第12話 「それは一種のダジャレ――」
トートは、穏やかな空気に包まれるオフィス内で安堵にも似た息を洩らす。
場の空気を悪くさせていた城ヶ崎は十七時を回るなり、早々に荷物を纏めて弾むような足取りで会社を出て行った。部下に仕事を全て押し付けて自分は定時上がり――なんとも不愉快な話だ。
その仕事を押し付けられたのは当然、激しい叱責を受けていた林なのだが――彼の傍には一際目を惹く女性社員が寄り添っていた。
「林くん、そっち貸して」
「は、はい。いつもすみません、
「いいのよ、私にはこのくらいしかできないし……ごめんね、助けてあげられなくて……」
対する茜先輩と呼ばれた女性社員は二十代後半か林と同い年くらいに見える。栗毛色の艶やかなロングストレートの髪は、なんとも柔らかそうだ。
しかし、とてもいい雰囲気である。茜は恐らく林が好きなのだろう、時折彼の方を見て優しく微笑んでいる。当の林は全く気付いていないようだが、彼も彼女を意識していることは明白だ。
指示された書類を渡す時以外は、満足に茜の方を見ることもできずにいるし、その顔はほんのりと赤い。
「(……うむ。この場に居続けるのはなんとなく野暮な気がするな……)」
トートの姿は彼らには見えていないのだが、まるで覗き見をしているような気分――否、これはただの覗きだ。
林の自宅での生活もトートは気になっているものの、彼が帰路に着くまでにはまだかかるだろう。
あのような激しい責めを受けた上に大勢の前で土下座など、決していい気分にはならない。林の自尊心はボロボロのはずだ。
そんな日々を送っていると、人間の心は病んでいくもの。林は自宅ではどうなのだろうか、大丈夫なのだろうか――純粋にそれが心配だった。
「(人間が罹る病の中に、うつ病というものがあるが……あれに罹ると突発的に命を絶ってしまうことがある、この男は大丈夫だろうか)」
幸いにも、この会社は城ヶ崎さえいなければ林にとって悪い環境ではないようだ。
誰もが皆、クビになるのが怖くて何も言えずにいるが、他の社員は男性女性問わず林のことを気の毒に思う者ばかり。本音では助けてやりたいのだろうが、部長に逆らえばクビにされる。そのせいで何もできないのだ。
やはり、閻魔が目を付けたように害なのは城ヶ崎宏彦――そうとしか言えなかった。
* * *
「トイフェル、奴はどうだ?」
「居酒屋で飲んだくれてますよ」
城ヶ崎を尾行していたトイフェルを追い、トートは繁華街で相棒猫と合流を果たした。ココ、と猫の手で指し示す店は古めかしい
次にカウンター席を見てみると、城ヶ崎はそこにいた。彼はここでも、客の女性に執拗に絡んでいるようだった。
「調べてみましたが、城ヶ崎は結婚二十二年、子供は娘さんが一人います。しかし、奥さんとも娘さんとも家での会話はあまりなく、家庭内は冷え切っているようですね」
「ふむ」
「そういった寂しさからパワハラやセクハラに走っている可能性もありますが……」
トイフェルから告げられる情報を頭の中で整理していきながら、トートは足元の相棒猫を見下ろす。
「……だからと言って、あのような行為が許されていいとは思えん。それに閻魔が目を付けたということは、あの男は今後も同じことを繰り返す。……既に被害者も数人出ているわけだからな」
「はい、トート」
「いくら冷え切っていようと妻子持ちというのが引っ掛かるが……仕方ないな」
どのような者であれ、その背景にはほぼ確実に家族や友人などの大切な者が存在する。許せないから、言われたから始末する――そう単純に考えられるほどトートは冷徹ではないのだ。
ターゲットの背景や立場を知った上で、どうするかを判断する。時に閻魔の命令に逆らうことになろうとも、トートはそれだけは決して譲らない。そうでなければ、命を司る死神など――人間の間で噂される、ただの恐ろしい存在になり果ててしまう。
「しかし、トートはお優しいですね。わたくしなら早々に始末をつけてしまうものですが」
「……ターゲットの死を悲しむ者がいることを知って、初めて命の重みを知ることができるのだ。そうしなければ、いつかその尊さを忘れてしまう気がする」
「ほっほう、トートが尊さを忘れるですって? それは一種のダジャレ――」
「帰るぞ」
トイフェルは城ヶ崎のことを心底嫌っているようだ。オフィスで様子を見ていた時からだが、男を見る目が非常に冷たい。そんな中に返った主人の言葉に何を思ったのか、一瞬のみ神妙な表情を浮かべて――と言っても猫ゆえに表情はないのだが、大人しく閉口した後、すぐに茶化すように言葉を投げかけた。
しかし、トートはそんな相棒猫を改めて見下ろしてから早々に踵を返す。
「あ、あら? 処理はなさらないのですか?」
「林というあの男の様子も見ておきたい」
「承知しました」
トイフェルは慌てたようにその後を追いかけ、トートは拠点としている高層マンションへ帰宅すべく足先を向けた。
西園寺は流石にもう帰っただろう、もう関わってこなければいい。そう思いながら。
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