第15話 「お前にその言葉を口にする資格はない」


 逃げるように会社を後にした城ヶ崎は両腕でカバンを抱き締め、ふらふらと覚束ない足取りで駅へとやってきた。

 辺りには目的地へと向かうために忙しなく足を動かす通行人たちの姿。その中の誰もが、城ヶ崎の事情など知らないし、知ったところで言葉だけの同情くらいしか寄越してこないだろう。


 城ヶ崎は行く先を失った足を一歩一歩、ゆっくりと先へ進めていく。


 しかし、改札を通り駅のホームへ降りようと階段の傍に歩み寄った時。

 一歩足を踏み下ろした矢先、凍った路面でも踏み付けてしまったかのように足元が大きく滑ったのだ。ひ、と思った時には既に遅く、城ヶ崎の身は背中から思い切り階段に叩きつけられ、ゴロゴロと転がり落ちていく。

 遠くなっていく意識の中、彼の耳に届いたのは周囲にいた通行人たちの悲鳴だけだった。


 階段は特に濡れてなどいなかった。

 もちろん、何かが落ちていたということもない。あれば足を置く時に城ヶ崎本人が気付いていただろう。



「いやぁ、相変わらずお見事ですねぇ」



 階段を下りた先には、黒い毛を持つ猫――トイフェルがおすわりをした状態でふさふさの尾を優雅に揺らしていた。そんな猫が見上げるのは、傍らに佇む主だ。


 トートが己の力を行使したことで、城ヶ崎は呆気なく階段から転げ落ちる羽目になってしまった。

 思い切り打ち付けた身は階段の一番下に無造作に転がり、後頭部からは大量の出血がある。辺りは騒然となり、通行人の数人がスマホを耳に押し当てて救急車や警察に連絡を入れているようだった。


 けれども、トートの目はその場に居合わせる人間とは異なり、うっすらと透けた身を持つ城ヶ崎の姿を捉えていた。それは彼の「魂」だ。

 それだけで、肉体から既に魂が抜け出てしまっていることが容易に分かる。



「な……なんだ? 俺は一体どうしたんだ?」



 城ヶ崎本人は、何が起きたのか全く分かっていないようだった。手ぶらになった己の両手を見下ろして、不思議そうな顔で辺りを忙しなく見回している。

 何があった、一体何の騒ぎなんだ――そう言いたげに。


 トートとトイフェルは暫しその様子を見守っていたが、程なくして数歩彼の元に歩み寄ると静かに城ヶ崎の背中に声を掛けた。



「お前は死んだんだ、城ヶ崎宏彦じょうがさきひろひこ。たった今、駅の階段から落ちて、な」

「な……ッなんだって……? お前は一体誰だ、何者だ!? 俺が死んだってんなら、なんでお前と話ができるんだよ!?」



 城ヶ崎はトートの言葉に弾かれたように振り返ると、信じられないとばかりの表情で力なく頭を横に振った。これが生身の状態であれば、恐らく顔など血の気が引いて真っ青になっていることだろう。



「簡単なことだ、俺は死神だからな。お前の魂を冥界へ送り届けるのが今の俺の仕事だ」

「へッ! なら尻尾巻いて帰りやがれ! 俺はまだ死ぬ予定なんかないんだ、さっさと戻せよ!!」

「お前の魂と肉体の繋がりは既に俺が遮断した。どれだけ生き返りたいと願っても、あの肉体は既にお前とは何の関係もない肉の塊に過ぎない」



 淡々と告げるトートの手には、彼の身の丈よりも大きな鎌がひとつ。この死神の鎌で魂と肉体の繋がりを断ち切ることで、生き物は文字通り完全な「死」を迎えることになる。

 城ヶ崎は既にその繋がりを鎌によって斬られてしまった後なのだ。


 しかし、城ヶ崎は暫し歯を喰いしばってトートを睨みつけていたが、やがて「へっ」と息を吐き出して笑うなり、ゆうるりと双肩を竦めてみせた。



「……っはは、やれやれ。どこのサイコ野郎かと思ったが……こりゃマジでヤバい奴っぽいな。悪ィけど頭おかしい奴に構ってられるだけヒマじゃねーんだわ」

「おやおや、無職になりたてだと言うのにお忙しいのですか?」



 付き合い切れないとばかりの様子を見せる城ヶ崎に、トイフェルは尾を揺らしながら小首を捻る。すると、自分が職を失ったばかりだというのを知っていることか、それとも猫が人語を喋ったことに対してかは定かではないものの――城ヶ崎はギョッと目を見開いて数歩後退った。

