第33話 ロボ

 人間をはじめとする動物たちの感情の首座しゅざとも言われる心の生成と生育の過程で大きな役割を果たしたのは、聞くところでは前節で触れたような世界の中での身体の成長と外からの刺激であったらしい。ヒトや動物の小さな体が大きくなるに連れその身体的経験によってまた心も変化する。心は何時しか体に芽生え、身体と言う風土に寝起きしては主観的客観らしきものがそれを監視かんししつつ総体としての生育を遂とげていくのだ。

「まあそうね。シロはイヌだし、私はヒトね。これは分かるでしょ。つまりは違いがあるって事よね。それを認めた上で育っていくんだけれど、でもロボ抜きではやってけないってことを含めて、大体同じって事かしら」

「ワンワンワン、ウワンウワン」

「それに私たちは皆この世に投げ出され、転がされたサイコロみたいなものだしね。誰かが言ってたように、時に止まって苔生こけむすと言うか、言わば転がり続ける石ならぬ意志みたいなものね。サイコロで言えば1の目が出たり6の目が出たり。でも、悲しいと言うべきかどうか、1から6までしか出ないのよね。ゲームのあがりまでに欲張って100とか1000とかを出すためには何回振らなきゃいけないか、よね」

「ワン、ワンワン。ワンワンワン、ワンワンワンワンワンワンワン、ハアハア」

「それ、あれだけれど、あなたは1ずつだから余計たいへんよね」

 動物の心は身体のセンサやイフェクタと言う脳や神経の出先でさき機関の発育とともに双方向そうほうこう性の発育を遂げる。動物は世界の中で様々な困難そのほかに出くわすのだが、その一々に体や脳、心が様々に反応するようだ。全身の一々の状況に応じながら体と脳、心は育まれ、各々に記憶をたくわえては見事に彫琢ちょうたくされていく。時には大きなストレスを抱えてむしばまれることもある。心は身体と脳のありように応じてその両方に根差ねざしながら次第に形と機能とを整えていく。体と脳の構造と機能を巧みに連関れんかんさせながら練磨れんまする事で、心は何かしらの変貌を遂げていく。

「シロはおっとりしてるわよね。それってとってもいい事よ。抜け目のない犬なんてね、気味が悪くて落ち着かないわよね。でも、私たちは突然の隣国による侵攻みたいなとんでもないことに遭遇したら、自分がどうなるか全くわからないわ。おっとりしてるって言うのは概ね幸せに過ごしてきたと言う証拠よね。ただ、生きる事について大切なことは大方おおかた何でも備えてるでしょ。それが大事よ、ちゃんと育ってきたと言うあかしだからね。促成そくせいでなく、時間をかけて育つのって大事ね」  

「ウワン」

「あとは出会った相手や場所にすぐに適応できて、食べ物や水に適応することね。でも、独饅頭どくまんじゅうだけは口にしてはいけないわ。毒はにおいでぎ分けられるでしょうから、ちゃんと避けて通ってね」

「ンワ」

 動物の場合には日々或いは時々刻々と変化する体調など体の在りように応じて脳や心の在り方も変化する。こうして育ち変遷へんせんする人間の心や心のことわりであるが、センサやイフェクタを搭載とうさいしたロボと言う非生物システムにおいて、これをどう根付かせて育てていけるのか、これがロボに心を抱かせるに際しての障壁しょうへきたる難題であった。

「んね」

「ンワ」

 先にも触れた通り、きにつけしきにつけ反応し変化しうる柔軟性フレクシビリティ、さらには可塑性プラスティシティ、傷ついて多少なりとも瘢痕はんこんのような傷、すなわち再構築リコンストラクションの結果を残しながら、あるいはきれいに回復する修復能力、快癒かいゆ力、刷新さっしん力、並びに屈託のない忘却ぼうきゃく力が心のニュートラルな成長にとっては不可欠なのだ。

「それは難しい相談ね。ほんのちょっとした傷でもあとが残ることがあるのよ。戦災そのほかにおける傷痕しょうこんのように後々に残る記録のような記憶もあるのね。そんなに単純なものじゃないって事。それは個体や集団における場合や、事象じしょうにおける様々な場合があると言うことよ。それには強靭きょうじん忘却ぼうきゃく力、すなわち無意識的忘却よりもむしろ積極的消去が必要なのよ」

「ワン、ワン、ワワン。ブオン、ブオン、オブオン」

「シロ。あんた、結構記憶力いいじゃない。健全だから忘却力や消去力もきっといいはずよ」

「オン、ワオン、オン。ブオン、オブオン」

 生物の脳から脳や体に向かって、あるいは骨などの各組織から脳や体の各所に向かって分泌放出される様々な物質が大きな役割を果たしていたらしい。心の萌芽ほうがにおいても何らかの発出はっしゅつされたことであろう。生物個体の発生、生誕後多くの他者に取り囲まれ、また環境との相互作用から得られる脳の奥底の古い部分に存する心の萌芽をもたらす何らかの構造と、そこで形成される基盤きばんをやさしく揺り動かす揺籃ゆりかごのようなもの、上記のごとくに振りかけられるしずくなど、そうしたものの総動員が必要となるのだ。

