第2話 緊急事態宣言②

 宗平は昨夜の聡子との会話を思い出していた。


七海ななみが学校で暴力事件を起こしたのよ」

「七海が暴力事件って、何なのだ」

 宗平は聡子の唐突すぎる言葉に耳を疑った。

「一月の末のことなのだけれどね」

「どうして今まで黙っていたの」

「だって大事にはならなかったし・・・」

「どんな状況だったんだ?」

「それがねえ、笑っちゃうのよ。女の子同士の会話でよくあるでしょう。好きな子を聞くやつ。それに七海は答えなかったらしいのよ。そうしたら、あまりにもしつこく聞いてくたらしく、その子を突き飛ばしてしまったのよね。それを見ていた担任の先生が私に言ってきたわけ。ちょっと注意が必要かもって」

「なんだよ、事件なんて言うからびっくりしたけれど、大袈裟だな」

「そうなのだけれど、先生の話によると七海はちょっと切れやすくって、前にもそういうことがあったらしいのよ」

「確かになあ、女の子だし心配かもなあ」

「その言葉は禁句よ」

「えっ?」

「今は女の子も男の子も関係ないのだから」

 そこで聡子に反論しても勝ち目がないことはわかっていたから宗平は黙っていた。

「七海はきっと発達障害なのよ」

「えっ?だってもう高校二年生だろう。何を今更・・・」

 先ほどより大きな声だった。

「年齢は関係ないでしょう。大人の発達障害が話題になったのって、もう随分前よ。あなたって本当に何も世の中のことを知らないのね。七海って勉強はできるのだけれど、感情をコントロールすることができないのよ」

「そうなのか」

「まあ、私が色々と勉強をして七海をサポートしていくから、大丈夫よ」

 この会話はいつものように相談ではなかったようだ。子育てのことで宗平に言っていないことは山ほどあるはずだった。宗平はモヤモヤした感情が拭い去れなかった。しかし、相談されたとしても困るだけなのは目に見えており、夕べも別段何も言わなかった。いや、言えなかった。


「何なのだよ」

 目を開けて窓の外を見ると山の頂がなだらかに広がっている。低いが一つだけ富士山のようにきれいな形の名前も忘れた山を見る。発達障害と早急に結論付けていいものなのか、勉強すると聡子は言っていたが、それはどういうことなのか、疑問や不満が頭の中で駆け回る。しかし、それは空回りで終わるのだった。


 数日後の夕方、次女の七海が長女の心海ここみとビデオ通話をしていた。パソコン越しに心海の部屋が映し出される。他県の国立大学に通う心海は昨年から友達と共同生活を始めていた。

「お父さん、元気?こっちは問題なくやっているよ」

「おお、そうか。そっちの県の方が感染者は多いようだから、十分に注意をするように」

「うん、わかっているよ。学校もほとんど行っていないし、外出も控えているから大丈夫よ」

 宗平は無邪気に笑いあう姉妹を微笑ましく思った。通話を終えた七海が聡子の手伝いをしている。最近料理に興味が出たようで、七海は台所に立つ時間が増えたようだった。こうして見ていると七海に何か障害があるとは信じられない宗平だった。

「お姉ちゃんの彼女ってきれいな人だよね」

「おい、彼女って・・・」

 宗平は七海の言葉に違和感を覚えた。

「ああ、友達ね」

 聡子と七海が目配せをしたような気がしたのだが、宗平はそれ以上深追いをすることは止めた。やはり頭が働いていないことを痛感させられる。宗平は違和感を残したまま冷蔵庫からビールを取り出した。


 食卓には七海が作ったというラザニアと母が作った大根の煮つけ、そして聡子の得意料理の茶碗蒸しが並べられた。最近の我が家では夕飯に白飯が出ることはなかった。糖質制限だか何だか知らないが、聡子も七海も母さえも米を多少でも作っている農家の割には、白米を食べることを控えている。宗平は白いご飯がないと満足できない体質で、この食卓に慣れるのに時間がかかっていた。


 食事を終え、仕事部屋に行くと、宗平は冷蔵庫から今日二缶目のビールを取り出した。こっちでもビールを飲んでいることは家族に知られていないはずだった。飲み終えた缶の処分も買い物もバレないようにこっそりしていた。

「何だか高校生になった気分だな」

 缶ビールを開けてソファーに沈み込むと言い知れない孤独感が押し寄せてくる。だがそれは不快なものではなく宗平にとっては大切な感情であることは間違いなかった。

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