許可があるのだから問題ない』って」

 僕は安堵の溜め息をついた。しかし、杉山の言葉は続いていた。

「ただし、今度の合同文化祭は絶対死守」

 僕は杉山の顔を見詰めた。

「皆、一生懸命に頑張っている」

「そうか……。合同文化祭が無くなったら、皆がっかりだな」

「そう。奈緒はきっと泣く」

 再開の時刻が近付いてきた。僕たちは皆と別れ、ステージに向かって歩き出した。するとその時、杉山の呟きが聞こえてきた。

「あの屑、今度こそ潰す……」

「山崎の過去をぶちまけるつもりか?」

「まさか」と杉山は鼻で笑った。「でも、山崎はこの後どうするつもりだろう」

「多分、形ばかりの質疑応答をした後、すぐに多数決を採る」

「分かった。まずは私に任せてほしい」

「何をする気だよ」と僕は確認した。

「接触禁止が可決されたら、全日制へのデメリットを強調して、山崎を苦しい立場に追い込む。否決されたら、山崎の強引な運営を追及する。あんな奴、リコールされたらいいんだ。生徒会長の経歴は推薦入試の役に立つとか思っているに違いないんだから」

 ステージ上の席に着き、中島さんも含めて今後の方針を話し合っていると、そこに山崎たちが戻ってきた。

 山崎は再開を宣言すると、早速接触禁止の内容を説明し始めた。校内で全日制と定時制の生徒が顔を合わさないよう、時間と場所を完全に分離すること。校外でも、登下校中は接触が禁止されること。そして山崎は、「校内を二つの区画に分け、午後五時を境に区画割りを変更し」と言った。その瞬間、僕は気付いた。

 山崎たちは勘違いをしている。接触禁止は古い校則。運用が停止されて久しいため、生徒手帳にも記載されていない。僕は自治会の資料で読んだが、山崎たちは他校の校則を聞き付けて、それを前提に話しているに違いない。

 中島さんと杉山に目を遣ると、中島さんは首を小さく横に振り、杉山は肩をすくめた。二人も気付いた様子。僕は手元の資料を確認しながら、杉山の行動を待った。

 程なく説明が終わり、質疑応答が始まった。数人の生徒が質問に立った。全て賛成の立場からの質問だった。

 間違いなく、山崎たちが仕組んだもの。中学校ではこういう場合、山崎の仲間ばかりが質問に立っていた。同意見の者同士で協力し合うのは当たり前。それが山崎たちの理屈だった。最初に難癖を付けてきた女子。卒業証書に不満を述べた男子。皆仲間に違いない。夏休みの直前、山崎が香澄に依頼しようとした生徒会活動も多分これだろう。

