第13話 廊下
「貸出期間は二週間です」
入学してから幾度となく聞き、耳に馴染んだ司書さんの言葉に頷く。
空欄の少ない貸出カードをしわのある柔らかい手から受け取り、カウンターに重ねて置かれた二冊の本を持った。
会釈をしてその場を離れようとすると〝頑張ってらっしゃるわね〟と、柔らかく優しい声で伝えられ想い人の顔が浮かぶ。目元が緩むのを感じながら、将来のためですからと頷いた。
入学してから借りた本を知っている司書さんは、私の夢を知っている一人だ。
新書が入ると、おすすめの本を教えてくれる。自分自身でも新書を確認するようにしているけれど〝あの本を借りる〟と決めて図書室に来ると確認するのを忘れてしまうことが多い。
司書さんのおかげで読まなかったかもしれない本も読むことができたため、そのお礼に以前、押し花で作ったしおりを渡した。
本と本の間にアプローズの押し花で作ったしおりを挟み、図書室を出ようとすると、カウンター横に設けられた新書コーナーのポップに目が留まる。達筆な筆ペンで書かれた新書の文字に、つま先を上下に弾ませ、吸い寄せられるように近づく。
ポップが貼られた横長の本棚の上に、さまざまな本が並べられている。アニメ化され話題沸騰中の漫画や、賞をとった小説に児童書。
この図書室は蔵書量にもジャンルにも富んでいる。ライトノベルや多種多様な教本、絵本までもが揃えられている。
本の表紙に目を滑らせ、琴線に触れた本を一冊ずつ手に取る。どの書籍も表紙や文体から、著者やその書籍に関わった人々の色が滲んでいた。
手に取っていた小説をスタンドに戻し、その場でしゃがみ込む。持っていた二冊の本を膝の上に置き、視線を上に向けると本の背表紙がこちらを覗いていた。
本棚に並ぶ極彩色を左から流し見ていくと、紫色の背表紙が目に留まる。
紫一色の背表紙には恋衣言葉辞典と書かれているだけだ。駆り立てられるように本を引き出し、逸る気持ちに従って開いた。
ぱらぱらとめくり、目に留まった所を読み進め、気になった所をもう一度読み返してを繰り返し本を閉じる。
手に取った辞典は〝月が綺麗ですね〟といった奥ゆかしい言葉や、〝好きです〟といった直接的な言葉も載せた、愛を伝えるための辞典だった。ざっと目を通しただけでも、面映ゆい。恋しい気持ちが喉元まで込み上げてくる。
心に響いた言葉を口の中で転がす。
好きです、お慕いしています、ずっと一緒に居たい――愛しています。
どの言葉も口に馴染み、すんなりと音になりそうだ。
音にして伝えたら頬を染めて、先生は合わせていた目を逸らすのだろう。
先生の姿がありありと脳裏に浮かび上がって、目元が緩む。先程ホームルームで会ったばかりなのに、先生に会いたい気持ちが溢れだしていく。
本の表紙を撫で、元あった場所へ。
この本にはお世話になるかもしれないと、本の背表紙に貼られたシールの番号とカタカナを覚えて、図書室を後にした。
図書室から廊下に出ると、図書室と同様に部活動に勤しむ賑やかな声から切り離され、ひっそりとしている。細く開けられた窓からは時折、キンモクセイの香りが流れ込む。
辺りを包むのは香りと息遣いの音のみ。
目を瞑りその場で立ち止まっていると――耳に馴染んだ革靴の足音が耳に入る。
勢いよく振り仰ぎ、持っている本を握りしめ深く息を吸い込む。
今更かもしれないけれど……今更が過ぎるけれど、これ以上醜態を晒したくはなかった。
息を吸い込めど耳の奥で聞こえる音が鎮まる気配はなく、この場を支配する。微かに聞こえる足音が近づくにつれ辞典の言葉と共に、目に焼き付けるように見つめてきた姿が脳裏をかすめた。
火照っていく体と同様に染まっていく廊下の先に目を凝らす。
布こすれの音も聞こえはじめ、体が動き始める。ゆっくりと進んでいく景色を横目に、足を前へと出した。
柱の陰からスッとつま先が見え、自然と足が止まる。
背筋を伸ばし、姿勢よく歩く姿が夕暮れの中、そこだけ切り取られたように明るい。
整えられた艶やかな黒髪をなびかせる先生へ、花に惹かれる蝶のように吸い寄せられていった。
「
前を向いていた先生がふっと何かに引き寄せられるようにこちらを向き、夕暮れの光をたたえたバレッタが一部しか見えなくなる。
