第35話・風の洞窟。


 翌朝、朝靄に包まれて、玄武の屋敷からサラタ山に向かって、つづら折れの山道を辿って行く次郎らの姿があった。

 深い森は朝靄に包まれ幻想的な景色だ。

一行は、次郎・キクラにザビンガと平左衛門に、案内役の道紀の五名だった。


「次郎どのが長を受けてくれて、ほっとした。おまけにひと月後のサラへの出兵を明言されて、兄の命とは言え長年動かなかった鬱屈が晴れましたぞ」

 道紀がしみじみと言う。


彼は長と神巫女を殺されても、報復しないで沈黙していた事にかなりの精神的負担があったと告白していた。

山の民からの突き上げもきつかったのだろう、と容易に想像出来る。


「いや、叔父上が抑えていてくれたお陰で、山の民は何事もなく暮らして来られたのです」

 と言いながらも、当時の父の言い残した言葉を考えていた。


― 怒りにまかせて行動したら、やがてその負のものが自らに帰ってくるだろう。しかるべく時期を待つのだ。

(父上が、それ程危惧したものは、何だったのだろう?)

 そして、それ程の予想する力を持っていても、回避する事が出来なかったのだ。


(運命は変えられないと言う事だろうか・・)


 しばらく登るといきなり視界が開け、青い水面をたたえる湖とサラタ山の灰色の岩壁が見えた。

 湖の色は青い。深く底なしの瑠璃色だった。

その中から忽然と立ち上がる垂直の岩肌が、人を寄せ付けない神韻とした神々しさを漂わせていだ。初めて見る次郎とキクラ・ザビンガは、その光景に言葉を失ったかのように見入っていた。


「これが、山の民が信奉する聖なる湖じゃ。この色から蒼の湖と呼ばれ、この湖が涸れると、この島は滅ぶと言われている。神巫女と玄武の長以外立ち入る事を禁じられている。儂も恐れ多くて入った事は無い」


 震える風の音が頭上から聞こえてきた。

見上げると、岩肌の中腹に黒い穴が開いている。

風音は次第に大きくなっていく。まるで山が泣いているようだ。


「あれが風の洞窟じゃ。朝と夕に風が吹き抜けて、その音が屋敷でも聞こえるのです」

 道紀は湖畔を歩いて、洞窟の正面に一行を誘う。

 洞窟の正面に立つと、丁度湖の左右が均等な位置となっていた。湖底には一筋の道の様な物が、洞窟のある根元に向かって一直線に続いていた。


「これが、風の洞窟に通じる道だと言う事だ。前に風の洞窟に行ったのは、兄・道帆と美幸様のみで、他には誰も見てはおらぬ」

 次郎は、湖に手を浸けてみた。


―次郎。やっとここまで来たのね。

 母の声が頭の中に聞こえた。

―はい。風の洞窟で修行するために来ました。

―懐かしいわ。若き道帆様が風の洞窟で修行する時に私は食料を運んだの。

 次郎の脳裏に美幸の見たその時の様子が映し出された。


母が呪文を唱え、剣を振って湖を切り分け、二人が湖底を歩いて風の洞窟にたどり着く。

父が風の洞窟で瞑想して、立ち上がると向かい風を手刀で切り裂く稽古をしている。また火を炊いて飯を食い藁を敷いて寝ている。

登る朝日を洞窟で禅を組んで迎え、湖で汲んだ水で身体を清めその汚水の処理の仕方などの一部始終が見えている。


食料や薪を持った母が渡って来て、洞窟へと続く階段に置く様子など、ここで修行するために必要な知識全てが克明に映し出されていた。


― 修行中には人に会ってはいけないの。だから食料を運ぶ人がいる。湖畔に置いてもらって取りに来るという事も出来るけれど、出来れば洞窟から出ない方がいいの。道帆様の修行は七週間つづいたわ。だけど、次郎はそんなに掛からない、三・四週間ほどで済むわ。その間の食料はザビンガが面倒見てくれる。

ザビンガ、お願いね。

―はい、分かりました。

 不意に、ザビンガの声が聞こえた。


(ザビンガが?)

次郎が目を開けると、ザビンガも同じ様に手を浸けて瞑想していた。

その様子を他の者が、無言で見守っていた。


「ザビンガが食料を運んでくれるのか?」

 ザビンガがゆっくりと目を開けると、

「そうよ、その為に来たのよ。最初に会った時に言ったでしょう。それとも、物見遊山で付いてきたと思ったの?」


 実はザビンガが来たのは持ち前の好奇心からの物見遊山だと、次郎は思っていたのだ。だがそうでは無くて、最初に会った時からこの事を予知していたのだ。


(やはり、神巫女は怖い・・)

