◆Epilogue◆
第31話 「また会えますよ」
その日、西園寺彩花は暖かい部屋の中にいた。
窓からは、咲いたばかりの桜の花が見える。風に吹かれて揺れる様は、見る者になんとも儚い印象を与えてきた。
寒い冬の季節が去り、草花が芽吹く頃。
射し込んでくる柔らかな春の陽射しに、思わず眠気を誘われる。
ゆっくりと瞬きを繰り返していると、彼女の視界の下方でうごめく影。程なく、視界いっぱいに映り込んできたのは、三十代半ば頃の女性の顔だった。その顔は泣き腫らして、目元や鼻先など真っ赤に染まっている。化粧が施された目元は、マスカラやアイライナーが涙で落ちてメチャクチャな有り様になっていた。
「お母さあぁん……!」
「あらあら……お前は本当に……いくつになっても泣き虫ねぇ……」
あの日――死神と別れてから、既に七十年あまり。西園寺は八十七歳になっていた。
あれから学業を頑張り、興味のあることに果敢に挑戦した結果――彼女は保育士の道を選択した。
たくさんの子供たちと触れ合い、その中で優しい男性と出会い、結婚。四人の子宝に恵まれ、慌ただしくも幸せで暖かい家庭を築いてきた。現在彼女の傍にいるのは、その優しい旦那と四人の子供たち、そして孫や親戚だ。
これまで大きな病に罹ることもなかった彼女だったが、老いには勝てないもの。もうそろそろ天寿を全うする日が近いと思ったのが約二週間前。
身体に力が入らず自宅で転倒し、そのままこの病院、そして病室に運び込まれた。
まだ、この暖かい時間の中にいたいと思う反面、もう思い残すことはないとも思う。子供たちには優しい夫がついているし、その可愛い子供たちには既に四人とも新しい家庭がある。
自分はもう、この何より愛しい家族からたくさんの幸せと愛情をもらったから、充分過ぎると。
「彩花……」
「あなた……そんな顔、しないでくださいな……わたし、とても幸せでしたよ……」
「僕もだよ、本当に……本当に幸せだった。いや、幸せだ。きみと出会えて僕は幸せなんだ」
「ありがとう……うふふ、本当に……あの時、死なないでよかったわ……」
「……え?」
西園寺の――彩花の言葉に、夫は不思議そうな顔をした。
彼女はそれに対して特に何も口にすることはなく、ただ「なんでもない」と言うように力なく頭を横に振ってみせる。
そして、そっと目を伏せた。
とくんとくん、と心臓の弱々しい鼓動が不思議と耳についた。頭に深い霧がかかるような錯覚に陥りつつ、心地好い眠りの中へと落ちていく。
「お母さん!」と叫ぶような子供たちの声を聞きながら、彩花は最期に――笑顔を浮かべた。精一杯の笑顔を。
「(ありがとう……ありがとう、私の愛する家族たち……これからはその愛情を、あなたたちの大切な家族にたくさん注いであげるのよ)」
その想いが言葉になることはなかったが、きっと子供たちなら言われなくてもそうするだろうと――そこまで考えて、彩花は思考を放棄する。
彼女が永遠の眠りについたのは、三月の下旬のことだった。
* * *
「……あら?」
次に彩花が目を開けると、これまでの身体の痛みや重苦しさは全く感じられなくなっていた。
辺りを見回すと、そこには寝台に伏せって泣き崩れる子供たちや夫の姿。そして、安らかな顔で眠りにつく自分が見えた。
最初こそ呆然としたものの、程なくして理解する。ああ、自分は死んだのだと。
病室には家族の泣き声が響き、彩花は困ったように笑う。そういえば、自分も母や姉が亡くなった時にわんわん泣いたなぁ、なんて思いながら。
「八十七歳か、長生きしたじゃないか」
「えっ……?」
ふと聞こえてきた覚えのある声に反応して、彩花は思わず辺りを見回す。すると、窓辺に佇む一人の男を見つけた。その肩にはふさふさの立派な毛並みを持つ一匹の黒猫の姿も見える。
彩花はそれらの姿を視界に捉えて、暫し絶句していた。忘れようはずもない、忘れられるわけがない。
あの死神だ。かつて彼女が想いを寄せた、あの冥界案内人が窓枠に凭れるようにして立っていたのだ。
「し……死神、さん……? まさか本当に……本当に、来てくれたの……?」
「呪われたら困るからな」
「迷子になられても困りますからね」
