6

話は再び遡る。

夢すら見ない、とても深い眠りだった。もしかしたら気絶していたのかもしれない。そんな眠りから再び覚めたリアムは、寝る前と同じぼんやりとする頭で考えていた。

──ここはどこだっけ。そう、ここは確か父さんの故郷フェアスで、僕はレジー殿に連れてこられたんだ。

見慣れぬ天井がその事実を裏付ける。リアムは起き上がると、突然強い吐き気に見舞われた。慌てて手で口を覆い横になってみると、少しだけマシになった。その後は何度も何度も、しつこい位の欠伸に見舞われた。欠伸が出る度に涙が滲み、それを何度も拭う。呼吸もなんだか苦しくて辛い。何故だろう、と周りを見ると、自分の右手にある魔法器具の中身が見えた。これがリアムの血を抜き続けていたのだ。そうか、これは貧血か。血が足りなくて欠伸が出るのだ。血液から脳に行き渡る酸素が足りないのだな。そう結論付けた。きっと先程の吐き気は血圧の低下から。そう考えると辻褄が合う。

再び周りを見渡すと、今度は人を確認した。数人の女中がテキパキと働いている。一人は魔法器具から集めたリアムの血を注射器に移し替え、数人がそれを一本一本確認していた。恐らくこれを国民に与えるのだろう。そうすればこの国の人は病から救われるのだ。僕の血で何とかなるなら幾らでもそうしてあげたいと思うが、身体はそうはいかなかった。段々と呼吸も早く浅くなってきて苦しい。リアムは近くの待機中の女中を呼び止めた。

「すみません」

すると女中は驚いて、リアムに膝を折った。

「お目覚めでしたか、神子様」

畏まられたことなど無いのでなんだか悪いことをしてしまった気分だ。

「あの、具合が悪くて。呼吸が苦しいんです」

「まぁ、大変!直ぐに酸素を準備致しますね」

そう言って女中はリアムに小さな半円の魔法器具を取り付けた。空気中の酸素がこの魔法器具に集められ、リアムの口元に放出されるらしい。

なるほど、こんな魔法器具まであるんだな、とリアムは感心していたが、その魔法器具を付けても楽なのはほんの数分だった。

「すみません、やはり苦しいです……。血を抜くのを一旦止めることは出来ませんか?」

もう十回以上はしているであろう欠伸を噛み殺しながら何とか言うが、それは直ぐに男の声で断られた。

「駄目ですよ、リアム様」

いつの間に扉から入ってきたのか、そこに居たのはレジーだった。

「レジー……殿……」

浅い呼吸で男の名を呼ぶ。レジーは悲しそうな顔をして見せた。

「リアム様、辛いのは分かりますが、今は耐えてください。国民の命がかかっているのです」

そう言うと、レジーは両手でリアムの左手を包み込んだ。

「顔色が悪いですね。無理もありません。リアム様はあれから五日ほど寝込んでおられたのですから」

「え……?」

あまりのことに頭がついて行かない。あれから五日も経っただって?

レジーはリアムの考えを読むように続ける。

「びっくりしましたか? しかし、今は眠っていらした方が楽かと思い、睡眠薬を投与しました。眠っていれば一瞬ですからね」

レジーによると、この世界に来てからずっとリアムの血を貰っているとの事だった。

「そんなこと、出来るわけ、ない……そんなことしたら、人は死んでしまいます」

リアムは否定した。しかし、レジーは更に首を振った。

「いいえ、大丈夫です。リアム様はご自分の体質をお忘れですか?」

「あ……」

リアムが小さな声を上げる。

「そう。リアム様は特別な、神の血を引く神子。神子は自分の身体の治癒を数秒で行えます。貧血になっても血はまた回復するのです。死ぬことは有りません」

「でも、僕、いま、なんか変なんです」

「変、と申しますと」

レジーが尋ねる。

「頭が働きません、呼吸も苦しい、です。本当に、死んじゃう……」

あまりの具合の悪さに、リアムの頬に一粒の雫が流れ落ちた。

するとレジーは握ったままのリアムの左手を更に強く握りしめた。

「大丈夫ですよ、リアム様。恐らくリアム様の体質上、これまで風邪や貧血等を召されなかったのでしょうね。だから、初めての貧血症状を恐れているのです。知らない物は恐ろしいですからね。しかし、貴女様のお身体ならばこの程度では死んだりしません。安心してください」

