第12話 花壇

 冴え冴えとした青空のもと、動かずとも額に汗を浮かべさせる季節に、目を引く鮮麗なモミジアオイが花壇で咲いている。他の花々も眺めながら、砂利の上に落ちる校舎の片影で涼む。


 なんともなしに空を振り仰ぎ、烈日に目を細めていると、隣で同じく涼んでいた部員に声をかけられる。

 濃い影の上に置いていた、プラスチック製の空と同色のじょうろを持つ。

 六月に衣替えをして陽の光にさらされている肌を、時折吹く温風に撫でられながら、モミジアオイの咲く花壇へ向かう。


 砂利の上を歩くたびに足元で、砂利同士がぶつかる音と、じょうろの中で波のできる音が聞こえてくるが、蝉時雨が降ると掻き消されていった。水をこぼさないように運んでいると、じょうろの側面を滑り落ちる水滴のように、額から頬にかけて汗が流れていく。


 花壇の前に着き、一度じょうろを足下に置く。次々と浮かび上がる汗を手で軽く拭った。

(後で私も水分をとらないと……)

 汗を拭い終えるとじょうろを持ち、傾け、モミジアオイに水を浴びせる。

 どうしようもなく流れていく汗をそのままに、水やりを続けていると心做こころなしか、花も葉も、更に色鮮やかになったように見えた。美しく咲く花に綺麗だねと声をかけると、ちょうど温風が吹き、花が揺れ、まるで返事をしてくれているようだった。


 モミジアオイの水やりを終え、他の花々にも声をかけながら水をあげる。色とりどりの花に声を掛けていると、後ろの方から花を慈しむ声が聞こえてきた。

 声を聞き、じょうろの中で揺れる水を少し早くあげ終え、声の主である先生に声を掛けようと振り返る。先生も水をすべてあげ終えたところだった。水道へと向かう背中に声をかける。

日和ひより先生」

 振り向く先生の動きに合わせて、艶やかな髪が光を反射する。

「水道に行かれるんですよね、一緒に行っていいですか?」

 今までの言動から、断られる可能性が脳裏をよぎった。

「……? もちろんいいですよ」


 可愛らしい微笑を浮かべながら快く受け入れてくれた。そのことにふっと息を吐き、先生の隣を歩く。

 水受けが地面に置かれ、じょうろに水を入れやすい水道は、花壇から少々離れた位置に設置されている。


 水道へ向かう間、どんなことを話そうか考えていると、気づいたら空を振り仰いでいた。空には先程と変わらず烈日が浮かび、私たちの足下に濃い影を落としている。

 私が空を見上げていると、先生もそれにつられたのか目を細めながら空を見上げていた。


「日差しが強いですよね。熱中症にならないようにお互い気を付けましょう」

 空から視線をはずし、こちらを見る先生は眩しかったためか目を瞬いている。先生の言葉に頷き、気をつけますと言うと先生は安心したのか淡く笑った。その表情に、蒸されるような暑さとは違う熱で顔が上気し、心臓が跳ねる。




 なかなか冷めない熱に四苦八苦しながら、先生と会話を楽しんでいると水道に着いた。大きな水受けの上にじょうろを置き、蛇口を捻る。


「……っ!」

 蛇口に触れた手を勢いよくひっこめる。

 触れた蛇口は強い日差しによって熱を持ち、火傷をしてしまいそうなほど熱かった。

「どうしました?」

 蛇口の前で手をさすっていると、先生が駆け寄ってきてくれた。

「失礼します」

 そう言って、私の手を優しく握る。ハンカチを使って蛇口を捻って水を出し、掌を冷やしてくれた。

 先生の視線は私の手に注がれ、また心臓が跳ねる。私の手と同様に水に濡れていく先生の手は、相変わらず綺麗だ。


 一分程水で冷まし、先生が蛇口を捻り水を止める。両手で手に触れ、角度を変えて掌を確認する先生に、鼓動が早まるも視線を落とした。

「痛みはありますか?」

 先生の言葉にありませんと返す。落とした視線をあげられず、二人の手を滑り落ちる水滴が、レンガの敷かれた地面を濡らしていくのが見えた。

「ありがとうございました。先生が冷やしてくださったので、大丈夫です」

 会釈をしてそう言うと先生は息を吐く。その姿に心配されていたんだなぁと頬が緩んでいった。


 まだ握られている手に目を留めていると、ひんやりとしている手が離される。離れていく手を繋ぎ止めたくなるが、柔らかい手の感触が残る掌を握り、ぐっと堪えた。

 火傷の心配もなくなり、目的だったじょうろに水を満たすため無地のハンカチを取り出す。ハンカチを蛇口にかぶせようとすると、横からすっと手が伸びてきた。

「水を入れていくので、花ヶ前はながさきさんは戻っていていいですよ」


 ワンポイントに花の刺繍がされているハンカチで蛇口を捻った先生が、花のかんばせをこちらに向ける。先生の言葉に優しさを感じながらも、どこか年齢差や未だ変わることのない関係性をまざまざと突き付けられたように感じ、焦燥感が駆け上った。

「平気です」


 自分の放った言葉が意地を張っているようだと気づき、触れていない方の手でじょうろを持っていくことを少々早口になりながらも伝える。

 眉を下げ、こちらを見つめる先生。私の顔を見つめた後、手へ視線を転じ、数拍おいてから頷いてくれた。




 二つのじょうろを水で満たすと、先生がハンカチを使って水を止める。先生の手に握られ、ポケットへ仕舞われていくハンカチ。目を留めていると、先生の髪が先ほどよりも輝いているのを目の端で捉えて、視線を移す。