「
先生から声を掛けてもらえると思っておらず、声が震える。手ぶらな先生が細く長い腕をゆっくりと振りながら、こちらへと距離を詰めた。
「ホームルームも終わってそれなりに時間が経っているのにどうして――図書室で本を借りていたんですね」
体の前で持っていた本へ目を向け、表紙の文字を読んでいく。横へと動く先生の瞳は茜色に照らされている。
「レシピ本にデザイン画ですか」
本と本の間から顔を覗かせるしおりへ視線を向け、頷く。
しおりは端が少しだけ切れている。
「あまり根を詰めすぎないでくださいね」
生徒たちへ〝気をつけて帰って〟というのと同じ口調で伝えられる。
「はい。無理せず頑張ります!」
口調が〝生徒〟に対してのものと同じだとしても、口元が緩む。
「あと三週間ほどで修学旅行ですからね。体を壊さないように気を付けてください」
「はい」
修学旅行の単語に、さらに緩む口元を隠すため片手でそっと口を覆う。このまま何事もなく、中止などにならなければ先生と初めて学校外で会えることになる。
緩んでいく顔の筋肉を引き締めるのは難しい。
「……? どうかされました?」
「修学旅行、楽しみだなぁって思って」
先生と行けるのがとは言わず、口をムニムニとさせながら答えた。
「えぇ、楽しみですね」
先生と自由時間を回ることはできないだろうから、文化祭の時のように誘わない。それでも、胸のあたりがぽかぽかとしている。
「先生も風邪や怪我に気を付けてください」
夕日に目を細めていた先生は、目を丸くした。
「は、はい。気を付けます」
目を丸くしたまま頷く。その言葉に満足して一度、先生から目を夕日へと移した。
修学旅行先は北海道。広大な土地からみる夕日はとても美しいだろう。行く時期も空気が澄んでより美しく見える十月。
どうなるかわからないけれど、もしもそんな景色を先生の隣で見られたのなら、隠れてガッツポーズをするだろう。
先ほどの先生のように夕日に目を細めていると、木々を大きく揺らす風が吹いた。キンモクセイが突風に吹かれ、その風に香りを乗せる。
「――! げほっ」
窓から強い芳香が流れ込み、勢いよく息を吸ってしまいむせた。
「大丈夫ですか?」
三歩ほど離れていた距離を先生が詰める。なかなか咳が止まらず、頷くことしかできない。
背中を摩ってくれる先生の手は優しく、どうにか呼吸を戻そうと思うもうまく吸い込めない。額に汗が浮かんできた。しまいには風邪をひいた時のような引っかかった咳まで出てくる。
「焦らなくていいので、ゆっくり息をしてください」
先生が手本にゆっくりと息を吸う。それにならって同じように呼吸を数回くり返した。
「…………だいぶ良くなりました。お騒がせしてすみません」
呼吸をくり返し少し経つと喉に少し痛みを感じれど、息を吸うのが随分と楽になった。
「謝らないでいいですよ。楽になったのならよかったです」
背中を摩っていた先生の手が離れていく。その手を目で追った。
「それにしても強い風でしたね。キンモクセイが無事だといいですが……」
先生が窓の外へと目を向けた。けれど、ここからはキンモクセイの姿は見つけられない。
「帰る際は突風に気を付けてくださいね。風にあおられて転んでしまうかもしれませんし」
こちらに目を移し、眉を下げる先生の姿に頷く。
先生は存外、心配性だ。それでもその気持ちや言葉で、胸のあたりがぽかぽかする。
「陽も沈んできたし、そろそろ帰ります」
目の端で沈んでいく太陽をとらえ、本当は動かしたくない足を動かそうとする。このまま長く話を続けようとするのは、先生の仕事を邪魔してしまうし不本意だ。
「また明日」
先生が帰り際にいつも言う言葉を聞き、私も同じように返す。さっきも気を付けるように言っていたのに、先生は本当に心配性だ。
「はい。また明日」
後ろ髪を引かれるなか、先生に背を向けた。
私の足音だけが響く廊下で、いつもよりも姿勢に気を配る。
――背中にあった手のひらの感触は、消え去っていた。
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