「まあ、赤ん坊にとってのママね。ママの抱っこの温もりやナデナデ、優しく見つめる眼差しによってもたらされる何ものか。そして何よりも幸せなお腹いっぱい感と不可分のおっぱいね」

「ウオン、ウオン。グワン、グワン。ゴワン、ゴワン」

 この気分や感情、情緒じょうちょその他の総体に代わるものたちをどのようにロボに搭載とうさいしうるか、この大命題がヒト型ロボ発展の歴史において大きく立ちはだかる障壁しょうへきとなったのだった。何らかのブレイクスルーが時代を画期かっきしたのか、時代の変遷へんせんの中で事態を漸進ぜんしんさせたのかどうかについては判然はんぜんしない。

 情報についてはどのようなオーダーレベルの蓄積ちくせき量の記憶が可能となったとしても、人間の記憶の場合にはその知識の醸成じょうせいに関わる五感をもとにした体験と、その後にもたらされる心的経験とが不可分に結びついた重層じゅうそう的な経験的知識の蓄積こそがある意味で重要である。それらの修飾的な経時的変化に結びついていろどられては二次形成される経験的記憶や関連性心象事象かんれんせいしんしょうじしょうの形成、さらにはこれらの個の心理における誤修飾ごしゅうしょくや修正、そしてまた相互関連を可能とする円環えんかん形成を含めた高次監視装置という形での心と言うものを抜きにしては、ロボにおける心的構築はおよそ無意味なものと考えられた。

「人間の場合はややこしいからね。それに引き換え、シロたちの場合は結構単純かもしれないわね。でも色々見てると、シロたちも結構複雑よね。でも、ねたり悪戯いたずらするとかはあっても、人間とは違って猜疑さいぎ心とか不純だとか、損得勘定そんとくかんじょうとか忖度そんたくとかはなさそうよね」

「ンワ、ワン。ウワ、ワウ」

 人間に一般的な、場合によって脳内部位に対応する身体各所にすら痕跡こんせきを残しうるとされるホログラフィック的記憶のような、脳内の時間と位置における記憶の分散配置ぶんさんはいち設定がロボにおいて行われないがゆえであるとも言える。しかし単なる情報の取り扱いと操作に基づく演繹えんえきのみであればいかに膨大な情報であろうとも、その処理には経験的記憶や心理の動的規制はそれほど重要ではない。これらはむしろロボにおける迅速じんそく処理には邪魔になるものであろう。一方それとは対極的と言えるような、人間の情緒における経験的、懐古かいこ的、分散的かつ多極的記憶の重要性は言うまでもない。

「そうなのよね。シロ、分かるかな。記憶に基づく感情ね、それに感覚や感情、情緒に粘り強くまとわりつく記憶ね。あんたにもあるはずよ、ああ、この味やにおいを覚えてるとか、あのときのあの場所のとかね。よく似た美味しさみたいなね」

「ウー、ワン。ウー、ワン。ワン、ウーワン」

 生物システムにおいては基本的に生体は誕生の後には成熟とその後のおとろえと言う一方向いちほうこう性の体験的な経過にさらされ、その上での変遷へんせんが行われることになっている。成長が終わりに差し掛かると次第に古びが顕現けんげんし、しぼんでゆき、次いでおもむろにながら死と呼ばれる終焉しゅうえんに近づいていく収束しゅうそく過程となる。

 ほかにも不意不測ふいふそくのケガや心身の疾病状況、落命を含む不慮の事故や親類縁者の喪失そうしつ体験など、負因ふいん見做みなされうる状況にさらされることで出来上がっていくものが動物における心であるともいえる。

 人間の場合、心はよい方向にもまた悪くも変化しうる。心の基本的で理想的な在り方に近いと考えられるニュートラルな場合もあれば、そうでない場合もある。いかに過大な入力の適時急速 減衰げんすい装置が組み込まれているとは言え、どのようなベクトルの力が心にし掛かるか、あるいはそれに対してどれほどの量や質と速度で心が変性するのかも感受性も含めて全くその時その場次第、感受性を含めてその個体次第であり、実際に個人に於いてどのような反応となるかは分からない。例えば意に反して犯罪の際、及びそれ以降に生じる犯罪者の心理規制としての危機きき回避かいひ特性の保護的な負荷 減衰げんすい反応である。

 一時的にせよ個々の心にそのような負因が一定期間、ある程度以上の力で圧し掛かれば、場合によって加齢変性の引き金が引かれては異常物質の蓄積や脳そのほかの神経細胞の脱落が惹起じゃっきされ、それが漸次ぜんじ進められていく可能性が生じる。そうして多彩な神経細胞の変性に伴う神経疾患発生の不可逆的なスイッチが入るのだ。

