第二章 中学三年生

 昔から、学校には特別支援学級が設置されていた。それに加えて新たな特別支援学級。責任者は生活指導の高橋先生、生徒は僕一人。僕は通常学級と特別支援学級の両方に所属していた。

 僕には何の異常も無い。しかし、平均から掛け離れ、現に集団生活に支障をきたしている以上、個別教育が適切。名目は特別支援学級、自閉情緒クラス。校長先生はそのような主張で市教育委員会との協議を押し切ったとのことだった。

 主要科目の授業中は家庭科準備室で独り自習し、それ以外の授業はクラスに戻って皆と一緒に受ける。高橋先生は時々、家庭科準備室に姿を現すだけ。中学一年生のあの時から、僕はそんな日常生活を送っていた。

 これまで校内では、僕に関する様々な誹謗中傷がこそこそと飛び交っていた。

 いわく、「紙一重、幼馴染とストーカー」。

 いわく、「下級生、先輩美人に高望み」。

 いわく、「僕利口、絶賛ドナドナ隔離厨」。

 中でも、最も癪に障ったのは……。

「女を守ると宣言して、当の女に無視された勘違い男」

 僕が最上級生となった今、そんな誹謗中傷が僕の耳に届くことはなくなっていた。ただし、それは地下に潜っただけのこと。未だに陰口としては続いている様子だった。

 僕は精神的な疲労を感じるたびに、家庭科準備室の窓から空を眺めていた。雲の上には太陽、青空の先には宇宙。そんな視界の向こう側を想像しながら。そして、席に戻るたびに思った。狭い。息苦しい。もっと自由でありたい。

 

◇◇◇

 

 一学期が始まったある夜、両親が進学志望を尋ねてきた。遠くの街にある完全単位制高校の名を挙げると、両親は驚いてしまった。僕の街には県内トップと言われる県立高校がある。そこを受験すると思っていたらしい。理由を訊かれ、僕は本心の一部を打ち明けた。

 僕の中学校には殺伐とした空気が満ちている。例えば体育祭。一昨年は全校生徒の約一割が、昨年は約二割が体調不良を理由に参加しなかった。

 僕の説明に、父は疑問を呈した。

「それと高校受験に何の関係があるんだ」

「その高校ならクラスも学年も無いから、余計な人間関係で疲れることはないと思う」

「余計な人間関係か……。しかし、そんな遠くまで毎日きちんと通えるのか?」

「俺は遠くに行きたいんだ」

「その高校から大学への進学は?」

「少ないけど、大学に入る生徒もいる」

 父はフフンと鼻で笑い、「やめておけ」と言った。

 

◇◇◇

 

 ゴールデンウィーク後半の休日、僕は街中を走る大通りに向かっていた。

 毎年この日、市の祭りが開かれる。この地にゆかりのある大名の行列を再現したり、何らかのイベントが催されたりする。

 最後に行ったのは小学五年生の時、香澄と一緒だった。それ以降、香澄とは疎遠になり、僕は祭りに全く出掛けなくなっていた。しかし、今年は市制施行何十周年記念とやらで、規模が大きくなるらしい。今年の大名役には芸能人が予定されている。せっかくだから一目見ておこうと僕は思い立った。

 大名行列の開始までにはまだ時間があった。その間、僕は露店を見て回ることにした。途中、同じ中学校の生徒を見掛けた。卒業生の姿もあった。今日は特別とあって、やはり多くの者が来ているようだった。

 しばらくした頃、突然香澄の姿が目に入った。男女約十人のグループ。こちらに向かって歩いてきていた。おそらく高校の同級生だろう。グループの半分は山崎など見覚えのある顔、残りは見知らぬ顔だった。

 香澄はお洒落をしていた。シャツの胸元にはシャーリング、スカートにはチュール。入念に選んだに違いないその装いは、香澄のスタイルの良さを際立たせていた。男たちもそんな香澄を前にしてはにかみ、興奮を隠し切れない様子。付かず離れず香澄を取り巻いていた。

 その時、香澄と目が合った。香澄がふと立ち止まり、連れの女子が敏感にそれに気付いた。女子は二言三言、香澄と言葉を交わすと、僕の所にやって来た。

「安田さんの知り合いと聞いたので」

 あの事件以降、僕と香澄は絶縁状態にあった。僕の様子を気遣ってか、両親も香澄の話題を全く口にしなくなっていた。しかし、思わぬ仲立ちの出現に、香澄もためらいがちに僕に近付いてきた。

 女子の詮索が始まった。いくつかの質問に答えた頃には、グループ全員が僕の前にやって来ていた。女子から「高校はどこですか」という質問が出た。その瞬間、山崎が「中学生」と口を挟んだ。

