第29話 「別に何もおかしいことはないでしょう?」


「死神さぁん!!」



 西園寺の悲鳴に近い声を聞きながら、トイフェルは状況を把握すべく即座に猫目を細めて周囲に向けた。

 つい今し方まで迫っていたドクロの群れは既に綺麗に消失している。こちらに激突したことで消えたのだろう。


 トイフェルの視界には、阿東が口角を引き上げて笑う憎たらしい顔が映った。距離こそあるものの、口元のシワの数まで把握できるほどにトイフェルは目が良い。それが余計に腹立たしかった。


 しかし、阿東に構っていられるほど今のトイフェルには余裕がない。

 確かに阿東の攻撃を受けたはずだ。あのドクロの群れは自分たちに激突した。



「(なのに、痛みがない……まさか……)」



 嫌な予感を抱きながらトイフェルが顔を上向けると、自分のすぐ後ろに立つ主人が見える。そしてトイフェルの身を包む透明なヴェールのようなものも。

 それは目を凝らしてよくよく見なければ分からないほどの薄いものだが、間違いない。トートが張った結界だ。トイフェルをドクロの激突から守るために展開したのだろう。


 慌ててトートを見てみれば――彼は対照的にボロボロだった。

 咄嗟に防御態勢は取ったようだが、既に今の姿を保っているのもつらいのか、肩や腕、脇腹などは一部分が空気に溶けて消滅してしまっている。さしものトートも、あの僅か数秒の間に自分の身までもを包める結界を張るには至らなかったのだ。



「トート……! なぜこのようなことを!」



 鎌を振れば、西園寺まで巻き込む。かと言って避ければ、直線上にいる彼女にドクロの群れが激突していたことだろう。ただでさえ死神を視認し、尚且つ会話までできるほどの高い霊感を持っているのだから、あんなものが直撃したらどうなっていたことか。

 他にできることがないのなら、せめて相棒猫だけでも守ろうと――トートはそう思ったのだ。



「し、死神さん! 大丈夫ですか!?」

「彩花さん、なぜこんな場所にいるんです!? あなたを巻き込むまいと、トートがこれほどのお怪我を――!」

「よせ、今はそんな状況じゃない」



 西園寺は足がもつれて転びそうになりながらも、必死にトートの傍まで駆け寄った。その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいるが、泣きたいのはトイフェルの方だ。

 もし彼女が来なければ、トートが鎌をひと振りするだけで終わっていたはず。こんな負傷をしなくて済んだはずだ。


 珍しく怒りの感情を爆発させる相棒猫に対し、トートは阿東から視線を外さずに一声制止を掛けた。

 腑に落ちないといった様子のままトイフェルが阿東を振り返ると――男は、こちらを見据えて不敵に笑っている。さも愉快そうに。



「ほうほう、見える、見えるぞ。うっすらとだがな。どうやら肉眼で捉えられるほど力が弱まったようだなぁ」

「……」

「それにそちらの少女、興味があるねぇ……死神の姿が見えて会話もできるとは、驚くほどの霊感! きみの身体をぜひともじっくり調べさせてもらいたいところだ、じっくりと、ねぇ……」

「ひ……っ!」



 どうやら、阿東の目はトートの姿を視認できるようになったらしい。それは紛れもない――彼の言うように、トートの力が自分の姿を隠せないレベルにまで弱っているということだ。これ以上のダメージを受ければ、ごく普通の一般人の目にも捉えられるだろう。

 トイフェルは前足を地面に張り、威嚇するように全身の毛を逆立てた。


 ――許せない。

 こんな低俗な男に、自分の主人がこうまで傷付けられたことが。


 西園寺は自分に向く阿東の目と、舌なめずりをしながら紡がれたその言葉の意味に蒼褪めて後退る。性的な被害を受けそうになったことがある身だ、意味を理解しないはずがない。



「下劣だな、どこまでも……」

「トート、どうしますか? 彩花さんにあの女性を確保してもらって、一旦退いた方が……冥界に戻れば、お身体は癒えるはずです」

「癒えるまでこいつをどうすると言うんだ、ゆっくり療養している間にまた被害者が出る。……仕方ない、相手は一応人間だからこれだけはやりたくなかったが……」

「ふはっはっは! 何をコソコソやっている? どうやって逃げようかと相談しているのか?」



 ガタガタと身を震わせて怯える西園寺を後目に、トートは小さく溜息を洩らすと――痺れを切らしたようにこちらに歩いてくる阿東を射貫くように見据える。すると、トートの双眸は鮮血のような真紅へと瞬時に染まった。それと同時に阿東は、真正面から何かしらの衝撃を受ける。

 何かが爆ぜたような錯覚に陥りバランスを崩すが、彼の目には何も映らない。爆発したような痕跡もない。


 だが、次に阿東がトートを見遣った時――その表情は恐怖に引き攣る。それは、トートの傍にいた西園寺も同じことだった。



「ひ……ひいいいぃッ!?」

「きゃあああああぁ――――!!」



 それまであくまでも「人間」の姿を保っていたトートが、黒い外套を羽織る骸骨になってしまっていたからだ。

 黒い外套に、不気味に光る死神の鎌。そしてそれを携える骸。全身から放出される肌が粟立つようなオーラ。それは、古来より物語や映画などで表現されてきた死神と変わらない姿である。皮膚や頭髪は存在せず、目があったところは空洞になっていて黒い闇が広がるだけ。



