第7話・母の名前。


刺客を追跡して廃屋で捕えられてソラは、絶望しながらも腕を擦り合わせる縄抜けの動きをひたすら続けていた。

「・・?」

 ふと、何か聞こえた様な気がした。

 ソラは空しい縄抜けをしていた腕を止めて耳を澄ませた。

 微かな音がした。

誰かが庭に侵入したようだ。

 中を伺う気配がある。

 全身で気配を探るソラの耳に、聞き慣れた微かな声が聞こえた。

「ソラ、いるか?」

 シュラだ。

ソラは、動かぬ身を揺すり猿轡をされた口で呻いて、精一杯の音を立てた。途端に、大きな音を立てて戸が引き開けられて、人が二人飛び込んで来た。

シュラとシクラだった。

二人は、ソラを月明かりで確かめると猿轡を外した。

「ソラ、無事か?」

 シュラが聞く。シクラは手足の縄を切ってくれた。

「兄さん」

 助けが来た嬉しさに、思わず涙がこぼれた。

だが、先に言わなければならない。

「刺客よ。タケイルが危ない。女がタケイルの母親を名乗って近づき刺すの。もう一人密偵がいて、そいつは長い鞭を使う」

 シュラが黙って頷き、

「解った。俺がタケイルの所に走る。シクラは、十兵衛さんに伝えてくれ。ソラ、走れるか?」

 手足の縄が切れて立ったソラは、着物の端を帯に巻き付け、

「もちろん。夜だからこうしても恥ずかしく無いわ」

 月明かりの夜の道を、三人の子供が野生の動物の様に疾走した。


まだ道には、明かりを持った人々が三々五々歩いていたが、その際を三人が風の様に走り抜けた。明かりになれた目の人々は、暗闇を走り去る彼らに気付かなかった。

「ドンッ、ドンッ、ドンッ」

 腹の底から響く様な大きな音がして、夜空に鮮やかな花火が上がった。

 湊に近付くと更に多くの人混みがあった。シュラとソラは人混みをすり抜け船を目指して走った。

「ドドドン、ドーン」

 と、花火の音が次第に近付き、花火を道で見上げる人々の姿が赤や青や黄色に染まった。


「アクロスーーー!」

 波止場から船に向かってシュラが呼ぶと、船の上からたくましく日焼けした男が顔を出した。

 アクロスだ。

彼はこのところ父親の船で漁師の見習いを始めていて、たくましく黒く日焼けしている。


「おお、ソラが見つかったか。上がって来い」

 黒い顔に、白い歯を見せてアクロスが言う。

「タケイルは?」

「さっき、女の人が来て一緒に向こうに行った」

 アクロスが浜の方を指さして言う。

(遅かったか・・)