 初対面の者たちの態度が一変した。見知らぬ男が白けた口調で「何だ、中学生か」と吐き捨てた。別の男がからかうような口調で、香澄に「知り合いは年下の男子」と声を掛けた。僕は即座に否定した。

「いや。完全に同い年」

 男が怪訝そうに僕に尋ねてきた。

「完全に同い年?」、「そう」

「中学生なのに?」、「そう」

「病気?」、「いや」

「不登校?」、「いや」

「悪いことでもしたとか」、「どういう意味だよ」

 男の不躾な詮索にうんざりした。

「そこにいる連中に訊けば分かる」

 そう言い残して、僕はその場を後にした。

 沿道は人だかりで混雑していた。車道の際に出られそうな場所を求めて歩いていると、人の少なそうな箇所が目に留まった。行ってみると、人が疎らであるばかりでなく、半径五メートルぐらいのスペースが出来ていた。その中心には柄の悪い男が三人。僕が一年生の時の三年生、中学校では不良と目されていた。

 振り向くと、香澄たちが付いてきていた。おそらく僕と同様、場所を探していたのだろう。皆、少し不安げな表情をしていた。しかし、他に空いている所は見当たらず、立ち去る気配は無かった。

 右に不良たち。左に香澄たち。その間に挟まれて、僕は行列がやって来るのを待ち始めた。すると早速、不良のリーダーが「よう、西野」と声を掛けてきた。

「西野は元気か」

「ああ。そっちは?」

「まあな。今日は珍しい連中と一緒だな。挨拶大好き、山崎生徒会長」

 僕は鼻で笑いながら、香澄たちに目を遣った。山崎が顔を強張らせていた。

「いや。俺の連れじゃない」

 リーダーはフーンと鼻を鳴らした。

「西野は今も家庭科準備室?」、「ああ」

「黒帯になったの?」、「ああ」

「相変わらず橋本にしごかれているんだ」、「おかげさまで、今年も今度県大会」

 リーダーはフフンと鼻で笑った。僕が「そっちも頑張っている?」と訊き返すと、リーダーはハハと軽く笑った。

「知っているか? 俺たちの高校では、学年が上になるとクラスの数が減るんだぜ」

「えっ、何で?」

 予想外の回答に、僕はリーダーの顔をまじまじと見詰めた。不良たちは体を揺らしながら、一斉に笑い声を上げた。

「皆、退学するから」

「ああ……」と僕は納得の声を漏らしてしまった。「三人は大丈夫なの? まさか高校でも睨みを利かせているとか」

「馬鹿言うな」とリーダーが呆れた。「学校には、とんでもない連中が山ほどいるんだぜ。俺たちなんか可愛い方だ」

「ちょうどいいよ。真面目な方向にイメージチェンジしろよ」

 リーダーはフンと鼻を鳴らした。

「今更、真面目に勉強なんて……」

「遅くはないよ」

「授業で『これは小学校の算数だ』なんて怒鳴られるんだぜ」

「だから、遅くはないって」

 リーダーはフフンと鼻を鳴らした。その時、大名行列の先頭が近付いてきた。

 大名に扮しているのは有名な俳優だった。普段直に目にすることのない姿に、周囲から歓声が上がった。おばさんや女の子が黄色い声を上げながら、二枚目俳優に向かって盛んに手を振っていた。さすがプロ。一瞬たりとも笑顔を途切れさせることがなかった。僕は初めて直に目にした姿にオーラを感じた。

 行列の最後尾が通り過ぎ、周囲の人々が散り始めた。見ると、香澄たちの姿はすでに消えていた。僕も立ち去ろうとすると、そこに不良のリーダーが声を掛けてきた。

「余ったからやる」

 リーダーはコンビニ袋から缶コーヒーを取り出した。

「西野はどこの高校を受けるの? 西野が俺たちの所に来てくれたら……」

 僕は黙っていた。残念ながら、その高校は眼中に無かった。

「まあ、そうだよな……。これからも頑張れよ」

 そう言うと、リーダーは仲間と共に去っていった。僕は缶コーヒーを手に、その後ろ姿を眺め続けた。

 

◇◇◇

 

 翌日、僕は自室で文庫本を手にしたまま、考え事をしていた。

 中学時代、香澄の学年には山崎を中心とするグループがあった。当初のメンバーは約五人。香澄もその一人だった。

 グループは山崎を生徒会長に祭り上げ、メンバーも生徒会役員になり、全校生徒を仕切り始めた。その後、グループは拡大を続け、最終的には十名を超すまでになった。大半が男子で女子は数名。全員が学年二十位以内の成績上位者たちだった。

