第14話 「信憑性があるのはどちらです?」


「あなた、昨日何時に帰ってきたの? お夕飯いらないなら連絡してくれたら……」

「うるさい! 毎日お前らのために汗水たらして仕事してる亭主に、朝から口喧しく言うな!」

「だって、作ってなかったら作ってないで文句言うじゃないの!」

「お前は主婦だ、主婦は旦那が心地好く働くために尽くすのが普通だろうがッ! 感謝こそされても、文句を言われる筋合いなどない!!」



 その日、朝から妻のお小言を聞かされて城ヶ崎は大層不機嫌だった。


 父親の怒声に叩き起こされたと思われる一人娘が眠そうに目を擦りながらリビングに姿を見せたが、朝も早くから勝手な言い分で母を怒鳴る父を見て、彼女の表情は嫌悪に歪む。隠すでもないその表情に流石の城ヶ崎も一度は怯んだが、それも一瞬のこと。

 コーヒーを一気に呷ると、まるで逃げるようにリビングを飛び出して、さっさと玄関から出ていった。


 妻はそんな夫を見送った後、手提げカバンから財布を取り出すと、お札入れの中に折り畳んで入れておいた一枚の紙を取り出す。

 そっと開かれた紙面には緑色で「離婚届」の文字が印刷されていた。


 もうついていけない、一緒にいられない。

 妻はそう思いながら娘を振り返ると、愛娘はうんうんと言葉もなく何度も頷いた。



 * * *



 不機嫌な城ヶ崎が会社へ行くと、ちょうど林が出勤してきたところだった。

 城ヶ崎にとって、憂さ晴らしには最適な――最適すぎる人材だ。この鬱憤をどのように晴らしてやろうか、そう考えながら腰掛けたばかりの椅子から立ち上がる。


 林をイビる、そして鬱憤を晴らす。

 見世物にして、周囲に自分の力を見せつける。

 これまでにもいびり倒してきた者は何人もいたが、林は本当に城ヶ崎が喜ぶとてもいい反応をするのだ。


 それを考えるだけで、城ヶ崎の心は歪んだ快楽で満たされていく。

 自分はこの課の部長で、誰も自分には逆らえない。自分の好きなようにできる自由な場所。ここでは自分が王様なのだ。



「城ヶ崎さん」



 しかし、今日はそうはいかなかった。

 この課のマドンナと言える、あの茜がその背中に声を掛けたからだ。

 「部長」ではなく「城ヶ崎さん」と呼ばれたことに、当の城ヶ崎本人は怪訝そうな面持ちで彼女を振り返った。



「茜ちゃん、どうしたんだい? いつもなら部長~って呼んでくれるのに……」

「まだ社長のところへは行かれていないのですか?」

「えっ、社長?」

「はい、机に呼び出し状を置いておいたはずですよ。社長がお呼びなので、出社されたら社長室へ伺うようにって」



 茜の言葉に城ヶ崎は慌てて自分のデスクに戻ると、そこに置きっぱなしになっていたカバンを脇に除けた。今朝は不機嫌を引きずってきたため、満足にデスクの上の確認もしないままだ。


 除けたカバンの下には茜が言っていた通りの書類が置いてあった。

 社長が何の用だろう、もしかして更なる昇進の話だろうか――城ヶ崎はそんな想像を膨らませて表情を弛める。


 ――と、不意にオフィス内が騒然とし始めたのに気付き、城ヶ崎は妄想の世界から意識を引き戻した。



「しゃッ、社長!? も、申し訳ございません、今から伺おうと思っていたところでございます!」



 オフィスに、今まさに社長が顔を出したのだ。

 突然の訪問に社員たちは席を立ち慌てて頭を下げようとはしたが、人の好さそうな優しい風貌をした社長はにこにこと笑ったまま、そんな彼らを手で制す。構わないから仕事をしていなさい、とでも言うように。