「でも……」

リアムは不安をレジーに伝えようとするが、頭が上手く回らなくて言葉はそこで途切れてしまった。

「辛いのならまた眠りましょう、リアム様。もう少し強い薬を投与しますね」

すると、レジーは女中に指示を出し、リアムに一本の注射をした。

「ま、て……また、寝ちゃうの、は……」

そう言いかけて、リアムはまた眠りに落ちてしまった。

「おやすみなさい、リアム様」

「…………」

リアムの返事が返ってこないのを確認すると、レジーはリアムの頬を軽く手で触った。どうやら本当に眠ったようだ。自然と笑みが零れた。

「この間の薬より強力な物を打っただろうな?」

レジーは注射をした女中に確認した。

「はい、本来なら致死量かと」

女中はさらりととんでもない事を言うが、レジーは気にも留めない。

「ふん。あれだけ強い薬がたった五日で消えてしまうとは。神子とは厄介だな」

それだけ言ってかれは部屋を出た。目の前の廊下に朱色の髪の女が立っている。やはり漢服を着ているが、他の者が着ているものよりかなり上等な物だ。

レジーは女を見てはにかんだ。

「ヴィラ! どうしたんだこんな所に」

「あら、主人の居場所くらい、わかる妻で無くてはね」

そう言いながらヴィラと呼ばれた女は葉巻を吸った。

「待たせてごめんよ。こちらは順調だ」

レジーはリアムの寝ている部屋に目をやって、それから再びヴィラ──自分の妻を見つめた。これにヴィラは満足そうに微笑んだ。

「あら、それは良かったわ。最初、貴方のお兄さん、名前、なんだったかしら。それが見つからない時はどうしようかと思ったけど、流石は私の旦那。あなたはついてらっしゃるわ」

そう言うとヴィラはまた葉巻を吸った。

「ルーベンだよ。ルーベン兄上。ふふ、そうだね。全く、兄上があんな遠い世界まで逃げていたとは思わなかったよ。ま、この世界から逃げても、子供を作れば数年で死ぬっていう事実は変わらなかったし、何がしたかったんだか」

レジーの言葉を聞いて、くつくつと女が笑う。

「あら、血を抜いてた隙に逃げられたんじゃなかったかしら」

「そうさ。兄上はこの世界での神子としては失格だった。だから逃げ出したんだろう。あいつは国民やこの世界の人々を捨てて、自分だけ幸せになろうとした。その結果が、あのリアムだ。リアムは確かに半分は神子の血だが、もう半分はどこの馬の骨とも分からない雑種のものだ。お陰で血は大量に必要だし、神子の純血は失われるし、本当にとんでもない兄上だよ」

「でもあの子が、えーと、ルーベン? の子だってよく分かったわね。赤髪なんて色んな世界に沢山いるのに」

これにレジーは得意そうに答えた。

「僕はあんな出来損ないの兄上とは違うからね。兄上の顔も、髪の色もよく覚えている。色んな世界を回って王様にも謁見を求めて、とびきりの赤髪の人物をしらみ潰しに探してたら、あの子が出てきたのさ。鼻の形と、何よりもあの深紅の髪が兄上にそっくりだった。僕が五年も探したのは間違いではなかったのさ」

ヴィラは葉巻の煙を深く吐き出しながら言った。

「素敵」

「だろう?」

そう言うとレジーは妻の肩を抱いて、廊下の窓の方へ歩いて行った。

「リアムはまだほんの子供だ。私達が後見人として見ててあげないとね」

レジーとヴィラは高い塔の窓から下界を行き交う人々を見下ろす。

「ふふ……そうね。これで貴方の地位はまた磐石のものとなった……」

ヴィラの両手がレジーの首の後ろに回された。

「素敵よ、レジー」

「君もね」



事の発端は十八年前、リアムの父親となるルーベンがこの塔を抜け出したのが始まりだった。ルーベンは「もう疲れた、耐えられない」との置き手紙を残し、異世界の扉を潜って姿を消した。

当時は神子が逃げ出したと大変な騒ぎであった。大々的に捜索もされた。しかし一年、二年と、時が経つに連れて騒ぎは収まっていった。

「神子なんて居なくても何とかなるかもしれない」

そんな噂が人々の間で流れ始め、次第に人は神子に必要性を感じなくなっていくのが、レジーには面白くなかった。

レジーの父親は最後まで神子の努めを果たした立派な人だった。

神の力は、神子の一番最初に産まれた子にのみ宿る。しかし、万が一長子が死んでしまった場合は二人目の子供に、二人目が死んでしまったら三人目に神子の力が移って行くという、不思議なルールがあった。

ルーベンとレジーの父は、ルーベンに何かあった時の為にもレジーを大切に育ててくれた。

そんなレジーは神子の力や権力がとても欲しかった。しかし実際は力も権力も兄のもので、自分はその弟に過ぎない。その兄は神子としての役割も権力も捨てて何処かへ消えてしまった。