 香澄は山崎の仲間になって以降、学校行事に積極的に取り組むようになった。特に体育祭。実行委員として校庭を駆け回っていた。フォークダンスでは山崎やその仲間たちとにこやかに手を繋ぎ、軽快なステップを踏んでいた。僕はそんな行事になど到底参加する気になれず、体調不良を口実に校舎の窓から校庭を眺めていた。

 グループは受験勉強の時期、全員での県内トップ校合格を合言葉に、進学塾に通ったり勉強会を開いたりしていた。そしてこの春、中学校を卒業し、高校に進学していった。香澄と山崎と男三人は、隣町にある県内二番手クラスの県立高校。残りのメンバーは三番手クラス。確実な合格を期してランクを落としたとのことだった。

 昨日、あの連中は僕に冷ややかな目を向けていた。勘違いをした厨房の中坊。いかにも、そう言いたそうな目付きだった。

 そんなことを思い出していると、突然部屋の扉をノックする音が聞こえた。驚いた。香澄だった。香澄が僕の部屋にやって来るのは小学生の時以来。僕は香澄にベッドに腰掛けるよう促し、僕自身は勉強机の前に座った。

 香澄は本棚に目を遣ると、「随分、本が増えたね」と言った。

「香澄は?」

「智和君ほどじゃない」

「それで、何の用?」

「昨日、智和君はあの人たちと随分親しそうにしていたけど、どういう関係なの? あの人たちは不良でしょう。智和君はそういう人たちとも付き合いがあるの?」

 僕は首を傾げた。

 それは違う。あの三人は意外に気がいい。不良は見掛けだけで、女子を物色したり、悪事を働いたりはしていない。勉強の価値を認めない親の影響で、小学生の時に落ちこぼれてしまった。中学校でも、先生たちに勉強を勧められても聞く耳を持たなかったため、放置されてしまった。それで仕方がなく、似た者同士で群れていただけだ。

「あの三人は不良ぶっているだけだよ。中学校では、俺があの三人を叱咤していた」

 香澄は意外そうにフーンと鼻を鳴らした。

「智和君も付き合う相手を選んだ方が良いと思うよ」

 香澄の高慢な言い方が癇に障った。

「香澄の仲間こそ、相手が中学生と分かった途端に態度を変えて、『何か悪いことをしたのか』とか。あれは無礼だろう」

 僕の反論に、香澄は黙り込んでしまった。

 先程から、香澄の服装が不愉快でたまらなかった。昨日は見たこともないお洒落。今日は着古したヨレヨレ。普通に考えれば、気安さの表れに違いない。しかし、これまでの香澄の言動が脳裏に浮かぶ。見下され、軽く扱われているという想いを拭い切れない。

 沈黙が続いていた。僕は机の上のチョコレートを一粒口に入れ、香澄にも差し出した。

「用は済んだの?」

 すると、香澄はおもむろに切り出した。

「これからは智和君に普通に話し掛けてもいい? 親に『裏切り者と思われたままでいるのだけは絶対に許さない』と言われているの」

 突然の申し出に、僕は呆気にとられた。

「何を言っているんだよ。ずっと俺を無視してきたくせに」

「だって、智和君の怒り方が物凄かったから……。だから、親にも『時間を置くように』と言われていたの。ようやくこの前、お父さんに『学校が別になったのだから、気楽に話せるだろう』と言われた。お母さんには『智ちゃんにきちんと謝っておきなさい』って」

 呆然とした。それが僕を無視し続けた理由。僕が怒り続けてきたのは事実だった。香澄を見掛けるたびに厳しい視線を向けていたという自覚もある。だからこそ、香澄は僕を避けていたと言う。でもそれでは、原因と結果があべこべだ。

「それなら訊くけど、この二年間、山崎と仲良くしていたのはなぜ?」

 香澄は不思議そうに「山崎君?」と訊き返してきた。

「俺がずっと怒っているのは、香澄が山崎と一緒にいるからだ」

 香澄はあからさまに呆れたという顔をした。

「山崎君とはずっと同じクラスだし、山崎君が暴力を振るった訳でもないんだから、一緒にいてもおかしくないでしょう。智和君も話してみれば分かると思うけど、山崎君は決して悪い人ではないよ」

 僕は溜め息をついた。香澄の目は節穴だ。

「智和君と山崎君は考え方が違うかも知れない。でも、山崎君は学級委員や生徒会長として頑張った。勉強もずっと学年一位。だから、皆が山崎君を評価したし、私も山崎君を応援した。その間、智和君は家庭科準備室に籠っていただけでしょう」