 教員からは何の声も上がらなかった。校長先生が指摘した通り、職員会議で覆せるからだろう。余計な口を挟まず、生徒の考えを最後まで聞くつもりのようだった。

 質疑応答が終わり、山崎が宣言した。

「全日制の総意を確認するため、決を採りたいと思います」

 その瞬間、「待ってください」という声が響いた。杉山がマイクを手に席から立ち上がった。

「その前に確認しておきたいことがあります。採決の結果にかかわらず、今度の合同文化祭は予定通りですよね? 今になって全校の予定を変える訳にはいかないでしょう」

 山崎は一瞬ためらった後、「それはそうでしょうね」と答えた。

「教室の割り当ても、体育館の出し物の順番も、くじ引きで決めるということでしたね」

「そうですね」と山崎は答えた。

「もう一つ確認しますが、今から『この学校における接触禁止』を復活させるかどうかの決を採るのですね?」

「そうです」と山崎は断言した。

 その言葉を聞くと、杉山は椅子に腰を下ろした。山崎は杉山の微妙な言い回しに気付かなかったようだ。いったん僕たち定時制側の様子を窺うと、再び決を採ると宣言した。

「それでは、全定接触禁止の復活に賛成の人」

 三分の一程度と思われる手が上がった。

「反対の人」

 明らかに少数と分かる挙手しか無かった。半数以上が棄権したようだ。当然だろう。突然こんなことを訊かれて、すぐに決められる訳がない。

 そんなことを考えていると、杉山が僕にマイクを差し出し、「さっきから資料を見ているのなら、西野君が説明してあげて」と囁いてきた。見ると、中島さんも小さく頷いた。

「賛成多数と認めます。全日制生徒会は学校側に全定接触禁止の復活を求めます」

 すかさず僕が割り込んだ。

「全日制側がそこまで強く希望するのなら、我々定時制も異論は挟みません」

 そして、僕は山崎を睨み付けた。

「それぞれの学校にそれぞれの歴史があり、そのため校則も学校ごとに異なります。先程、山崎生徒会長は定全接触禁止の一例を紹介されたようですが、念のために今から、ここ県立東高等学校全日制の校則を読み上げます……。この規則は全日制生徒による定時制業務の妨害を防ぐことを目的とする。この規則に違反し、法に触れる行為を行なった者は、直ちに関係機関に告発される。全日制生徒は午後五時から翌午前七時まで、許可なく本校敷地内に立ち入ってはならない……」

 僕の朗読が続く間、体育館内にはどよめきと静寂が交互に訪れていた。教員たちも動揺を隠し切れない様子だった。古い校則だけに、ほとんどの教員も知らないに違いない。また、この校則は教育的ではなく、全日制にとっては屈辱以外の何物でもない。そのため多分、昔の全日制関係者が意図的に消し去ったのだ。

 僕の朗読が終わった時、全日制の年配の教員が教員用マイクを手に、前に進み出た。

「生徒の皆さんも教員の皆さんも知らないと思いますので、私が説明します。ずっと昔の話です。その頃、大勢の勤労学生が定時制で学んでいました」

 当時の全日制は、歴史だけは立派な中堅校と呼ばれていた。そんな中、全日制の生徒が定時制の活動を妨害した。夕方の校舎で騒ぐ。部活動で体育館を使い続ける。その程度のことなら、それまでも無かった訳ではない。しかしある年度に限り、妨害がエスカレートした。

 机と椅子の配置が滅茶苦茶にされ、授業開始が遅れる。謂れなき誹謗中傷が黒板に書き残される。定時制生徒用のロッカーが倒される。学校の備品が壊され、定時制生徒の仕業との噂が流される。そして全日制生徒は定時制を、全日制の活動を妨げる存在と主張した。

 その後、被害は定時制生徒の私物にまで及び始めた。自転車やバイクが倒される。シートが切られる。タイヤをパンクさせられる。自転車の前かごにゴミを詰められ、バイクのガソリンタンクに角砂糖を入れられる。現場では何度も全日制生徒の姿が目撃された。

 中卒の勤労学生にとっては高卒の資格には人生が懸かっていた。全日制生徒の振舞いは、生きるのに必死だった勤労学生の逆鱗に触れた。定時制自治会は学校と県教育委員会に全日制生徒の処分を求めた。しかし、学校も県教委も教育による更生を主張した。

 学ぶ権利と、その権利を侵害する者に対する教育。定時制自治会は前者を尊重すべきと主張し、加害者の全日制生徒および対処を怠った生活指導担当教員を独自に告訴告発した。相当数の全日制生徒が警察の取り調べを受け、明らかな犯罪行為を行なった生徒七名が退学に追い込まれた。

 その七名は決して不良ではなかった。それどころか成績などは良い方だった。他の生徒を真似て悪乗りしたというのが真相と思われた。しかし七名は、自己を正当化するためか、全日制の権利を守るために行なったと主張し続けた。学校と県教委はその独善的な正義感に衝撃を受けた。新人以外の全日制教員は全員異動させられ、新しい教員が全日制に厳しい管理教育を導入した。

「あの事件はショックでした。その生徒たちは、それまでの生徒たちに比べて意欲と意識が高かったのです。しかし、それを誤った方向へ向けてしまったのです」

 ここで先生は大きく息を吐いた。

「当時新人だった私は、団体交渉の場にもいました……。あの時のライン工の皆さんは本当に怖かった。全日制の生徒とは迫力が違った……。定時制自治会の鉄の掟。時代は変わったと思っていたのですが、今も受け継がれていたのですね……。実はあの事件以降、ここの定時制を軽く扱わないことが県教育界の暗黙の了解になっているのです。例えば、定時制の式典には県や市から来賓が来るでしょう。全日制には全く来ないのに。当時の定時制の卒業生の皆さんが今も健在ですからね」