「ふ……っ、ふふっ、あははは! 死神さんもトイフェルちゃんも、何も変わってないんですね!」
トートとトイフェルは、彼女が最後に別れた時のまま、何ひとつ変わっていない。姿形はもちろん、雰囲気も当時のままだ。あれから七十年ほども経ったのだと、まるで感じさせない。
ひと頻り声を立てて笑った後、彩花はそっとトートの元へと歩み寄る。それと同時に老婆だった彼女の魂の姿は、見る見るうちに当時のものへと若返っていく。そして両手を己の腰に当てて「ふんっ」と軽く胸を張ってみせた。
「どうです? 私、すごく精一杯生きましたよ」
「そのようだな。どうだった、自分の人生は」
「大変なこともたくさんあったけど……すごく幸せでした、言葉にならないくらい。あの時、死神さんに馬鹿なこと言うなって叱ってもらえて……本当によかったんだって、今は心からそう思います。――あっ、死んじゃったからもう心もないのかな?」
「あなたがそう感じられるのなら、心はあると思いますよ。……お疲れ様でした、名残惜しいでしょうけれど……そろそろ行きましょうか?」
トイフェルのその言葉に、彩花は一度病室のベッドを振り返る。そこには、彼女が愛した家族が未だに寝台に突っ伏して泣いている。その姿だけでも、自分がどれだけ愛されていたかが理解できた。
彩花はそちらに歩み寄ると、家族の一人一人の頭に片手を伸ばす。既に実体のない身、触れることはできないが――まるで撫でつけるように手を動かしてから、優しく、それはそれは優しく微笑んだ。姿は高校生の頃のものへと戻ったが、慈愛に満ちたその表情は「母」そのものだった。
「……未練はないって思ってたのに、名残惜しいものですね。もう会えないんだろうなぁ……」
「また会えますよ。次に転生するまでには百年ほどはかかりますからね」
「ひゃッ、百年!? それまでどうすればいいんですか!?」
「罪人でもないお前は閻魔に会った後は天国へ行くことになるだろう、お前の両親や姉もいるはずだ。現世の様子を見ることもできるから、お前の大切な家族を天国から見守ってやるといい」
「そっか……そっかあぁ……うふふ、じゃあ夫が浮気しないかどうかもチェックできるんですね」
「……彩花さん、変わりましたね。人間は社会で擦れるとこうなってしまうのですか、嘆かわしい……」
トイフェルはトートの肩に乗ったまま、文字通り嘆かわしいとばかりに重苦しい溜息を吐いてみせる。
西園寺彩花と言えば、元々は引っ込み思案で大人しい、真面目な少女だったはず。それがいつの間にか、こんな軽口を叩くまでになってしまった。それを嘆いているのだろう。トイフェルは少なくとも、彼女の真面目で健気なところを気に入っていたのだから。
彩花は「うふふ」と悪戯が成功した子供のように笑うと、今度こそ泣き崩れる家族のもとをそっと離れる。それを見て、トートはトイフェルを肩に乗せたまま床を軽く蹴り、宙へと浮かび上がった。
天井をすり抜け、快晴の青空へ飛び立つと、数拍ほど遅れて彼女がついてくる。
その視線は、やはり眼下に見える病院へと向けられていた。心配そうに、それでいて名残惜しそうに。肉体を持っていたら、間違いなくその双眸からは涙が溢れていたことだろう。
「……大丈夫か」
「……はい、大丈夫です。今は少しだけお別れなだけですもんね。夫や子供たちがこちらに来た時には、目いっぱい甘やかしてあげて、また楽しい時間を過ごすんです!」
そこでようやくトートを見上げた彼女は、今度こそ笑った。未だ表情には多少の陰りが見えるものの、どこか吹っ切れたように。
家族に愛されなかったトートには分からない感情だが、それでいいのだと思った。
分からないからこそ、生き物が持つ愛情を特別尊く感じられるのだから。
「だから、私の家族が天に召される時は私もお迎えに連れてきてくださいね!」
「……閻魔の許可が下りたらな」
背中に掛かる声に対し困ったように溜息を吐きながら、トートは鎌を振る。
そうして、冥界へと続く扉を開き、彼女と共にくぐった。
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