 節穴すぎる。口止めがもどかしい。

「山崎君が全部正しいとは言わないけど、先輩後輩とか、そういうことは山崎君の方がきちんとしていると思うよ」

「何を言っているんだよ。校長先生も全校集会で言っただろう。『目下を貶める』ではなく『目下を慈しむ』です。それを徹底できないのなら、先輩後輩関係を禁止しますと。なぜそこまで山崎の肩を持つんだよ。まさか、山崎と付き合っているとか?」

「そういう関係ではないよ」と香澄は心外そうに答えた。

 僕は再び溜め息をついた。

「謝罪しにきたと言いながら、なぜそんなに強気なんだ」

 香澄が言葉に詰まった。

「山崎たちと縁を切れ。まずはそこから」

 突然、香澄がベッドから立ち上がった。

「私が誰と友達になろうと、私の勝手でしょう」

 カチンときた。それなら、香澄と和解しないのも僕の勝手だ。

「何かのついでのようにヨレヨレの格好でフラッと現れて、偉そうに『謝ってやる。でも私の勝手だろう』って、一体何を謝りにきたんだ」

 香澄は怒りをあらわにした。

「智和君は本当に厳しいよね。人に優しく出来ないから、智和君はいつも独りなんだ」

 そう決め付けると、香澄はそのまま部屋を出ていった。

 香澄は変わった。人殺しの色に染まってしまった。

 

◇◇◇

 

 ゴールデンウィークの休みが明けたある日の午後、僕は学校の相談室にいた。目の前には物腰の柔らかい男の先生。カウンセリングの時間だった。

 野沢先生は市内の総合病院に勤務する精神科医。週に一回学校にやって来ては、生徒たちに個別カウンセリングや集団カウンセリングを施している。僕は一年生のあの時から個別カウンセリングを受けてきた。

 いつも通り、まずは僕からの報告。野沢先生はレコーダーで録音しながら、メモを取り続けていた。そして報告が終わると、先生は録音を止め、「西野君の方はどうですか」と尋ねてきた。

 市の祭りで香澄に会ったこと。翌日、二年ぶりで香澄と言葉を交わしたこと。僕の話を聞き終えると、先生は「親の命令……」と呟いた。

「安田さんに過剰な怒りを向けたりしませんでしたね?」

 その言葉に促されて、僕は改めて思い返してみた。

「安田は僕を否定し続けている。山崎を擁護し、多くの男を引き連れ、僕との扱いに差を付けることで、さらにそれを強調している。そんな風に感じました」

「それは認知のゆがみでしょう。差を付けているのは事実としても、決して否定まではしていないのでは?」

 明快に切り込まれて、僕は言葉に詰まった。

「西野君の問題は、自我同一性が安田さんの存在に癒着してしまっている所にあります。しかし、西野君の自我同一性は西野君固有のものであり、本質的には安田さんとは無関係。それは理解していますね?」

 何度も受けた指摘だった。自我同一性。自分という存在に対する確信。僕と香澄の二人で一つではない。僕の在り方は僕独りで確立しなければならない。

「でも僕には、安田は異常としか思えません」

「何度も言いますが、今は自分のことだけを考えましょう」

 僕が「はい」と答えると、先生も追随するように大きく頷いた。

「人には共感性があります。共感とは感情の共有です。苦しむ者に同情し、苦しめる者に反感を抱く。それが自然な在り方です。西野君は極めて共感性が高いのです。でも、いいですか。自覚と自制を忘れてはいけませんよ」

 僕は黙って頭を下げた。

 

◇◇◇

 

 一学期も終わりに近いある日、夕飯の食卓で父が突然、「やはりあそこは駄目だ」と言った。何の話だろうと思い、僕は箸を止めた。

「調べてみたが、単位制高校は学校によって全く違う。お前が話していた所は駄目だ」

 僕は溜め息をついてしまった。調べたのかと思った。

「深く考えるほど潔癖になっていく。それは分かる。しかし、お前は激しすぎる。何の実績も無い高校に行きたいと言い出したのも、その表れだ。あそこはお前が行くような学校ではない。もっと特殊な事情がある生徒の行く所だ」