 先生が口元からマイクを離した。話は終わったのだろうか。僕はすかさず尋ねた。

「先生は定全接触禁止の復活をどう思いますか?」

 すると、先生は鼻を鳴らしながら皮肉っぽく「いいんじゃないですか?」と言い、話を再開した。

 事件以降、生徒を厳しく管理し勉強漬けにしたことにより、大学進学実績が伸び始めた。この高校に入れば塾も予備校も必要ないという評判が広まった。自称進学校だったものが名実ともに進学校になった。その後、この高校をモデルに、この学区の全ての全日制高校に厳格な管理教育が導入された。

「学生の本分は勉強です。学校で朝から夕方まで勉強し、それが終わればさっさと帰る。私はそれで構わないと思いますよ。実際、接触禁止の校則があった頃はそうだったのです。先程、そこの人が『全日制は中途半端な進学校』と言ったでしょう。全日制の者も改めてその自覚を持つべきでしょうね」

 そう言い残すと、先生はマイクを手放し、体育館の後ろの方へ下がっていった。

 館内は静まり返っていた。生徒も教員も、皆が毒気を抜かれたようになっていた。そして僕一人、マイクを手にステージ上に立っていた。

 先生は、山崎の顔を立てながら、対立の行き着く先を示唆した。杉山の顔を立てながら、全日制に檄を飛ばした。杉山に闘争心は残っているだろうか。

 僕は杉山にマイクを差し出した。しかし、杉山は首を横に振るばかりで、受け取ろうとしなかった。その隣に目を遣ると、中島さんも仰け反るように身を引いた。全日制側の様子を窺うと、山崎たちはだらしなく呆然としていた。

 僕がマイクを口に近付け、声を発しようとした瞬間だった。スピーカーから校長先生の声が流れた。

「今日はここまでにしましょう」

 僕はマイクを持つ手をだらんと下げて、大きく息を吐いた。

 

◇◇◇

 

 十月下旬、合同文化祭がやって来た。

 合同文化祭は予定通りに開催された。それ以前に、学校の日常には何の変化も起きていなかった。定全接触禁止が全日制の職員会議で否決されたからだった。ただし、対話集会の影響で、全日制は教員も生徒も二つに割れてしまったらしい。今のところ、定時制に理解を示す者が多数派のようだった。議論が煮詰まるまでは現状維持。混乱を引き起こすような言動は禁止。それが結論とのことだった。

 定時制に割り当てられた教室には、自治会役員と書道部のメンバーが揃っていた。部屋の中には生徒用の机を集めて作られた即席のテーブルが配置され、壁一面に書道部の作品が展示されていた。また、ポットと湯呑が用意され、お茶の準備も整っていた。

 例年だと、ここに卒業生が顔を出し、卒業生同士で旧交を温め、ちょっとしたカンパを残して集団でどこかに消えていくらしい。校長先生が善処を求めるのも当然と言えば当然。要するに、合同文化祭における定時制の催し物は、同窓会の待ち合わせ場所なのだ。

 しかし今年は、体育館ステージで軽音楽部の演奏会、ストリートダンス同好会の発表会、この教室で書道部によるパフォーマンス作品の解説会が開かれる。僕たち定時制自治会のメンバーは是が非でも卒業生をそれらに引っ張っていくつもりだった。

 昼過ぎ、定時制関係者が姿を現し始めた。在校生、教員、卒業生。僕たちは全ての人に今日の予定を印刷した紙を渡し、催し物への参加を呼び掛けた。そして時が迫り、僕たちはツアーガイドよろしく皆を先導して体育館へ向かった。

 体育館はほぼ満席。ステージ上では全日制箏曲部が琴を運び出す傍ら、軽音楽部がアンプの調整を行なっていた。僕たちは年配の卒業生のためにいくつか席を譲ってもらい、演奏が始まるのを待った。

 時刻となった。部員三名と即席で加わった生徒六名がステージ上に並んだ。「次は定時制軽音楽部です」とのアナウンスの直後、体育館にエレキギターの音が響き渡った。そして、ボーカルがマイクに口を近付けた。

「校歌」

 観客が呆気にとられる中、部員たちはエレキギターを穏やかに奏でながら、フォークソング風にアレンジした校歌を歌い始めた。行軍に相応しい勇ましい曲が、散歩で口ずさめるような優しい歌に生まれ変わっていた。