 輝いていたのは先生の髪を留めているバレッタだった。

 綺麗だなぁと見つめていると、バレッタに少し土がついているのに気付く。今まで気づかなかったのは、先生の左側にいたからだろう。


「日和先生……」

 ハンカチを仕舞うため、ポケットに目を向けていた先生が顔を上げる。首を傾げる先生に、失礼しますと断りをいれてから、近づいた。先生の綺麗な瞳には、自分の姿が映っている。

 バレッタについていた土は水分をほとんど含んでおらず、ハンカチで軽く拭うと綺麗になり、詰めた分を離れた。

「バレッタに土がついてました」

 ハンカチを見せると、視線を落とした先生が、ありがとうございます……と力の抜けた声色で言う。先生の反応に頬を緩ませ、ハンカチを見ながらどうしてついたんでしょうねと訊いた。


「……水やりをする際に、土に触れて状態を確認したんです。その際に、無意識で髪に触れようとして、その髪を留めてるバレッタに触れたのかもしれません」

 私の可愛いや好きですの言葉によって、立ち直るのが早くなった先生が、そう言ってバレッタを撫でる。

 バレッタを慈しむ姿に、入学式当日の先生の言葉を思い出した。

「バレッタのこと、確かお守りだって仰ってましたよね?」

 先生を見つめ、そう問う。

「どうし……そういえば、入学式のあと質問されましたね。バレッタをつけている理由を」

 目を瞬いた後、自身の言葉で腑に落ちたようだった。


 入学式当日の教室を思い返す。私は同じ教室に居たけれど、先生に質問していた輪の中にはいなかったことを思い出した。

「……! すみません、盗み聞きのようなことをしてしまって……」

「同じ教室にいたら、聞こえてきて当然です」

 首を振って、そう返される。

「バレッタがどうしてお守りなのか訊いていいですか?」


 私の問いに、水道に一緒に行っていいかいた際と同じように、快く受け入れてくれた。

「祖母に貰ったものなんです。小学生のときに貰いました」

 バレッタを撫で、慈しみながら優しい声色でそう話し出す。

「祖母のアクセサリーケースを見せてもらったときに、このバレッタが入っていたんです。ケースの中で、このバレッタが一番に輝いて見えました。じっとバレッタを見つめていたら、祖母がお古だけれどと譲ってくれて」


 先生の幼少期を想像してみる。丸みの帯びた今よりも高い声で話し、綿菓子のような笑みを浮かべているのを思い描く。

 その可愛らしい子が、祖母の持つアクセサリーケースの前で目を輝かせ、仲睦まじい会話をしていたのだろうか。

(写真を拝見したい……!)

 緩み切った頬と口元を手で覆い隠し、先生のご実家にあるであろうアルバムに想いを馳せる。


「バレッタをつけていると、緊張する場面で祖母の姿を思い出して、安心できたんです。何かを発表するときや、受験……教員採用試験の時も」

 目を閉じて慈しむ声色でそう話す姿は、あまりにも綺麗で。

 うっと喉の奥で呻くと、辺りに降り続ける蝉時雨が遠のいていき、先生の声が鮮明になっていく。

「それからずっと、お守りです。楽しいときも悲しいときも、緊張するときも、ずっと」

 目を開けた先生と、視線が交わる。


「古典の教師になったのも祖母のおかげです。読書が好きな祖母が色々な本を私に教えて、読ませてくれて、好きだと思うものを沢山見つけさせてくれました。……本当に感謝しかありません」

 あどけない表情で言う先生の姿に、優しいおばあちゃんにお会いしてみたくなった。

「……! すみません、長々と! 戻りましょうか」

 あどけない表情から一転、目を見開いた先生が水受けに置かれたままのじょうろを持つ。

 もう少しだけでも先生の話を聞いていたかったが、じょうろを持って先生の隣を歩く。

「お話を聴けて嬉しかったです」


 今は私から訊いて教えてもらっているけれど、いずれは先生から教えてもらえるようにと思いながら、そう伝えた。

 首を傾げながらもどういたしましてと返す先生の姿に、笑みで返す。

 温風に吹かれながら、先生と来た道を戻っていく。行きと違い、あまり会話はなかったけれど、辺りを覆う穏やかな空気に焦りや気まずさは感じなかった。





 花壇に着き、先生と水やりに戻る。可愛らしい顔で花に声を掛ける先生に一度目を留めてから、私もルドベキアに声を掛けた。

「可愛いね」

 声を掛け、じょうろを傾ける。太陽のような鮮やかな色のルドベキアが水を浴びて、輝いていく。烈日を反射して輝く水滴を眺めながら声を掛けていると、じょうろから流れる水の中に、虹が浮かんでいた。

 この光景を先生にも見てもらいたくて、隣にいる先生に声を掛ける。

「日和先生! 虹が……!」

 ペチュニアに水をあげていた先生が、こちらへ距離を詰める。


「……! まるで小さな太陽の前に、虹がかかっているみたい」

 綺麗ですねと微笑を浮かべる先生の顔を見つめながら、綺麗ですねと返す。先生の花顔かがんから花壇へ視線を転じると、ルドベキアの上で二人の影が重なっていた。

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