 そして、父はこの街にあるトップ校の名前を口にした。

「お前はそこに行け。単なる別室登校では内申書に響いてしまうが、特別支援学級であれば但し書きは付くものの普通に内申書を出せる。そういう話だったな?」

「この学区の高校はどこも管理教育だと聞くんだけど、なぜ管理が必要なのか全然理解できない。躾なんて幼稚園や小学校でするものだよ。俺まで管理しないでほしい」

「あそこならお前も浮きこぼれないし、別室での自習も必要なくなる。良い高校に行って、まともな集団生活を経験しないと駄目だ」

「無意味に縛られるのはもう嫌だ。俺は独りで遠くに行きたい」

「俺が言っているのは友達のことだ。お前には知り合いはいても、友達がいないだろう」

 唖然とした。父まで香澄と同じようなことを言う。

「いるよ……。柔道部員とか……」

「それは知り合いだろう。一緒に遊んだりするような仲なのか?」

「それは……」と僕は言葉を濁した。

「お前はもっと良い形で人と関わるようにしないと駄目だ」

 反論の言葉を見失った。

「いいな。お前の第一志望はそこだ」

 目の前が真っ暗になったような気がした。

 

◇◇◇

 

 二学期、僕は高校受験の意欲を失っていた。しかしこれまで通り、上の学年の勉強は続けていた。そのため、受験放棄は誰にも気付かれていなかった。

 以前から、僕は通常学級の担任に遠方の完全単位制高校の名前を伝えていた。ところがある日、担任は「ご両親から聞いた高校を志望先として合否判定会議に掛けた」と言った。その言葉に僕は愕然とした。確かに、お金を出してくれるのは親だ。でも、高校に行くのは僕だ。僕の知らない所で僕の全てが決められていくなんて間違っている。結局、誰に何を言っても無駄なのだ。

 私立高校出願の時期、担任は何度も併願の希望を尋ねてきた。そのたびに、僕は「公立単願」と答えた。

 担任によれば、この県では公立校も私立校も中学浪人をほとんど受け入れない。いくら学力試験の結果が良くても、内申点が悪いものとして不合格になる。中学校から直接高校に入らない場合、学歴上は再起不能になる。だから、滑り止めを受けた方が良い。

 僕はその話に嫌悪感を覚えた。勝手に学年を決め、そこから外れた者は徹底的に排除する。まさに異物扱い、犯罪者扱い。

 担任は家にも電話を掛けてきたらしく、母に「本当に滑り止めは要らないの?」と訊かれた。僕は「要らない」と答えた。

 

◇◇◇

 

 二学期最後のカウンセリング。野沢先生は暖かいココアを出してくれた。僕からの報告、そして僕の近況。話が終わると、先生は心配そうに言った。

「もっと、ご両親と話し合ってみたらどうです」

「無意味です」と僕は拒否した。

「自分を分かってもらう努力が足りませんね」

 僕はココアのカップに目を落とした。

「西野君は私や校長先生には非常に難しい話をするのに、その他の人にはしませんよね。ご両親にも一度、西野君本来のレベルで話してみたらどうです」

 校長先生や野沢先生は初対面の時から僕に真摯に応えてくれている。一方、父は「友達を作れ」と命じるばかりで話にならない。

「ただでさえ、西野君の言動は分かり難いんです」

 それは自覚している。

「西野君は一瞬で多くのことを考えてしまう。そのため、西野君は突飛とか唐突などと思われてしまうんです。例えば、西野君は時々質問に一言で即答するでしょう。そんな熟慮の即答に付いていけるのは、西野君並みに頭の回転が速い人だけです。ですから西野君は、自らもっと説明しなければいけません」

 僕の説明不足と言われれば、それはそうなのかも知れない。しかし、相手が僕の説明を聞いてくれるとは限らない。そんなことは嫌というほど経験済み。

「西野君は今、独学で社会思想と発達心理学を勉強していますよね。大したものです」

 疑問を感じたら調べずにはいられない。面白いものには、のめり込まずにはいられない。そうならないことの方が僕には理解できない。

 先生は首を傾げて、ウーンと唸った。

「西野君は褒められたり、良く見られたりすることに全然興味がありませんよね……。自分の成果に自分で満足できればそれで良い。自分のことは放っておいてほしい……」

 僕は物思いに沈むのをやめて、顔を上げた。

「西野君は能力が高い。普通の壁など簡単に乗り越えてしまう。大きな壁にも怯まない。だから良い結果を出し続けられた。だから自尊心が高い。西野君が自分自身のことについて極度に楽観的なのも、そういう所から来ていますよね」

「単なる上下関係と見下されるのとは違います。誰でも見下されるのは嫌だと思います」

「それはそうです」と先生は微笑んだ。「でも、西野君は激しすぎます。見下されること。理不尽を目の当たりにすること。その二つが西野君の激しさのトリガーですよね」

 先生はココアのカップに手を伸ばした。

「確信が強いこと自体はいいんです。それこそ、一々『自分は間違っているのでは』と疑ってしまうようでは、自我同一性に問題がありますから。でも世の中、妥協が必要な場合もあるんです。出願の時期が迫っています。自分のことは自分から説明して、理解してもらった方がいいですよ」

 