 校歌斉唱が終わり、拍手に送られて即席の合唱団が退場した。すると突然、ステージに残った部員三名が自作と思われるハードロックを絶唱し始めた。

 軽音楽部の演奏会が終わり、次いで菊池たちの出番となった。

「次は定時制ストリートダンス同好会です」

 次の瞬間、リズム感に溢れる音楽が流れ始め、七名のダンサーが飛び出してきた。会員五名と文化祭のために加わった生徒二名。全員が黒地に白いラインの入ったお揃いのトレーナーを着ていた。

 全員がシンクロした、切れの良いダンスだった。ソロパートでは、館内に何度も歓声が上がった。菊池が躍動していた。自らを解放していた。セミロングの髪が激しく舞い、伸びた腕と指先が空を切り裂き、ステージを踏み鳴らす音が歓声を貫いた。

 全てが終了した時、大きな拍手が巻き起こった。菊池たちは満面の笑みを浮かべて観客に両手を振り、ステージを去っていった。

 定時制の教室に戻ってしばらくした頃、茶葉の残りが心許なくなってきた。僕は自習室に予備を取りに向かった。

 自習室では、校長先生と教頭先生、見知らぬ三人の男性がテーブルを囲んでいた。そしてなぜか、壁際には直立不動の清水さん。その姿に長居は無用と直感し、僕はすぐに立ち去ろうとした。すると、清水さんが「待てよ」と囁いた。

 見知らぬ三人は卒業生だった。一番年配と思われる人は父の会社の元取締役、現在は引退、定時制同窓会の名誉会長。二番目の人は同じく父の会社の現取締役、同窓会の会長。三人目は関連会社の現取締役、同窓会の副会長。皆ライン工からの叩き上げで、清水さんの上司かつ大先輩。互いの紹介が終わった頃には、僕も自然と直立不動になっていた。

 三人は僕の名前を知ると、「君が西野君か」と声を掛けてきた。教頭先生が「自治会の役員です」と口を挟むと、名誉会長が口を開いた。

「君たちは鉄の掟を持ち出して、全日制を脅したんだって? あの後、我々が陰で動いているのではないかと、探りを入れてきた者がいてね……」

 名誉会長の口調は穏やかだった。

「……勘弁してやってくれよ。今や、ここの全日制にも関係者の子弟が大勢いるしな」

 僕が「はい」と答えると、名誉会長は校長先生に向き直った。

「先程の続きですが、我々も陰ながら学校改革を応援させてもらいますよ。ただし、これだけは忘れないでいただきたい。定時制は常に時代ごとの弱き者たちの学び舎であった。そういう場所だけは絶対に無くさないでいただきたい」

「はい」と校長先生は頭を下げた。

「昔、子供だった清水を会社に連れてきたあなたならお分かりだと思いますが」

「はい」と校長先生は答えた。

「これからも支援させてもらいますよ」

「はい。日頃からの支援に感謝しております。定時制・全日制ともども、これからもよろしくお願いします」

 次に会長が口を開いた。

「ところで、佐野久美子君の件ですが……」

 僕はハッとした。

「我が社が関係する教育支援基金から給付型奨学金を出せます。すでに随時募集枠での内定を取り付けており、来年度から一般枠への切り替えが可能です。また、定時制卒業生が関与する企業や団体に当たったところ、少額ずつですが、出してくれる所が多数見付かりました。佐野君の親御さんの問題は我々の関知する所ではありませんが、佐野君個人の問題はこれで何とかなるでしょう。それから、国立大学の推薦入試には、我々民間からの推薦書も持たせてやってください。何通でも用意します。あとは合格するのみです」

「ありがとうございます」と校長先生は言った。

「大きな成果を挙げた者が報われないのは間違っています。困難と闘いながら、あそこまで母校の名声を高めてくれた後輩が、金の工面に疲れ果てて挫折する。そのようなことは絶対にあってはなりません」

 校長先生と教頭先生が深々と頭を下げた。僕も自然に頭を下げていた。会長は僕に向き直った。

「西野君が真っ先に訴えて回ったそうだね。『この不条理を何とかしてくれ』と。君の訴えは多くの人に届いた。間に合って良かった」

 僕は再び深く頭を下げた。名誉会長が「さて」と言った。副会長がその言葉に応えた。

「書道部の解説会が始まる頃ですね。そろそろ行きますか」

 用件は済んだようだった。

「清水君。案内しなさい」と会長が命じた。

 定時制の正統後継者は直立不動のまま「はい」と答えた。

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