 ソラは、臍を噛んだ。


「案内しろ。女は刺客だ、タケイルが危ない。後で十兵衛さんも来る」

 シュラが叫ぶ。

 アクロスは表情を変えて、横の者に何事か言い残すと船から飛び降りた。

「こっちだ」

 小走りに人混みの中を駆けるアクロス、続くシュラとソラ。

 タケイルは、人の列から離れた暗い砂浜にいた。


 夜空を反射して光る海面を背景に、シルエットの様に佇む二人。やがて、歩みよった大きい方の影・刺客の女が、タケイルの肩に手を置いた。

「ドン、ドン、ドドドン」

 凄まじい音を響かせて、上がる花火。

 走り寄るソラの目に、背に回した女の手に花火の光を跳ね返す白刃が見えた。

「ムン!」

 無声の気合を発して、ソラは手にしていた礫を投げた。

続けざまに投げた。

 礫は、女のシルエットに当たり、こちらを振り返った女を更に礫が襲う。


「タケイル、その女は刺客だ。離れろ!」

 駆け寄りながら、シュラが叫ぶ。

 その声を聞いたタケイルは、咄嗟に転がって女から離れた。

離れて膝をついたタケイルの目に、さっきまで母親だと名乗っていた女が短刀を抜いて恐ろしい目つきで立っているのが見えた。

「やっぱり、嘘だったのか・・」

 タケイルとて、母親は幼いときに死んだと教えられていて、女の言う事を信じたわけでは無い。

だが華やかな祭りの夜だ、今夜だけは騙されても良いとも思っていたのだ。


「嘘では無い。さあ母の元に来るのよ」

 女がゆっくりと滲み寄る。

「嘘よ。抱きしめて刺し殺すとはっきり聞いたわ!」

 ソラが叫んで礫を投げる。

 礫は女の額に当たり額から血が流れる。

「畜生、このガキ。とっとと殺っちまいなと言ったのに、スケベ心で生かすから、こういう事になるんだよ」

 女が顔を流れる血を手で拭って、夜叉の様な顔で闇に向かって悪たれを言う。


「お前が手間を掛けずにとっととその子を始末しねえからだ」

 闇から鞭を持った男が現われて言う。

「今から殺るさ」

 と言うが早いか、女は白刃を煌めかせて膝を着いているタケイルを襲った。

「ぎゃあー」

 だが、悲鳴を出したのは女の方だった。

 タケイルが振った兜割で、お仙は短剣を持った手の甲を砕かれて膝を付いて蹲った。

 タケイルは前の刺客の襲撃以来、いつも太股にこの小さな兜割を携帯していたのだ。もっとも、お仙ぐらいなら素手でも倒せるほどの腕は既に身についていた。


「馬鹿野郎! だから言ったじゃねえか。腕が立つと」

 密偵が鞭を振って、タケイルを襲う。

 その鞭は、間に入ったシュラに遮られ掴まれてしまった。

「こん餓鬼めら」

 怒声を放つ密偵。

密偵は力尽くで鞭を引き、引き離そうとするが、鍛えられたシュラは引き寄せられるも鞭は離さない。さらに横から棒を持ったアクロスが迫る。

刺客の女はソラが礫で牽制している。


(なんて事だ・・)

 お仙は臍を噛んだ。たった四人の子供らに一人前の刺客が手も足も出ないのだ。

「タケイル、私はお前の本当の母親だよ。非道い事をしないでおくれ」

 お仙は、タケイルを動揺させて事態の好転を狙った。

「嘘だ! お前なんかは俺の母では無い!」

 タケイルが叫ぶ。


「そうだ。タケイルの母は、お前の様なゲスでは無い。美しく高貴な天女の様なお方だ」

 後ろから、そう言って男が出て来た。十兵衛だった。

「密偵。名を聞いておこうか」

「俺は、鞭打ちの定次だ。鞭があればお前などには負けぬわ」

 定次は鞭が使えぬ負け惜しみを言った。

「ほう、そうか。ならばシュラ、離してやれ」

 シュラが掴んだ鞭を離すと、定次は移動して間を取って十兵衛に対峙した。その目つきはしてやったりと、歪んだ笑いを浮かべていた。


 剣を持った十兵衛に、定次は左右から鞭先で鋭く牽制して来た。十兵衛は動かずにしなる鞭先を見ている。

(ふむ、鞭先は早い。それにしなって延びてくるのは、他には無い動きじゃな・・)

 冷静な十兵衛には、牽制は却って鞭の動きを見定める機会を与えたのだ。

 それに気付いた定次は、牽制を止めて左右の上方から顔を襲った。間は三間、到底剣の届かない間から顔を狙う鞭ならではの攻撃だ。

 鞭先が顔や頭に当れば、血が噴き出して視界を奪い攻撃能力を大幅に失う。鞭は、打撃の力は弱いが鋭い痛みと精神的動揺をもたらす。それから、じわじわと手傷を与えてゆく蛇の様に執拗な武器である。

 ところが十兵衛は、そのしなって伸びてくる鞭先に剣を合わせて、

「パスッ、パスッ」

 と、跳ね切った。

 通常は剣に巻き付いても切れない筈の鞭が、十兵衛にかかっては何故か簡単に跳ね切られた。


 驚いた定次は、更に鞭の速度を増して襲う。だが襲う度に鞭が跳ね切られて短くなって、遂には一間ほどの長さになっていた。

「定次とやら、そのような短い物ではもはや鞭とは言えぬ。何か他に武器は無いのか?」

 十兵衛がとぼけて言う。

「畜生!!!」

 叫んだ定次が鞭を地面に叩きつけて、剣を抜いて飛び込んだ。捨て身の刺突を仕掛けたのだ。それを僅かの動きで躱した十兵衛は、飛び込んできた定次の首筋を跳ね切った。

 定次は言葉を発することも無く倒れて、砂浜を黒く染め断末魔の痙攣をする。


「さてと」と、お仙に向き直る十兵衛。

 密偵の最後を見て、落とした短剣を拾いお仙に向かおうとするタケイルをシュラが止めた。

「ここは、俺が」

 と言ってタケイルから短剣を取ると、逃げようとするお仙を掴んで体ごと胸にぶち当たるようにして刺した。

 しばらくそのままの格好だったが、やがて、ズリズリと崩れ落ちるお仙。


シュラはその場に立ち尽くしていた。初めて人を殺したのだ。

 以前には刺客に囚われて家族共々殺されそうになった。決して刺客を逃がしてはいけないと、身を持って知るシュラだった。

そして嘘であっても母を名乗った女を、タケイルに殺させたくなかった優しい心を持っている。



 その後、母の名を十兵衛から教えられたタケイルは、夕方の波止場で、一人で夕日を見つめている事が多くなった。

 その様子を離れた所から、十兵衛と母親代わりのモミジが見守っていた。

(まるで美幸様が、夕日の方向の国に葬られているのを知っている様じゃ・・)

 と、十兵衛は寂しげな顔でそれを見ていた。

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