◇◇◇

 

 二月下旬、公立高校の入試当日。僕は公園のトイレで私服に着替え、電車に乗って遠くの街の水族館へ向かった。

 高校受験を放棄して、半年以上が経っていた。その代わりに、僕は高等学校卒業程度認定試験を受験するつもりでいた。今年の夏、試験が行なわれる。中学校を卒業したら、僕はすぐに高卒の認定を貰う。そのための受験勉強を続けていた。

 僕は平日の閑散とした館内を独りブラブラと歩き回った。水槽の中では、これまで目にしたことのない魚たちがのんびりと泳ぎ回っていた。

 僕の出願先は県内トップ校、管理教育と大学進学で有名だ。毎年、多数の生徒が難関大学に合格している。その一方で、無名の大学への進学者も多い。公表されている大学合格実績は一見すると豪華だが、累計合格者数が生徒数よりも異常に多い。

 あの高校の内情を訊いてみると、悪い話もかなりある。自己顕示と苛烈な競争、自信喪失とノイローゼ、挙句の果ての脱落。要するに、あの高校は県内最優秀の生徒を集めておきながら、その下半分を教育と称して駄目にして、名も知れぬ大学に押し込んでいるだけなのだ。

 夕方家に帰ってみると、騒ぎが起きていた。普段、この時間には家にいない父までが僕を待っていた。同じ高校を受験した同級生を通して、僕の欠席が中学校に伝わったらしい。

 僕としては既成事実を作った後に自分から説明しようと思っていた。この期に及んで嘘をつく理由は無く、水族館をブラブラしていたことを正直に明かした。

「皆がどれだけ心配したと思っているんだ」と父が言った。

「そんな大げさな……」

「試験当日に行方不明なんて、事件や事故を想像してもおかしくないだろう。帰ってくるのがもう少し遅かったら、捜索願を出していた所だ」

 僕が黙っていると、「高校はどうするつもりだ」と父が尋ねてきた。僕は水族館の中で考えていたことを話し、最後に決意を表明した。

「生徒を管理する学校も、管理が必要な生徒も嫌だ。それにあの高校では、生徒は大学合格者の数字に過ぎない。そんなものにはなりたくない。高校は高卒認定試験で済ませる」

 父の顔に驚きの表情が浮かんだ。

「次の夏に一発合格するつもりで準備している。遅くとも、秋の試験で合格してみせる」

 父が「お前……」と言い掛けた。僕は父を睨み付けた。

「高校には行かない。俺のことを俺抜きで決めないでほしい」

 僕はそう言い残し、自室へ向かった。

 

◇◇◇

 

 翌日、僕は校長室に呼び出された。事情を尋ねる校長先生に、僕はあの高校に対する考えと、親と通常学級の担任に志望先を変えられた経緯を説明した。

「君の希望ではなかったのですか」と校長先生は驚いた。

「そうです。親も担任も僕の話を聞いてくれませんでした。だから、高校には行かないことに決めたんです。もう帰ります。先生、三年間ありがとうございました」

「西野君。ちょっと待って。夕方には必ず家にいてください。今からでも間に合う所を探してみますから。とにかく中学浪人なんて駄目ですよ」

 僕は無言で頭を下げ、校長室を後にした。

 日が暮れようとする頃、校長先生が家にやって来た。先生は早速、母に詫びを入れた。

「不適切な進路指導があったようで申し訳ありません。担任には、必ず生徒と保護者双方の意思を確認するよう申し付けておいたのですが……」

「いえ。今回のことはうちの方に問題が……」と母は担任をかばった。

 校長先生は県教育委員会に全県の現状を問い合わせてくれたらしい。しかし、家から通える範囲に定員割れを起こしそうな高校は無いとのことだった。先生は説明を終えると、香澄が通う隣町の県立高校の名前を口にした。

「あそこには三年で卒業できる夜間定時制があるんです。高校の卒業証書には全日制と定時制の区別がありませんから、定時制を三年で卒業すれば、普通にあの高校を卒業したことになります。近々二次募集があるそうなので、考えてみませんか」

「話は県にまで行っているんですか」と僕は驚いた。

「それはそうですよ。『中学浪人を出さない』が県の基本方針ですから、毎年この時期、急いで調査して集計するんです」

 その後、先生は手続きについて説明すると、慌ただしく帰っていった。

 その夜、珍しいことに香澄のお父さんが家にやって来た。お父さんは僕に「ちょっと散歩しよう」と声を掛けてきた。

 お父さんは僕を近所の公園へ連れていった。ここは子供の頃、香澄と二人で良く遊んだ場所だった。街灯が一本立つだけの薄暗い公園。僕たちはベンチに並んで腰を下ろした。

「西野の奴が頭を抱えてしまっているよ。高校はどうするの?」

 お父さんの口調は穏やかだった。僕は黙っていた。

「智和君は大物すぎるよ……。県で一番の高校なのに、『あんな所に行くぐらいなら、高校なんか行かない方がまし』とか言って、本当にやめてしまうんだから……。既存の制度に自らはまり込んでいくような奴はただの歯車にしかなれない。だから俺は、それに逆らう智和君を買っている。しかし、はみ出しすぎると居場所が無くなってしまう」

