Seg 19 君であり君でなく -02-

 井上坂いのうえさかの前には、幼い子供のように目をり、あふれるなみだを必死にぬぐう、ユウの姿をした水人形。


 その姿に、井上坂いのうえさかは手をばす。


「ダメだよっ!」

 指先が頭にれる直前、泣きじゃくっていたユウが、目をにしてかれを見上げる。


「ダメだよ」

「ダメ」

「助けないで」

 木霊こだまのように声が重なる。

 足元の石畳いしだたみは、見る間に赤く染まった水が満ちていく。

 らめく水面から、井上坂いのうえさかを取り囲むように無数のユウが姿をあらわす。


にいちゃんは助けちゃダメなんだよ。ボクが自分でやらなきゃいけないんだ。でも、ボクはバケモノで! だれもボクの存在をみてくれない! みとめてくれない! ボクは――」


 井上坂いのうえさかの中で、ユウの言葉と幼い自分が重なる。



『ボクはバケモノだから、ここにいちゃいけないんだ』



 その瞬間しゅんかん、水でできたユウがかれの手をつかんだ。

 我に返った井上坂いのうえさかは、はらおうとしたが、相手は水。れることはできてもつかめず、じわじわと体の自由をうばおうと身にまつわりついてくる。



「いけないんだ」

「みとめてくれない」

「バケモノだから」


 耳元でささやく声が聞こえてくる。

 かれは半身以上を水に包まれてしまった。やがて顔もおおわれてしまえば、呼吸ができず、死に至る。

 だんだんと水人形たちがかれを囲いはじめ、頭上に一つの大きな水の球を作りだす。

 井上坂いのうえさかを水球にめる気だ。


 かれは目を閉じた。

 水人形たちは、チャンスとばかりにユウの顔で口のはしゆがませる。

 水球を落とそうとうでを挙げた瞬間しゅんかん

 井上坂いのうえさかは、つかめるはずのない水のうでつかんだ。水人形はおどろきに目を見開いてかれを見る。


 かれひとみは閉じたままだ。

 しかし、口は音もなく言葉をつづっていた。


 ――迷うな、いやだと思う方は選ぶな!


 かれの自由をうばっていた水は、その瞬間しゅんかんはじけ飛んだ。

 今度は、かれの声ではっきりとつづられた言葉が周囲を支配する。


「“これは、しゅつづりとしてあるまじき事例である”」

 袖口そでぐちから数枚、短冊形たんざくがたの和紙がすべる。

 と、先程さきほどの言葉がすみとなって和紙につづられていく。


 ――やるべきこともわかっている!


 井上坂いのうえさか声音こわねが変化した。

「重ねて言う。“これは、しゅつづりの試練としてあるまじき事例である。よって、字綴じつづり屋、井上坂いのうえさか介入かいにゅうをこれより開始する“」


 短冊たんざくは文字をつづり終えると、はしから桜色の花びらとなって散っていく。

 井上坂いのうえさかが風を起こすようにうでを広げると、それは辺り一面にい散った。


 一枚一枚が意思を持つ存在のように、遠くへフワリと、近くへクルリクルリと、花びらはおどくるう。


「主無き試練は、試練に非ず。空間回帰のため、字綴じつづりの一切合切いっさいがっさいを許すものなり!」

 発した言葉が別の短冊たんざくかびがり、それもまた花と散る。

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