「あーあ……知りませんよ、トートはこうなると情け容赦ありませんからね」

「ど、どういうことなの!? 死神さんは……? 死神さんはどうしちゃったの!?」

「別に何もおかしいことはないでしょう? これが死神の本来の姿です」



 背中に掛かる西園寺の言葉に、トイフェルは特に振り返ることもしないまま淡々とした口調で返答を向けた。彼女がどんな表情をしているのかは――別に確認などしなくても理解できる。真っ青な顔をして身体を震わせていることだろう。

 そして阿東は――こちらも顔面蒼白になりながら、覚束ない足取りで一歩、また一歩と後退していく。しかし、三歩目を踏み出し掛けたところで腰が抜けたのか、庭の上に盛大に尻もちをついて喉を引き攣らせた。



「し、しに、がみ……! バカな、こんな……こんな死神は、知らないぞ……ッ!? 今まで来た死神はこんな……!」

『どうした、先ほどまでの余裕はどこへ消えた? お前も骸を操っていただろうに、今更何を驚く?』

「な、なんだ、この声は……!? まるで頭に直接……!?」



 トートの口の部分はひとつも動いていない。阿東は頭の中に直接響くような低い声に、思わず両手で己の耳を押さえた。そして西園寺も。震える手で己の片耳を手の平で押さえ、恐怖で浅い呼吸を繰り返しながら状況を見つめるしかできない。


 そして阿東の恐怖心がピークに達した時、状況が動いた。手にしていた札を半ば半狂乱になりながら阿東が突き出すと、再び首だけのドクロが出現したのだ。先ほど同様にトートを喰らおうと、大口を開けて飛び掛かってくる。

 けれども、トートは今度は構えることもしないまま一歩一歩ゆっくりと阿東との距離を詰めていく。眼前からは猛然と差し迫るドクロ。


 しかし――次の瞬間、そのドクロはトートの身に触れる前に掻き消えてしまった。まるで最初から、そこには何もいなかったかのように。



「な……なん、だと……!? なんだ、一体何をした!?」

「愚かですねぇ……人の皮を脱ぎ捨てた今のトートは、冥界と直接繋がっているのです。あなた方の言葉で言うならと、ですね。今のトートに体当たりなんて、喜んで冥界に飛び込みに行くようなものですよ」

「そ、そんな……じゃあ、貴様が近付けば俺は……やめろっ! 来るなあぁ!!」

『心配しなくていい、誰もお前の汚れた身体を冥界に送るつもりはない』

「ひ……ッ、ひいいぃっ! うわああああぁッ!!」



 ゆっくりとした足取りで目の前まで歩いてきたトートを見上げて、阿東はその顔を恐怖一色に染め上げた。本来眼球があるはずの空洞を見つめたまま、目が離せない。まるで金縛りにでも遭ったかのように、身動きひとつ取れなくなっていた。

 顔面蒼白になりながら自分を見上げてくる阿東を見下ろし、トートは手に持つ鎌を真横に薙ぐように振り抜く。鎌の刃は阿東の胸部に叩きつけられたが、肉体が切断されることも、血が噴き出すこともなくその身をするりとすり抜けた。


 阿東は死を覚悟して身を強張らせながら目を伏せていたものの、いつまで経っても訪れない衝撃に恐る恐る目を開けて引き攣り笑いを浮かべた。

 両手の平を何とはなしに交互に見遣っても、負傷どころか痛みさえない。身体はどこも切れておらず、阿東は込み上げてくる喜びのまま声を上げた。



「な、なんだ? なんともないぞ? は、はは! ははは! 何が死神だ、このホラ吹きめ! 本当は何も力なんか持ってないんだろう? ははっ! ははははは!!」



 どうやら失敗に終わったらしい――そう判断した阿東は、恐怖から解放されたことで動くようになった身体を動かして意気揚々と立ち上がる。目の前に佇むトートを利き手で指さしながら、小馬鹿にするように声を立てて笑った。

 この死神は見かけ倒し、本当はちっとも恐ろしくなどない。阿東は確かにそう思ったのだ。

 それが最後だった。



「――がッ!? ぐ……、がふ……っ!?」



 その刹那、胸部と背中に砕けるような激痛が走り、満足に呼吸さえできなくなったのだ。

 目を見開き、口から涎を垂らしながら倒れ込む阿東を見下ろして、トートは笑う。と言っても、その顔はただの骨。表情などないのだが。



『言っただろう、お前の汚れた身体を冥界に送ったりはしないと。その肉体は人間の手で火葬され、土に還るのみ。俺が欲しいのはその魂だけだ』



 阿東にその言葉が聞こえていたかは分からないが、彼の目に最期に映ったのは――黒い外套を羽織り、不気味な鎌を携える骸骨の姿。それは、世界各地で語り継がれる死神の姿そのものだった。

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