 大物すぎる。その言葉で理解した。やはり、周囲の目には自信過剰と映っているのだ。

「高卒認定試験を受けると言ったんだって? でも、家に籠もり切りになるのは良くないと思う。それは分かるだろう」

 仕方がなく、僕は黙って頷いた。

「定時制の件は聞いたよ。あそこは会社の近所だから、知り合いがいるんだ。それでついさっき電話で訊いてみた。あそこには……」

 生徒を縛り付ける校則など全く無い。本来は四年制だが、努力次第で三年で卒業できる。先の勉強をしたい者には自習させてくれる。事実上、意欲の有無と素行の善し悪しで入試の合否が決まる。だから生徒に不良はおらず、案外居心地が良い。

「あそこは夜の学校だから、志願者がとても少ないらしい。だから、智和君のような生徒ならぜひ来てほしいって」

 そして、お父さんは僕の肩に手を置いた。

「智和君の代わりに、俺が西野を怒鳴り付けてやった。『お前は馬鹿か』って。『智和君は部下ではない』って」

 最後に、お父さんは優しい口調で言った。

「智和君。高校に行きなさい」

 

◇◇◇

 

 中学校生活、最後のカウンセリング。野沢先生はココアを啜りながら鼻で笑った。

「思い切ったことをしましたね。担任だけでなく、私や高橋先生や校長先生にまで隠して」

「受験放棄しか無かったんです」

「気持ちは分かります。首位校も二番手校も典型的な秀才教育の高校です。ギフテッド教育の要素はほとんどありません。西野君が行ったら、秀才向けの学習を強制されて潰されてしまいます。なのに、多くの人は偏差値しか見ない。本当に困った話です」

「もしかして、先生の患者さんの中にはそういう所の生徒もいるんですか?」

「それは秘密です。いずれにせよ、受験放棄などせずに、そのような事情も含めてご両親にだけは事前に説明しておくべきでした」

 僕は溜め息をつきながら頷いた。

「それでは最後のカウンセリングです」と先生は切り出した。「以前にも言いましたが、私が西野君に行なってきたのは通常のカウンセリングではありません。強いて言えば人生相談ですね。西野君の場合、様々な問題が複雑に絡み合っていました。それらを整理する手伝いをしてきたのです。今まではそれほど厳しいことは言いませんでしたが、最後ですから、今日は本当に耳の痛い話をします」

 僕はココアのカップをテーブルに置き、神妙に頷いた。

「西野君は入学当初、自分の在り方を見失い、様々なものと激しく戦っていました。しかし、今は十分に落ち着いています。心理的な発達段階で言えば、今の西野君は多分二十歳に近いあたりです。なのに、周囲は未だに西野君を子供と見ている。それが衝突の原因です。進学先など本人に決めさせれば良いのです。一方で、西野君の次の発達課題は、生涯の付き合いとなるような親密な人間関係を築いていくことです。その意味では、西野君には友達が必要というご両親の判断は正しいのです」

 先生はいったん言葉を切り、微かにニヤッとした。

「昔なら十五歳で元服です。西野君はそういう速さで成長しているんです。とは言え、まだまだ甘いですね。本物の大人なら今頃、独立と自活の準備をしている所でしょうね」

 僕はアアと肩を落とした。

「西野君はいざとなったらご両親を言い負かせると思っているのかも知れませんが、そう上手くはいきません。いくら頭が良くて成長が速くても、人生経験が足りません。これからは、ご両親にもっと率直に接しなさい」

「はい」と僕は脱力した。

「ところで定時制の件ですが……。語弊があるかも知れませんが、全日制は子供のための学校です。一方、夜間定時制は大人の学校です。私は、良いと思いますよ」

 大人の学校。その言葉に釣られて、僕は頷いた。

「ただし、あそこの全日制には安田さんがいるのでしたね……」

 そして、先生はおもむろに言った。

「良く覚えておいてください。西野君の心の奥底の願望は原状回復かも知れません。しかし、仮に人間関係が原状に復帰したとしても、心の在り方が復帰するとは限りません」

 溜め息が出た。心の変化は可逆ではない。すでに、僕の心も香澄の心も変わってしまっている。だから、過去の幻影を追い掛けるな。先生はそう忠告しているのだ。

「覚えておきます」

 僕がそう答えると、先生は大きく頷いた。

 話は終わった。僕が三年間のお礼を述べると、先生は「こちらこそ、良い話し相手がいてくれて、本当に楽しかったです」と言ってくれた。

 