「ンワン、ウワン。ンワワ、ンワワ、ンワン、ンオン。オブオン」

 このように、心と言うものの一歩一歩の挙動が刺激感受性や心理規制の介入による制御を含めて全く予測不能で未知数的である上、不況やパンデミックなどの大きな社会状況の変動によって大変複雑な心の総体がどのような変貌を遂げるのかについては全く予測のしようがないとも言える。

 振れ幅が大きな場合の心の動態はそれをシステム自体が部分的に破壊することで全体を守って保守すると言う反応も起こりうるのだが、人間などはこれを以て面白みと名付けた向きもあるかも知れず、生物におけるかるフレクシビリティなどと言うものは、物事の確固たる想定に立脚するロボに実装じっそうするにはおよそ相応ふさわしくない、邪悪じゃあくな装置、若しくは悪魔の機能とも呼ぶべき代物でもあったろうか。

 そうした予測不能性、不可能性こそは生物とその周囲を彩っているいとおしむべきカオスの香りなのである。これとは対極的なところに位置し、学習され獲得されたものの中でのみ機能を発揮するともされている、非生物的機能集合体の極みとも言うべき単純な計数入力指向型の学習者であるロボにおいて予測不能の物事への対応性、あるいはオーバールールと言ったものを獲得させる「似非えせ人間的 擬似ぎじ人間型ロボ」や「超人間的ロボ」を作る試みは困難を極めた。

 勿論、予兆よちょうなしの巨大地震やスーパー火山の破局はきょく的噴火やカルデラ爆発、噴火後の山体崩壊や地殻変動後の致死的 大海嘯だいかいしょう、さらには時に海を渡る広範高速超高温火砕流に巻き込まれれば、辺りの動植物やロボは全滅、いわば一巻の終わりとなる。予測はともかくも、それへの事後対応は決死とも言うべきものでもあり、如何いかな超人でもこれら解決不可能問題への正解を辿たどる道のりはあまりに遠かった。結局のところ深甚しんじんなる事前検討による結論に従った発生直後数分間の緊急 退避たいひまさる道はなかった。

「まあね、逃げるが勝ちよね」

「ワンワン、ワワン、ワワンがワン」

 動物その他の生物においては、体と呼ばれる機能的総体の中を場所によって、大きさや組成と構造とを変えながら、どこまでも伸長可能で、ある程度 可塑かそ的な血管と言うものが血液を満たしながらに延線えんせんしつつ縦横無尽じゅうおうむじんに走り回っては酸素をはじめとして様々な分子を様々な地番のあらゆる場所に血液という流動態を用いて送り届けている。ほかにも神経回路上の微弱な電流や、細胞内の物質のわずかな濃度 勾配こうばい信号、微小量や単一分子による物質信号、あるいは細胞の外郭がいかくをなす薄膜はくまくの表裏をくまなく行きう電磁気信号が際限さいげん無く、またあまねく、隈なく駆け巡り、これによって様々な機能が果たされている。実は他にも多くの分子や信号たちがそれぞれ独自に、諜報ちょうほう員のように自律しながら活躍する仕組みを形成しているのだ。それに引き換えロボにおいて。基本的に制御回路を含めてもせいぜい数百ほどのオーダーの電気信号の単一系統の経路のみである.

 生物、生命体を敢えて命を所持したロボと表現するなら、上述のように人間その他の生物たちは気の遠くなるほどに手の込んだロボであると言うことができる。おまけにそれらは単調で単一的な増殖をするものでない限り、あたかも多様性が保証されているかのように見える上、表面の毛の生え方やしわのでき方一つにしても、近似したものではあっても全く同様のものはなかなか見当たらないらしい。

「でも、あんたの5匹の兄弟の真っ黒な子たちは区別がつかなかったわ。どう言う理由わけだか、あなただけが白だったのね」

「ワン、ワン、ワワン。ワワワワワン」

 成長のないロボの場合、いかに複雑であるとは言え設計図の作成は容易である。単細胞生物などの微生物たちは光その他のエネルギーを動力源として活動し、死に向かう以外の彼らの目的は人間同様に不明ではあるが、寿命を保つ中で危機回避的に合目的ごうもくてき的に振舞うことは可能である。ところがそんな微生物においてさえ設計図の遺伝子をいくら目を皿にして眺めてみても、それらの命が発出した後、なぜ生きているのか、何の目的で動いているのか、生きているのかが全く分からなかったのだ。つまり、それこそが生き物なのだ。

 危機回避における迅速じんそく性においては、空気や地面の振動の入力信号や、においと言った化学的な入力信号に依るもの、視野に入る光と影の関係性の変化や変化率という刺激などの入力から反射的に筋肉を駆動させて瞬時にその場を離れて姿をくらます様な出力に至るまで、何らかの生物学的な動作特性上の精密な動きにおける制御の複雑かつ単純さ加減においてさえ、悲しいことにロボはそれらの小さな生物たちの足元にも及ばない。

「ねっ」

「ワン」

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