第3話 緊急事態宣言③

 宗平と聡子の出会いは二十二年前だった。聡子は農協の職員で事務服の似合う可憐な女性で、二十三歳で大学出たての宗平は二歳上の聡子に一目惚れをしたのだった。それも本人以外にはバレバレの態度だったため周知の事実となっていた。そこで、なかなか聡子を誘えない宗平を見かねた聡子の上司が飲み会を設定してくれた。その飲み会をきっかけにして、宗平と聡子は二人で会うようになり、一年後に結婚をした。


 すぐに長女の心海が生まれた。まだ二十五歳だった宗平は父親になった自覚があったとは言い難かった。宗平の母をはじめ当時一緒に住んでいた妹らが、総がかりで心海の育児に取り組んでいたので、全く出る幕がなかった。宗平はおしめを換えた記憶もミルクを与えた記憶すらない。かろうじてあるのはお風呂に入れたことだった。それも数えるくらいで、宗平が入れたというより湯舟に浮かべさせただけで、ちゃんと洗ってあげたことはなかった。次女の七海の時はもっと育児と縁がなかったと言えた。父親と対立していた時期でもあり、宗平なりに農家として一番頑張っている時でもあった。農業を勉強しようと茨城にある農業大学校に通うことを決めていた。結局入学することはできなかったのだが。


 宗平の祖父は分家で少量の土地を与えられただけの農家であった。そこで意欲のあった祖父は事業にも手を出していた。最初は順調に土地などの資産を増やしていたらしいのだが、結果的には自宅と農地、そして少しの山林以外の土地は手放していた。それを見てきた父は安定した道を選び町役場への就職を選んだという。

 宗平が中学生の時に亡くなった祖父は、宗平に羽振りの良かった時代の話を沢山聞かせてくれていた。祖父は役場に勤める父のことを認めたくはなかったようで、宗平には何か事業を起こせと事あるごとに言っていた。それが男としての甲斐性だと。


 宗平の父は宗平が農業に専従することを反対していた。今でこそ農家の株式会社化などが盛んに報道されているが、ほんの少し前までは考えられないことであった。農家という仕事で大きな利益を得ることに対して、父は諦めというよりそもそも眼中にないという姿勢を貫いていたと言える。それでも宗平は何か手段があるはずだと考えていた。だが、やる気が漲っていたその時期に父が病で倒れ、役場を辞めた。未知数の農業への投資などできる状況ではなくなり、宗平は夢を断念した。不思議とそれについて後悔をしてはいなかった。あのまま頑張り続けても成功したとは言えないし、何より自分で農作業をしてみてわかったのだが、体力勝負の仕事には向き不向きがあり、宗平は明らかに向いていない。やり続けていれば、もしかしたらそれなりの体力がついたのかもしれないが、今となってはタラレバで話にもならないのだった。


 宗平が早くに結婚をし、娘たちにも恵まれ、それらを見届けたことで父は満足しているようだった。ただ一つ、男子ができないことを嘆いていた。それは宗平にだけ言っていたことで、聡子には覚られていない。もし、聡子が知ってしまったら、きっと、実家に帰るだろうと予測ができた。それがわかっているから宗平の心の中にだけ留めている。宗平自身は父の気持ちが理解できている。認めたくはないのだが同じ気持ちがあるのを拭い去れないでいた。


 可憐だった聡子はいつの間にか、その可憐さを失っている。体系も顔の大きさも変化し、昔の写真を見ると別人としか思えない風貌になっていた。明らかに一家の主は聡子で、宗平の母親ですら聡子の言いなりになっている。その分、宗平の家での立場は弱くなっていく。それで家庭が平和であるのなら、それも良いことなのかもしれないと、受け入れている宗平だったし、それが心地よくもあるのも事実だった。しかし、その一方では、得体の知れない何かに囚われていることも事実だった。

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