第16話 「予想以上においしそうですね」


 拠点としているマンションの部屋に戻って、トートは固まった。


 玄関に見慣れない靴があったからだ。トートもトイフェルも基本的に土足、本来は存在しない部屋だからこそ汚れることなど気にも留めない。彼らがこの場を離れれば消えてしまう場所なのだから。


 その玄関に見慣れない靴、それも可愛らしいデザインのパンプスであることから来訪者が女性であることは容易に想像ができる。


 そして、この場を訪れる女性など――思い当たる人物は一人しかいなかった。

 あの女子高生、西園寺だ。



「あ、死神さん! おかえりなさい!」

「…………ここでなにをしている……」

「ご、ごめんなさい、勝手に上がっちゃいけないとは思ったんですけど……お夕飯、いっぱい作っちゃって。今日はお母さんもお仕事で遅くなるから、ご飯はいらないって連絡来ちゃったし……だから、あのう……」

「残飯処理を手伝えと仰るのですね」

「言い過ぎだ」



 これまた勝手なことだが、リビングのテーブルには既に料理がセッティングされている。見たところとても綺麗な出来だ、間違っても「残飯」と言われるほどのひどいレベルではない。

 トイフェルは傍らの主人をちらりと見上げて、はぁ、と小さく溜息を吐く。人間を庇い立てすることはないのに――そう言いたげに。

 西園寺は両手でしっかりと拳を作ると、やや興奮した様子で軽く上下に振ってみせる。



「わ、私、お料理にはちょっと自信があるんです!」



 トイフェルはそんな彼女を見て、またひとつ溜息を洩らした。

 取り敢えず、まずは閻魔に報告をすべくトートは僅かな逡巡の末に奥の書斎へと足を向かわせる。そんな主人を見つめてから、トイフェルは西園寺に向き直った。



「いいですか、お嬢さん。トートには食事など必要ありませんし、むしろ毒になるのです」

「ど、どどど毒?」

「以前もお伝えしましたが、トートは死神。現世の色に染まってしまうと、持っているお力を失ってしまうのです」



 トイフェルが語る言葉を西園寺が理解できているかどうかは定かではないが、その内容に彼女の表情は見る見るうちに曇っていく。



「死神とは本来、現世に関わってはならない存在。簡単にお伝えするなら、生き物の魂が現世を離れる際にその魂を冥界へ案内するのがお仕事。今回のように依頼を受けて命を刈り取ることもありますが、本来の役目はそれなのです」

「はい……」

「しかし、人間が口にするようなものを体内に取り入れることで、霊界との繋がりが徐々に薄れていってしまうのです。そうなっては、死神として存在することができなくなります」



 淡々と語られる言葉に、西園寺の頭はしゅんと落ち込んだように垂れた。

 ちらりとテーブルに目を向けてみると、そこには先ほど自分がセッティングした料理の数々が並んでいる。まだ温かく、お椀に入れた味噌汁からはほんのりと湯気が立っていた。

 一緒に食べられないことが残念なのではない、彼女の胸はちくりと痛み、締め付けられる。



「……死神さんって、可哀想なんですね……」

「かわいそう?」

「だって、ごはんってすごくおいしいんですよ。大切な人と一緒に食べると、もっとおいしいんです。なのに誰にも知られないで、魂を運ぶために存在してるなんて……寂しいじゃないですか……」



 トイフェルには、西園寺が何を言っているのかよく理解できなかった。

 けれども、余計な反発心は湧かない。彼女の表情が、まるで自分のことのように悲しそうに歪んでいたからかもしれない。



「……それは、人間が勝手に思うことです。我々には存在しない感覚ですね。――さて、せっかくご用意していただいたのですから、冷めてしまう前にわたくしが戴きましょうか」

「……えっ? 猫さんはごはん食べられるんですか?」

「食べても食べなくても変わりません、わたくしは猫ですから」



 それだけを告げると、トイフェルはぴょんと猫特有の跳躍力でテーブルの上へと飛び乗った。

 西園寺家の本日の夕飯は油揚げとわかめの味噌汁に、脂の乗ったサンマ一尾。大根おろしに程よく醤油が絡めてある。

 副菜には炒り豆腐が置かれていた。ネギやしいたけ、ちくわと一緒に炒られたそれはなんとも健康によさそうだ。



「予想以上においしそうですね」

「えへへ、お母さんがお仕事で大変なのでお料理くらいは覚えようって、小さい頃から頑張ってるんです」

「ほほう、それは感心ですね」



 いただきます、と西園寺が両手を合わせるのに倣い、トイフェルは代わりにぺこりと軽く頭を下げる。そうして、丸々と焼けたサンマにかぶりついた。


 その一方で書斎に戻ったトートは、部屋の出入り口付近で扉に背中を預けてもたれ掛かっていた。

 間取りはそれぞれの部屋がわりと広く設けられているが、それでも家の中だ。彼らの会話が聞こえていないはずはない。



「(寂しい、か……現世を生きる人間は難解な感情を持っているようだな……)」



 トートには、常にトイフェルがいてくれた。ゆえに死神になってから「寂しい」などと感じたことはないし、どういう感覚なのかもよく分からなかった。

 そして次にトートが気になったのは、部屋の中の状態だ。


 散らかり放題だった書斎は床に散乱していた書類の全てが机の上に纏められており、綺麗に整理整頓がなされていた。

 出掛ける時には確かに足の踏み場もないほどに散らかっていたはず。だが、それが綺麗になっているということは――



「……」



 十中八九、西園寺が片付けたのだろう。

 机まで歩み寄ると、積まれた書類の束を手に取る。あまりにも散らかり過ぎて見つけることさえ困難だった書類がいくつか目に留まった。



『死神さんのお手伝いがしたいんです!』



 人間に手伝わせるということは、人殺しに加担させるということだ。トートがそれを善しとするはずがない。彼女は人間で、これからたくさんの未来が待っているのだから。


 リビングからは依然として、西園寺とトイフェルの楽しそうなやり取りが聞こえてくる。

 トートは椅子に腰を下ろすと、その声を聞きながら複雑そうに眉根を寄せた。

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