◇◇◇

 

 三月、今日は卒業式。どういう風の吹き回しか、両親が揃って出席していた。校長先生から「ぜひに」と連絡があったらしい。母は小学校の卒業式以来。父に至っては全ての入学式卒業式を通して初めての出来事だった。

 退屈な式だった。周囲には単なる知り合いに過ぎない同級生たち。その中には、僕の自習を「ずるい」と大騒ぎした者たちもいる。連中は中々進学先が決まらず、最後には自らの怠慢を棚に上げて、世の中に向かって「ずるい」と不満を漏らしていた。

 三年前、同級生の大多数は成績不振者ではなかった。なのに、授業では小学校の復習を延々と繰り返す。必然的に、時間不足で中学校の内容が疎かになる。その結果、三年が経ってみれば、同級生の大半が成績不振者になっていた。

 授業は教科書通りに進め、成績不振者には追加で補習を行なう。それ以外に解決策が無いのは明らかだった。しかし一部の教師が、落ちこぼれの公式認定は生徒の自尊心を傷付けると強硬に主張し続けていた。

 同級生のほとんどは中位校か下位校に進学する。上位校に進むのは、早々に学校の授業に見切りを付け、塾や通信教育を利用した者だけ。少数のために多数の芽を摘み取る。この卒業式はそんな悪平等の集大成だった。

 卒業証書授与に続き、祝辞や挨拶、校歌斉唱などと式は進み、残す次第は卒業生の退場のみとなった。進行役の教頭先生が閉会の辞を述べた。

「これにて、本年度卒業証書授与式を終了いたします」

 会場のあちこちで溜め息が漏れた。すすり泣くような声が聞こえ始めた。しかし、僕には何の感慨も湧かなかった。名目上は特別支援学級、その実態は僕一人の自習室。終わった。疲れた。さっさと帰ろう。

 その時、教頭先生が宣言した。

「引き続き、これより特別表彰を行ないます」

 ざわめきが広がった。まだあるのか、と僕もげんなりした。生徒会、部活動、ボランティア。一体、何を表彰すると言うのだろう。そんな中、教頭先生が説明を始めた。

「我が県では毎年、県内の中学校卒業生の中からとりわけ優秀な者を選出し、表彰しています。本年度も先の秋から半年間にわたり、厳正なる選考が行なわれてきました。その結果、本年度は本校卒業生が選ばれました。それでは……」

 会場が静まり返った。

「西野智和君。起立してください」

 驚きとも疑念ともつかない控えめな声があちこちから上がった。僕も呆気にとられながら腰を上げた。壇上の校長先生が力強く話し始めた。

「西野君は勉学に励み、独力で教育課程のさらに先まで進みました。また、中学校における学年と礼儀の在り方について問題を提起し、その後、率先して模範的に行動しました」

 僕に与えられた課題、強くて優しい人間……。校長先生は全人教育の一環と言った……。

「西野君は自身の勉強の傍ら、上級生の受験勉強を助けてくれました」

 高橋先生と橋本先生があの三人を連れてきた時は驚いた……。三人は合格の御礼と称して大量のお菓子を持ってきた……。

「西野君はスクールカウンセラーと養護教員の助手を務め、保健室登校をしている生徒たちを慰め、励まし、学習と教室への復帰を手助けしてくれました」

 緊張をほぐしてやったり、家に帰ろうとするのを引き留めて宥めたり……。

「西野君は保護者に代わり、不登校になっていた生徒たちの登校を支援してくれました」

 文化祭の前日、人気の無い夕方の校舎、一緒に展示を見て回った……。結局、あの生徒は途中でこの学校を去って行った……。

「西野君の優しさと陰の努力に多くの生徒が救われました」

 校舎の片隅で、僕は手首を握りしめて震え続けた……。

「在校中の三年間、西野君は我々の期待に応え、縁の下の力持ちとして、この学校を支え続けてくれました。その言動は、すでに一年生の時より県教育委員会でも注目され、高く評価されていました。それでは西野君。壇上に進んでください」

 その声に促され、僕は壇に上がった。

 壇上、僕の目の前で、校長先生が表彰状を読み上げていた。

「……学業および品行の優秀につき……」

 全てを読み終えると、先生は「三年間、良く頑張りました」と言った。

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