 城ヶ崎は大慌てで社長の元へ駆け寄ると、両手をそれぞれ太股の横にぴったりと添えて腰から斜め四十五度に頭を下げた。



「ああ、城ヶ崎くん。おはよう」

「はっ、おはようございます!!」

「きみ、もう帰っていいよ」



 まるで挨拶の延長のように告げられた言葉に、城ヶ崎は暫しその意味を理解できなかった。

 もう帰っていい――社長は至極当然のようにそう告げた。

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔で城ヶ崎が頭を上げると、つい今し方まで優しそうに微笑んでいた社長の顔は一変――怒りをありありと滲ませた顔で見下ろしてきていたのだ。



「きみがひどいパワハラを働いていると聞いてね、捨て置けんと思ったんだよ」

「パ、パワハラですって!? 誰がそんなことを!」

「この課では自殺者が出たり、退職した末に元社員が同じく命を絶ったりと色々あった。だが、やっと分かったよ。きみが原因だったんだな」

「ご……誤解でございます! 私は決してそのような――!」



 城ヶ崎は、脂ぎった額に冷や汗が滲むのを感じた。背筋を冷たいものが伝い、軽い眩暈さえする。

 しかし、その訴えは社長の傍らに控えていた秘書が無言で取り出したスマホによって無意味なものと化した。

 スマホから漏れてきた音は――一昨日の一連の騒動。



「証拠はあるのですよ」



 秘書はそれだけを冷たくピシャリと言い放ち、手にしたスマホの画面を城ヶ崎の目に留まるように見せてきた。

 すると、そこには――林の頭を靴裏でグリグリと踏み付けながら、彼を罵倒する城ヶ崎の姿が動画モードで再生されていたのだ。角度的に間違いなく、このオフィスの誰かが撮影したもの。

 動画には城ヶ崎が林を怒鳴り付け、土下座をして踏み付けるまでがたっぷりと記録されていた。



「そ……そんな、そんなはずは……! だ、誰かの陰謀ですよ! この課の誰かが私を陥れようとしているだけです!」

ではなく、では?」

「は……?」

「この課の方々の勇気ある告発のお陰で今回の件が露見したのです。課の方々の共通の告発とこの動画……対するあなたの主張。信憑性があるのはどちらです?」



 秘書の言葉に、城ヶ崎は下唇を噛み締めながら悔しそうに表情を歪ませる。

 社長は「ふう」と疲れたように溜息を洩らすと、静かに口を開いた。城ヶ崎にとっては、まるで死刑宣告だ。



「城ヶ崎くん、改めて言うよ。もう来なくていい、きみは今日限りでクビだ。無論、逆恨みでこの課の子たちに何かをすればこちらも相応の対応をさせてもらうから、そのつもりで。もちろんこの動画は警察にも提出させてもらうよ」



 社長はそれだけを告げると、静かに踵を返した。

 「今日までありがとう」と最後に告げてからオフィスを出て行ったが――恐らくその言葉は、城ヶ崎には届いていない。

 社員の前でクビを言い渡された城ヶ崎は完全に思考が止まり、ただただ呆然と佇んでいた。



「……トート、何をなさったのです?」



 そのやり取りを一部始終眺めていたトイフェルは、傍らに立つ主人を見上げる。

 当のトートは呆然とする林の傍らに佇んで彼の具合を窺っていたが、相棒猫の問い掛けに視線のみを城ヶ崎に向けて静かに返答を返した。



「特別なことは何もしていない。ここの者たちが林というこの男を助けてやりたいと思っていたから、課の者たちの心に訴えかけて行動する勇気を与えただけだ」

「行動する勇気?」

「単独での告発でクビになることが恐ろしいのなら、全員で上に訴えかければ動くだろうと……な。課の全員で社長に訴えかけた結果だ、まさか動画まで撮ってあるとは思わなかったが」



 トートの言葉にトイフェルはにこりと笑うように目を細めて、何度も頷いた。依然として呆然とする林を見上げていると、その傍らには茜をはじめとする多くの社員が駆け寄ってくる。

 林は愛されているのだと、そう実感した。そうでもなければ、証拠となる動画など撮影しておかないだろう。



「さあ行くぞ、処理の時間だ」

「はい、トート」



 そんな光景を後目に、トートは宙に鎌を出現させる。

 仕事はこれで終わりではない、ここからが本番だ。和気藹々とし始めるオフィスを後にして、トートとトイフェルは駅方面へと足を向けた。

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