第13話・アランゲハの憂鬱。
「邪魔すると、叩っ切るよ!」
アランゲハは霞む目で夜の山道の先を見つめて吠えた。山道の先にいたのは、細い目を鋭く光らせた狼だった。
狼にも、この人間らに逆らっても無駄だとは解ってはいた。
しかし、最近は昼も夜もこの様な人間どもがうろついていて落ち着かない。興味半分でもしひ弱な人間だったら、追い払うつもりで出てみたのだ。
だが、他の誰よりも凶暴な気を発し不機嫌な猛獣の様な声を出す人の雌に恐れを持った狼は、そうそうに尻尾を巻いて藪に逃げこんだ。
事実、アランゲハは苛立っていた。彼女は今まで自分の大きな体を生かした技で闘ってきた。
だが、今回の遠掛けはうまくいかない。初めて自分の大きな体が邪魔に思えて困惑していた。
ここは、デルリ村の背後にあるウイス山。
山修行から帰って来たイシコロゲとアランゲハが、今まで悩んでいた修行の壁を越えた事を知った師のガランゲが彼女らに次の課題を与えた。
「気配を消して行動して、不意の襲撃にも瞬間的に対応できる様になったのは、大きな進歩じゃ。だが、お主らにはまだ足りぬものがある。それは、持続力。今まで長時間継続して活動したことが無い。だが、実戦では何日も闘い続ける事もままある。その時に、生死を分けるのが持続力じゃ」
と、背後のマンス山を一昼夜往復して持続力を試せ。と言った。
それを聞いた十兵衛もガランゲに同意して、タケイルらにも参加させた。
マンス山の端から端までを往復すると、約五里(20km)ある。それを一昼夜往復するだけの単純な遠駆け稽古だった。
「まずは、七・八往復すれば次第点じゃ」
なんと始めにガランゲ自らも歩くという。
それを聞いた二人の弟子は、高齢を理由に止めたが、ガランゲが一度言い出した事を取り下げる訳は無い、無駄だった。
「なら、儂も行こう」
と、十兵衛も参加して稽古が始まった。
出発点は、西の山麓。
農村地帯のそこは、農家であるシュラの家の近くでソトミが多少の食べ物や水を用意してくれた。反対側の東の山麓には、町人のシクラの家やモミジらが同じ様に用意してくれている。
稽古は日の出と共に始まった。
子供たちや女剣客二人は、元気いっぱいに飛び出した。十兵衛は早足で歩き、ガランゲはトボトボした歩きで、見守るソトミ・シトミ夫婦を心配させた。
最初の者が往復して戻ってきたのは、二時間を過ぎた頃だった。それはなんと最年少の娘・ソラだった。続いて、シクラ・タケイル・シュラと来てしばらく間が開いた。
そして、アランゲハ・イシコロゲも来た。
子供たちもだけれども、この二人も疲れた顔で、用意したおにぎりを食べて水を補給して、二往復目に向かった。
その後で、十兵衛・ガランゲが来て、疲れをあまり見せずに水を補給して二往復目に向かって行った。
ここには各自の名前が書かれた紙が用意されて、通過する時にその下に小石を置いて何往復目か解る様にしている。
「これは、思っていたより大変な稽古だぞ」
ソトミは妻と顔を合わせて呟いた。
ガランゲが次第点としたのは七・八往復だった。それが一往復だけでも国内に名前の通った女剣客の二人が、見るからにかなり疲労しているのだ。
二往復目の者が戻って来たのは、当然最初よりは時間が掛かっていた。
やはりソラから子供達が変わらぬ順番で来る。彼らは、疲れた・疲れたと言いながらも三往復目に向かっていた。
そして次に来たのは、十兵衛・ガランゲの老師匠達だった。二人は、水を補給して食糧を持って歩き去った。
ソトミらは、その歩きを見て、
「最初と変わらぬ歩きだ」と、師匠らの自信のある歩きに、何故か納得した。
その後、イシコロゲがくたくたになりながら来て、ひょろひょろと戻っていった。アランゲハはなかなか来なかった。
結局、最初の遠駆け稽古は、ガランゲ・十兵衛が八往復して夜明け前の早い時間に終えた。なんと老師匠たちがぶっちぎりの一着である。そのうえまだまだ余裕の表情であった。
