第30話 「大丈夫だろう、そう信じるしかない」
「ど……どう、なったんです、か……?」
阿東が動かなくなって数分。
西園寺は力が抜けたようにへなへなと地面に座り込むと、誰に問うでもなくか細い声で呟く。何がどうなったのか、彼女にはまったく分からない。
トートが突然骸骨になってしまったかと思いきや、鎌で阿東を斬ったものの、当の阿東は何ともなかった。しかし、その直後に今度は苦しそうに胸を押さえて倒れてしまったのだ。
「お仕事が終わったのです、これで我々がこの地に留まる必要はなくなりました」
「え……? お仕事が終わったって、何をしたの?」
「普段は肉体と魂との繋がりを断ち切ってから冥界に送り飛ばすのですが、今回は魂を直接冥界に叩き落としたのです。逆に言うと、引きずり出せなかったのですね。人の皮を脱ぎ捨てたトートの力は、トートご自身でもコントロールが難しいのです」
これまた淡々と語るトイフェルの言葉を、西園寺はやはり半分も理解できなかった。地面に座り込んだまま呆然とする彼女を後目に、トイフェルは早々に主人の傍へと駆け寄る。
普段の人間の姿は、あくまでも強すぎる力を抑え込み、安定させるためのもの。そうしなければデァ・トートの称号を持つ彼の力は強すぎて、人間界に害を成してしまう恐れがあるからだ。
そしてもうひとつ――皮を脱いでしまえば、弱体化していた力は冥界から無限に送り込まれる霊能力によって回復する。
しかし、逆に考えれば――力を解放しなければ危なかったということに他ならない。そこまで考えると、トイフェルの胸中には複雑な感情が滲んだ。
「トート、大丈夫ですか? 突然お力を解放されたことでお身体に不調が……」
「……どうせこれで仕事は終わりなんだ、しばらくは冥界でゆっくり療養する。……閻魔がまたおかしな仕事を持って来なければな」
トイフェルが声を掛けた頃には、トートはすっかりいつもの「人間の皮」をかぶっていた。その顔は常の涼しい無表情で、つい先ほどまでの骸の面影はどこにもない。だが、その顔色はすこぶる悪かった。
心配そうに見上げてくる相棒猫を見下ろして、トートはそっと息を吐き出す。問題なさそうに取り繕ってみても、トイフェルの目を誤魔化せるとは思わなかったが。
ちら、と阿東を見ると、その身体はやはりもう動くことはない。
この身体は、既に人の形をしただけのただの肉と骨だ。魂は既に冥界に叩き落とした後――このまま放置しておけば、カラスの餌にでもなって朽ちていくだけ。その前に誰かの通報によって救急隊が駆けつけて然るべき対処をするだろうが。
「では、トート。すぐにでも冥界に帰りますか?」
「そうだな……やはりこの状態では力は弱まったままだ……」
トイフェルとしては、すぐにでもトートを休ませたいのだろう。その口調には僅かながら焦りのような色が滲んでいた。
対するトートは、特に反対するでもなく小さく頷く。人の皮をかぶったことで、再び力が弱まり始めたのだ。阿東に受けた攻撃で魂の一部も損傷している。冥界に戻れば自然と癒える傷だが、人間界にいては修復も難しい。こんな状態では、次の仕事に就くこともままならなかった。
しかし、そんなトートとトイフェルの背中に改めて声が掛かる。
「あ、あの……どこか、行っちゃうんですか……?」
「はい。先ほども言いましたが、この地でのお仕事は終わりました。我々は冥界へと帰ります」
「そ、そんな……だって……」
それは、他でもない西園寺だ。
「帰る」というトイフェルの言葉を聞いて彼女は慌てて立ち上がると、やや危なっかしい足取りで駆け寄ってきた。その表情は複雑だ。恐怖、困惑、哀願――様々なものが滲んでいる。
トイフェルは知っている。彼女はトート相手に、人間の男性に抱くような想いを持っているのだ。つまり、淡い恋心を。
しかし、西園寺のその想いは死神であるトートを人間界に結び付けようとするもの。更に言うなら、それが原因となってトートの力は半分以下にまで弱まってしまったのだ。トイフェルは西園寺のことを、最初こそ素直な可愛い人間だと思っていたが、トートの身の安全に関わる以上はそうも言っていられない。
「お、お願いです、行かないでください! 私には……死神さんの力が……いえ、死神さんが……必要、なんです……」
「……」
「そ、それが駄目なら! 私も、私も死神になります!」
「何を馬鹿なことを言い出すんだ、お前にはその資格はない」
突然の申し出に、トートは思わず眉根を寄せて間髪入れずに返答を向けた。その足元では、トイフェルが呆れたように小さく溜息を吐き出す始末。
彼女には、帰りを待っていてくれる母がいるはずだ。大切に想ってくれる姉も。その母親と姉の気持ちも考えろという意味を込めて。
「死神になれるのは五歳未満の子供の魂に限られる、善悪の判断がつかない時期でなければ資格は与えられない。偏った価値観の持ち主であれば、客観的に物事を見た上での判断ができず、個人の感情だけで魂を刈り取ってしまう者が出てくる。そうなれば、死神などただの恐ろしい存在にしかならない」
「……? そうじゃ、ないんですか……?」