 次郎は、自らが神巫女になった事を棚に上げてそう思った。


「水薙ぎの剣を貸して」

 ザビンカがキクラに手を伸ばすと、彼が護持して来た水薙ぎの剣を受け取った。


「さっき道紀様が仰った様に、湖に無事に入れるのは玄武の長と神巫女だけよ。私も神巫女。そして今、特別に水薙ぎの剣を使う許しを美幸様が与えて下さったの」


 ザビンガはするりと剣を抜き、

「マンハンネン・クダラハン」

 と叫んで剣を振り下ろした。


その呪文はさっき脳裏の中で、美幸が言った呪文に紛れも無かった。

すると、湖の水が左右に盛り上がり、真ん中から裂けて湖底へと続く道が現われた。


「たまげた・・」

 道紀らが、眼を丸くして呟く。


「行って見ましょう」

 ザビンガはそう言うと、その道をとことこと降りて行った。


「行ってくる。皆はここで待っていてくれ」

 言い残して次郎も従った。



道はそのまま降りていって、湖底に着くとサラタ山の岩肌に向かって真っ直ぐに伸びている。

湖は直径半里ほどの半円状で、半円状になった壁がサラタ山の垂直の岩肌だ。

正面の道は十丁ほどで岩肌に到着することになる。そこには、人が入れる縦長の穴が開いていた。

 穴に入ると左右に階段があり、さっきの映像を思い出して父や母の行った右手の階段を上がる。


四十数段で乾いた階段に変わる。ここが、湖の水面なのであろう。

更に十段ほど上がると、母が持って来た食料などを置いた広い踊り場となった。

「私の持って来た物はここに置くのね・・」


 ザビンガが呟くと、終熄の呪文を唱える。

「マンハネン・シュララ」

 途端に水が上がって来て、下の階段は水中に埋まった。


「今日は次郎が修行中では無い。私も風の洞窟に行ってみるわ」

 何故か光る目つきでザビンガが言う。

次郎は、頷いてさらに階段を上る。

 幾段上っただろう。突如、廻りが広くなった。

高い所に明かり取りがあり、充分な明るさがある。焚き火の煙も抜ける様だ。

その先に、寝床の残骸、焚き火の跡と、少し残っている薪、傍に鍋がありまだ使えそうだった。

その横には岩清水が落ちて溜まっていて、水を汲む木の器が置いてある。降りなくともここで水を汲めるのだ。


「なかなか快適な棲家ね。ここには風が吹き抜けないのね」

 感心したようにザビンガが言って、付近を調べ始める。


 次郎は、たき火の跡をほじくりかえして、すぐに使えるように、灰や石を乾燥させようとしていた。

じきにザビンガの歓声が洞窟に響く。


見ると丸い岩に、棒を差し込んだ扉の様な物がある。

「風の洞窟に繫がる扉よ」

 と言った、ザビンガが棒を藻って回そうとすると、音も無く棒が折れて尻餅をついた。


「痛た!」

 見ると年月の長さに、木の棒は風化してボロボロになっていた。

「これじゃあ、無理だな・・」

 棒の切れ端を持ってみると、手で簡単に折れる。


「待って、私がここへ来られるのは、これが最後かもしれないじゃない。なんとかして」

「なんとかして、っていったって・・」

 石の扉を見ると、まん丸で転がせば良いとすぐに気付いた。


「ザビンガ、手伝え」

 二人で石の扉を転がす。扉は動き始めるとあっけなく転がって開いた。開いた先はまさに風の洞窟、厳しい修行の場だった。


「ゴー」

と、低い風音が聞こえて、慎重に覗いて見ると幅・高さ三間くらいの円状の空間で、槍を使える充分な広さがあり、その空間の前後には直径一間ぐらいの穴が開き、白い空が見えた。

朝の風が緩やかになった今でも身体を押される位の風圧があり、朝夕の強風時を想像するとその恐ろしさに身震いした。


「丈夫な綱がいるわね」

石の扉の近くにある、紐を結びつけられる岩の窪みを見てザビンガが言う。

確かに綱で体を確保しないと風に吹き飛ばされるだろう。

前も後も断崖なのだ、落ちたらひとたまりも無いだろう。

ワクワクした好奇心も吹っ飛び、厳粛な修行の場である事を実感した二人は、粛々として階段を降りた。


「マンハンネン・クダラハン」

 今度は、次郎が唱え剣を振り下ろす。

途端に水が引いて現れた階段を下って元の湖畔に戻った。


「どうでした?」

 探検に行くような少し浮かれた感じのさっきとは違い、真剣な顔をしている二人に道紀が尋ねる。

「生活する場所は整っていたけれど、風の洞窟は恐ろしい所だったわ。風が弱くなった今でも吹き飛ばされそうなぐらい・・」

 何事にも物怖じしないザビンガが青い顔で言う。

「・・・・・」

 道紀らは、その様子を黙って想像していた。


「ともかく明日から籠る。準備する物が色々あるのだ。よろしく頼む」

 次郎の言葉に、不安そうな目つきで頷いた。

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