子供らは、ソラとシクラが七往復したが、夜明けを越えて太陽が高くなっていた。シュラ・タケイルは、五往復。イシコロゲは四往復半、アランゲハは四往復で疲労が大きくリタイヤ。
その後三日間足を休めたあと、ガランゲが皆に言った。
「どうじゃ、よく解ったであろう。歩く、駆けるだけでも一日続ける事は至難な事じゃ。それを命掛けで闘った場合はどうなると思う。そして、そんな闘いは良くある事なのじゃ。闘いで無くても、何十里離れた場所に、急いで知らせに行く必要のある時がままある。持久力も大事じゃ。あとは皆、それぞれに工夫せよ」
皆は一応に項垂れた。
特に、イシコロゲとアランゲハは落ち込んでいる。
「長い距離を歩くにはそれなりの工夫が要る。それは筋力では無い。普段動いてない我ら年寄りでも出来るのじゃ。要は歩き方じゃ。お主らは強靱な筋力があって、それに頼ろうとし過ぎる歩きになっている」
見かねた十兵衛が、助言する。
それから、各自工夫して歩くようになり、ある程度の成果を上げていた。
だが、アランゲハはなかなか成果があがらなかった。彼女は普段、その体や筋力に任せて動いている癖がついていたのだ。
おまけにこの稽古は、ソラ・シクラらの小柄な者が有利だと思い込んでもいた。
それでもアランゲハは、駆けないで師匠の様に早歩きにすると、疲労も少なく六往復は出来る様になっていた。だが、まだまだだと自分でよく解っていたが何かが掴めないでいた。
「今日もまた、やけ酒かー」
アランゲハもイシコロゲも酒は好きだった。
いつも、就寝前は二人で酒を酌み交わし剣術談義をした。時には調子に乗って踊り出す事もあった。
山修行で、やっと一つの壁を越えたと思ったら、次の高い壁が待っていたのだ。
剣術修業とは、そのようなことの繰り返しだとは解っていたが、最近は、とっかかりの見えない、苛立ちで酔う事が多くなっていた。
(こんちくしょう。今夜もまた酔って千鳥足で踊ってやるわ・・)
そう思った時、アランゲハの頭の中で何かが弾けた。
(千鳥足? あれは筋力を使ってないわ!)
そう思ったアランゲハは足を止めて立ち止まり、全身の力を抜いて酔った足を再現してみた。
体がフラフラと前後左右に揺れる。今日も結構歩いたのだ、その疲れが本当に酔った様に体を揺らしていた。
(・・横揺れは要らない。前後だ、いや前だけで良い)
山道は、ここのところの彼らの往復で踏み固められて、石が取り除かれて整備されていた。勾配はあるものの段差が無い平な道になっていた。
前に揺れて体重を掛けると、体が自然に「ツツツー」と進んだ。
(これだわ!)
さらに体重を前に掛けると、それだけでズンズンと前に進む。
「体が大きいのは不利ではない。この場合でも有利な筈じゃ。小さいソラが遠掛けを得意なのは、普段お主の様な身体の大きな者に、筋力では立ち向かえないから、体の動きに人一倍敏感なせいじゃろ」
と言った師ガランゲの言葉が蘇る。
「師匠、遠掛けは私の様に、体が大きい者は不利なのでしょうか?」
と思いあまって聞いた返事だった。
その時は、師匠の慰めの言葉だろうか、と思ったりもしたが、
(やはり、師匠の言葉は本当だったわ・・)
アランゲハは確かな手応えを感じていた。
「はっはっは。アランゲハは酔っ払いから歩き方を編み出したか!」
十兵衛はガランゲの話を聞いて大笑いした。
遠駆けが上手くゆかず落ち込んでいたアランゲハが、突如あっさりと夜明け前に八往復した。疲労も少なく本当にあっさりと済ました感じに皆が驚いたのだ。
十兵衛はガランゲと酒を酌み交わしながら、そのいきさつを聞いたのだ。驚いた皆が、アランゲハに[酔っぱ足(よっぱあし)]と名付けられた歩き方を教わり、今この時にも山を往復して実践中なのだ。
「そうじゃよ。今頃皆で夜中の山中を千鳥足で歩いておるわ」
「それならば、子供らに酒を飲まして酔わすのが、先じゃったかも知れぬな」
「わっはっはっは」
酒を酌み交わす老師匠の二人にとっても、じつに愉快な夜だった。
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