いっそさっさとのたれ死んで、自分に神子の力が宿れば良いのにと思ったくらいである。しかし、何度自ら小さな傷を作ってみても、それは痛いだけで数秒で治ることなどなかった。

結局、レジーに神子の力は無いまま、十三年という歳月が流れた。

そんな時、この世界に白い装束の人間が入ってきた。白い装束の人間達は神子を探している様子で、レジーの元にもやってきた。レジーは素直に自分は神子では無いこと、この世界の神子ももう潰えてしまったかも知れない事を話した。

しかし、白い装束の人間たちは引き下がらなかった。

「探しましょう」

そう言うと、白い装束の人間たちも捜索に加わってくれたのだ。

しかし、それからさらに三年が経つと、突如この世界フェアスに病が流行り始めた。病は人から人へ感染し、沢山の人を苦しめた。レジーは思った。こんな時、神子の力があれば。

それからレジーは更に捜索範囲を広め、遂にルーベンの血を分けたリアムの居るレクシアにたどり着いたのだ。

漸く兄の、ルーベンの形跡を見つけたレジーは本当に嬉しかった。なるほど、自分に力が宿らないのは、既に兄上に子供が居たからなんだと思うと、正直なんとも言えない気持ちになった。子供も作らずに死んでくれたらこんな苦労せずに済んだのにと思ったが、兄の忘れ形見のリアムはまだほんの子供だった。これはこれで使えると踏んだレジーは、早速リアムを連れ去って神子の権力復興に励んでいる、という訳だ。

「しかし本当に兄上は余計な事をしてくれたな」

レジーはヴィラを塔の下まで見送ると、塔の中の書斎に入って書類を整理しながら呟いた。

兄がまさか異世界の人間と子供を作るなんて考えもしなかった。この世界フェアスの人間ならば、神子の血の力は落ちたりしなかっただろう。しかし、兄は、ルーベンはわざわざ遠い異世界まで行ってその血の力を半減させたのだ。

そのルーベンも結局はリアムが二歳の時に亡くなったと言うので、子をなすと僅か数年で亡くなるという死の運命からは逃れられなかったのだし、何がしたかったのかレジーにはさっぱり分からない。分かりたくもない。

レジーが書類を片付け終わると同時に、書斎の扉をノックする音が聞こえた。

「入りたまえ」

「失礼します」

そこには長身で白髪のうら若い男が居た。

「おお、ルーカス殿。お久しぶりです」

ルーカスと呼ばれた男が言葉を返す。

「神子が見つかったと聞きまして」

「はい。今は眠っていますが、見ていかれますか?」

レジーが問うが、これにルーカスはやんわりと首を振った。

「いや、いいですよ。寝ているのならゆっくりさせてあげてください。ところで、約束の物は採れましたか?」

「はい、こちらに」

そう言うと、レジーはリアムから採った注射器一本分の血液を小瓶に入れて差し出した。

「おお、これが!」

ルーカスは感動したように言った。

「はい。神子の血です。これさえあれば、妹さんもきっと元気になりますでしょう」

ルーカスは瓶の中の血を見て、心底安心したように言った。

「ありがとうございます、レジー殿。やはり兄弟、繋がりがある方の方が見つかるものですね」

「いえいえ、私も半ば諦めていたのですがね、この世界の人々にはやはり神子の力が必要でもありましたから」

「そうですか」

「はい」

「しかし……こんな貴重なもの、そうそう手には入りません。もしよろしければ、追加での購入は可能ですか?」

レジーは喜んで答える。

「勿論ですとも。 ルーカス殿は私の家族を探してくださった大事な恩人です。必要なだけ言ってくだされば」

「ありがとうございます」

ルーカスは嬉しそうに口角を上げた。

「ではもう少し滞在させてもらいます。レジー殿も、あまり根を詰め過ぎないでくださいね」

「いえいえ、これくらい平気です。まだまだ神子としての力を民に分け与えねばなりませんから」

ルーカスが優しげな笑みを浮かべる。

「民想いのレジー殿がいて、この世界の人々は幸せですね」

「そんな、私など……」

「ご謙遜をなさらないでください。民を守る貴族というのはとても素晴らしいものですから」

そう言ったルーカスの表情がどことなく切ないものに変わったように見えて、レジーは一瞬不思議に思った。が、次の瞬間にはそんな表情は一切残っておらず、いつもの優しい微笑みがそこにはあった。

見間違いをするなど、本当に今日は少し疲れているのかも知れない。ルーカスを書斎から見送ると、レジーも仕事を切り上げて書斎から出ていった。

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