 だが、その反応がどれに対してなのかはトイフェルにとってはどうでもいいこと。四足でゆったりと歩み寄りながら言葉を続ける。



「つい先ほどクビを言い渡されたばかりではありませんか、何かやることがあるとでも言うのです?」

「な、なんでそれを……!? お、俺はあの裏切者どもを懲らしめるために、これから弁護士のところに行くんだよ! 忙しいんだ、邪魔するんじゃねぇ!!」



 現在の自分の状況を言い当てられて、城ヶ崎はまた一歩後退していく。

 しかし、固く拳を握り締めると眉を吊り上げて怒声を張り上げてきた。どうやら会社と元部下たちへの報復を考えていたらしい。

 城ヶ崎のその言葉を聞くなり、トートは不愉快そうに眉を寄せて双眸を細め遣る。そうして鎌を担いだままひとつ言葉を向けた。



「お前がクビになるように仕向けたのも、こうして階段から落として死なせたのも全て俺だ。彼らを憎むのはお門違いだな」

「な……ッ、なんだと……!? て、てめぇ! それがマジなら、なんてことしてくれやがったんだ!!」



 トートの言葉に城ヶ崎は大きく目を見開くと、次の瞬間――表情に怒りを乗せながらトイフェルの脇をすり抜け大股で歩み寄ってきた。胸倉を掴み上げようというのか、無骨な手を伸ばしてはきたものの、その手はトートが羽織る黒い外套に触れるよりも前にピタリと止まる。

 それは城ヶ崎が止めたわけではない、彼の斜め後方にいるトイフェルの仕業だ。金色の猫目を煌々と輝かせながら、城ヶ崎の魂に強力な金縛りをかけたのである。



「ぐ……ッ、がが……っ!?」

「汚らしい手でわたくしの主人に触らないでもらえますか。本来ならばこのまま引き裂いてやりたいところです」



 城ヶ崎は既に指先ひとつ動かすことができなくなっていた。

 それどころか、まるで引きずられるようにして徐々にトートから引き離されていく。



「ひぃっ……! こ、このバケモノども!」

「周りの者たちにとってはお前もそのバケモノの一人だ、既に今のお前は巷で言うなのだからな」

「は、離せ! 俺を戻せええぇ!!」

「今までお前が繰り返してきた行為を閻魔は見過ごしたりはしない、これまでのことを地獄でゆっくりと反省するんだな」



 そこへ、ストレッチャーを持った救急隊が駆けつけてきた。

 運び出されていく自分の肉体に、城ヶ崎は身動きも取れないまま必死に手を伸ばそうとする。だが、周囲に今の城ヶ崎の姿を捉えることなどできない。彼は既に魂だけの存在なのだから。



「ま……待って……待ってくれ、俺は……俺はここにいるんだ……! 俺はまだ……ここにいるんだああぁ……ッ!」



 そんな言葉が救急隊に届くはずもなく、無情にも城ヶ崎の肉体はそのまま外へと運び出されていった。遠くなっていく救急隊の背中を見つめて泣きたくなったが、魂の身ゆえにかそれさえできない。涙など一滴たりとも出てこなかった。

 残されるのは、言葉で表現しきれないほどの大きな絶望だけ。


 トートは肩に担いでいた鎌を片手でひと回しすると、氷のように冷たい双眸で城ヶ崎を睨み据える。

 そうして、男の足元の床を鎌で思い切り叩いた。

 すると、床が眩い光に包まれ――人一人を軽く呑み込めるほどの大きな丸い穴が出現したのだ。それを見て城ヶ崎の口からは「ひぃっ」と完全に怯えきった声が洩れる。



「なんで……どうして俺が、こんな目に……ッ!」

「お前は過度のパワハラ行為を働き数人を死に至らしめた、また同じことを繰り返さぬよう閻魔からお前の魂を回収するよう命令が下ったのだ」

「そ……そんな……! 誤解だ、助けてくれ! 俺はそんなことは――!」

、二度も言われぬと自らの過ちも認められんのか?」



 ――証拠はあるのですよ。


 それはつい先ほど、社長の秘書に言われたばかりの言葉だ。

 トートの言葉でそれを思い出したらしく、ほんの一瞬のみ城ヶ崎の顔には鬼のような、怒りと憎悪に満ちた表情が滲む。

 しかし、足元に出現した穴に引きずり込まれ始めると、再び怯えたような顔に戻り必死に助けを請う。



「や、やめてくれ! やめてくれええぇ!」

「それが……今までお前に虐げられてきた者たちの叫びだ。お前の行為に対して、彼らがどれほどやめてくれと切実に願っただろうな」

「そ……それ、は……!」

「お前にその言葉を口にする資格はない。今度はお前が、地獄の者たちに虐げてもらう番だ」



 トートは吐き捨てるようにそう言葉を投げつけると、改めて頭上で鎌を一度回し――刃を寝かせた状態で城ヶ崎の魂を穴の中へ一気に殴り落とした。



「ぎいぃやあああぁッ!!」



 すると城ヶ崎の口からは引き攣ったような、恐怖に染まりきった声が洩れ――程なくして完全に聞こえなくなった。ゆっくりと閉じていく穴をトートは暫し見つめていたが、トイフェルが傍らに戻ってくると言葉もなく静かに踵を返す。


 これで仕事は終了だ、またすぐに次のターゲットを定める必要がある。


 ひとつ、またひとつと魂を冥界へ届けていくことで少しでも現世の人間たちが生き易くなれば――そうは思ったが、そんなものは無駄な願いだと即座に頭から追い出した。

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