「以前にもトイフェルが話したと思うが、死神の本来の役目は、現世を離れる魂が迷わないように冥界まで送り届けることだ。今回は、この先の未来でも人の命を脅かす可能性が極めて高い者の魂の回収を命じられた」
「じゃ、じゃあ……誰かが死ぬ時、死神さんが迎えに来てたりするんですか……?」
「そうですね。人間だけでなく、命あるものがこの世を離れる時には必ず死神が迎えに行きます。中には例外もありますけどね」
それらの話を聞いて、そこでようやく西園寺はそっと息を吐き出した。知らずのうちに肩や全身に入っていた力が抜けて、やっと身体がリラックスしたような、そんな様子だ。
ゆったりと胸を撫で下ろす彼女を見て、トートは小さく頭を振る。
「だから、お前は死神にはなれない。おかしなことを考えていないで、自分のこれからの人生を生きなさい」
「でも……でも、わたし……ッ!」
「お前が先ほど見たのが俺の本当の姿だ。真っ青になって震えながら、お前は骸を愛せるのか?」
「――――!!」
トートのその言葉に、さしもの西園寺も言葉に詰まった。下げかけた視線を弾かれたように上げると、そこにはいつもと変わらぬ無表情の顔。
自分の力の弱まりにトート本人が気付かないはずがない。その原因となっているものが、誰であるのかも。
西園寺の顔には――朱よりも蒼が乗った。その反応を見るだけで理解ができた。現在、彼女の中にある愛情と恐怖のどちらが上であるかを。
西園寺自身もそれが分かっているのか、下唇を噛み締めるとそのまま力なく視線を足元に落としてしまった。
「……お前が感じているものは、一時の気の迷いだ。これから生きていく上で、それ以上に想える相手が必ず現れる。だから、お前は自分の人生を人と共に精一杯生きなさい」
「……っ……」
「世話になったな」
諭すようなトートのその言葉に、西園寺は声もなく静かに涙を流した。
それが何の涙であるのかは、彼女自身にも分からない。
トートは確かにいくつもの命を刈り取ったが、西園寺にとってのつらい時間を消してくれた存在でもある。
笹川功にホテルに連れ込まれ、女としての大切なものを失いかけた時。
有栖川奏恵に、徹底的にいじめ抜かれた日々。
姉と共に殺されそうになった、須藤充の詐欺騒動。
もしも、この死神がいなかったら自分はどうなっていただろうか。人の死を喜ぶのはおかしいし、すべきではないと分かっている。けれども、それによって西園寺は確かに救われたのだ。例えそのいずれも、彼女のためにやったわけではなくても。
感謝すればいいのか、自己嫌悪すればいいのか、それともただただ恐怖すればいいのか――彼女には分からなかった。
トイフェルと共に空へと舞い上がったトートを見上げて、西園寺は口唇を真一文字に引き結ぶ。涙で潤んだ視界に彼の黒衣を捉え――程なくしてそっと微笑みながら腹の底から声を張り上げた。
「……っ! 死神さん! 私がっ、私がこの世を離れる時が来たら、絶対に死神さんが迎えに来てくださいね! 来てくれなかったら呪っちゃうんだから! 冥界になんて行かないで迷子になってやるんだからああぁ!!」
ぐちゃぐちゃに入り乱れた思考ながら思うままの言葉を吐き出すと、そのまま西園寺は再び地面の上に座り込んだ。双眸には遠く小さくなっていくトートとトイフェルの姿を捉えて。
自分が愛した死神の姿を、少しでも長く目に焼き付けていたくて。
念のため救急隊に連絡をしなければとは思うのだが、彼女はしばらくの間、動けなかった。
一方で、トートとトイフェルはというと――――
「何やら物騒なことを叫んでおられましたよ」
「困ったやつだ、まったく……」
「……今後の人生で、自殺なんてすることにならないといいですね」
「大丈夫だろう、そう信じるしかない」
西園寺の心からの叫びは、無事に二人の耳に届いていた。もっとも、その内容に対して心底呆れ果ててはいるが。
ふわりふわりと空を飛びながら、トイフェルはちらりと地上を見下ろす。その目に映るのは、都会ならではの所狭しと並んだ幾つもの建物と、辺りを忙しなく移動する人間たちの姿。
その一人一人に人生があり、様々な思いもある。
死神は他にもたくさんいる。トートとトイフェルがこの全ての人間たちの死に立ち会うわけではないが、自分の人生を精一杯生きられる者が一人でも多く存在してくれることを願った。
そして願わくば、主人がまた人の命を刈り取るようなことにならなければよいと。
「(人間たちは、どうして同じ人間を攻撃するのだろう。自分とは異なるものを、なぜ認められないのだろう。なぜ、差別などというものが生まれるのだろうか。それらも含めて人間なのだと言えばそれまでですが……)」
トイフェルは、そこで考えるのをやめた。
きっとどれだけ考えても答えなど出ない。あまりにも不毛だと分かったからだ。
この地での仕事は終えた。だが、これからも同じような疑問は続いていくのだろう。それならば、その先の仕事の中で自分なりの答えを見つけていけばいい――そう考えて。
今はともかく、主人の身を休ませることがトイフェルにとって最優先だ。
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