02.パワハラ男の魂 -城ヶ崎 宏彦-
第10話 「それはストーカーと言うんじゃないのか」
明かりが落ちた薄暗いアパートの一室に、すすり泣く声がひとつ。
それは、男性のものだ。
しわくちゃになった一枚の紙切れに、男は震える手で握ったペン先を走らせていく。上手く力が入らないのか、ペン先が綴る文字は決して綺麗なものとは言えない。ミミズが走ったような字だ。
ぽたりぽたりと、次から次に涙が零れ落ちては、紙を湿らせていく。
そうして程なくして傍らにペンを置くと男は静かに立ち上がり、最後に片腕で涙を拭った。
「う……ッ、うぅ……父ちゃん、母ちゃん……っ、ごめん、ごめんよ……でも俺、もう無理なんだ……」
震える声でそれだけを呟くと、男は近くに置いてあった丸椅子の上に静かに乗り上げる。
次にその手が伸ばされた先には――天井から吊るされた縄。垂れ下がる先は頭ひとつ分が通るほどの輪っかになっている。
男は身を震わせながら静かに輪に頭を通すと、涙と鼻水、よだれを垂らしながら最後に薄く笑った。
それは苦痛から解放される喜びか、死を間際にした堪え切れない恐怖だったかは――本人にしか分からない。
意を決したように踵で椅子を後方に蹴飛ばすと、重力に倣い全身が落ちる。それと共に首に縄が食い込んだ。
* * *
「お、おはようございます! 死神さん!」
「……」
玄関戸をゴンゴンと叩くけたたましい音に叩き起こされて、トートは何事かと億劫そうに玄関まで足を運び、扉を押し開けて固まった。
その先にいたのは、先日「関わらない方がいい」とトイフェルが釘を刺したはずの少女、西園寺だったからだ。
トートはそこで不可解そうな表情を滲ませると、玄関から身を乗り出して辺りを見回した。
トートは死神だ、普通の人間が彼の姿を視認することは難しい。
そのため、この二十階建ての高層マンションの
この場所は閻魔大王の霊力で造られた特殊な空間であり、人間は認識することさえ不可能な領域のはず。だというのに、西園寺は楽々とこの場を探し当ててしまっていた。
一体なぜ――トートはそう思って咄嗟に辺りを見回したのだ。
「お前……どうやってこの場所を……」
「じ、実は昨日の夜、死神さんが二十階の壁に消えていくのを見てしまって……それで同じことをしてみたらここに着きました」
「人間の言葉でそれはストーカーと言うんじゃないのか」
「う、うぅ……ご、ごめんなさい……」
あり得ない――トートは真っ先にそう思った。
普通の人間では、例えトートと同じことをしたとしても単純に壁に激突するだけだ。彼のようにすり抜けてこの場所まで行き着くなど人間には無理なのである。
しかし、この目の前の少女は死神の姿を視認できるだけでなく、その住処にまでこうしてやってきている。どういうことなのかとトートは頭を抱えたくなった。
「とにかく帰れ、ここはお前のような人間が来る場所じゃ――」
「あのっ! 私、死神さんのお手伝いがしたいんです!」
「その耳は飾り物か、それとも絶望的なまでに耳が遠いのか」
帰れと言ったのに、手伝いがしたいなどと言い出した。
どう追い返せばいいかと、トートが疲弊しきった頭で考え始めた時。不意にリビングからトイフェルが大慌てで飛び出してきた。
「トート、大変です! 閻魔大王から連絡が来てるんですが、あの方ものすごくお怒りですよ!」
「また面倒な……何かあったのか?」
「昨晩、また予定外の魂が冥界に行ってしまったそうです。それで、早くターゲットの魂をこちらに送れと……」
「……どのターゲットだ、正直数が多くて把握しきれていない」
西園寺はトートとトイフェルのやり取りに、目をまん丸くさせて不思議そうに瞬きを繰り返していた。
* * *
「――
「はい、そうです。都内にある大手企業の部長なんですが、過剰なパワハラで精神を病む社員が非常に多いのだとか。そのせいで自殺をしてしまう人もいるようです」
「……ぱわはら?」
「パワーハラスメント。例外もありますが……簡単に言いますと立場を利用して社員をいびる行為です」
「またいじめ関連か、いい大人がみっともないことだな」
リビングにあるテレビには、ニュース画面が映し出されていた。
内容は、都内のアパートの一室で一人の男性が首を吊って亡くなっている――ということが報道されているらしい。画面の中ではリポーターが痛ましい表情を浮かべながら、状況の詳細を視聴者に分かりやすく噛み砕いて説明していた。
次のターゲットは、これでもう決まりだ。
「つ、次は……この人を殺すんですか?」
「お前は帰れと言っただろう」
「だ、だめです、私は死神さんのお手伝いがしたいんです!」
リビングには、当たり前のように西園寺も入り込んできていた。帰れと何度言っても「お手伝いがしたい」の一点張りで取り付く島もない。
トートとトイフェルは、次のターゲットの情報を集めに行く必要がある。あまり彼女に構っていられる時間はないのだ。ただでさえ多忙なトートがこの場所に留まれるのは三ヵ月と決まっているのだから。
重苦しい溜息を零すと、トートは力なく頭を左右に振り――それ以上は特に何も言わずにトイフェルを伴って玄関へと足を向けた。放っておけば帰るだろうと、そう願って。
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