皇妃ユーディット

 皇妃様から向けられる視線が痛い。オレには皇帝に対する気持ちなんてわずか一ミリもないけど、あの光景を見せられた彼女にしてみればそんなもんまったく関係ないだろう。いつの間にか不倫相手にされちまって、どうすりゃいいんだ。


 ゆっくりとこちらに歩いてくる彼女の気配に、知らず知らずのうちに顔が下を向いていく。非常に気まずい。服を破られた影響もあるんだけど、全身が冷えていくようだった。


 ……これ、怒られる前に謝った方がいいやつ?

 でも「そんな気はないんです」とか言ったら余計に嫌味ったらしく聞こえるかもしれない。憎い相手の言動はとにかく悪い方に受け取るもんなんだよ、人間ってのは。

 それに、相手はこの帝国の皇妃様だぞ。不倫相手な上に、半裸に近い格好って、もうとにかく無礼しかない状況では何を言っても聞いてもらえない気がする。



「あんた……」



 正面まで歩み寄ってきた彼女が静かに口を開く。どんな表情をしてるのか、恐ろしくて顔さえ上げられなかった。この国にいるってことは、彼女も凡人オルディ以上の人間なんだ、ちょっとでも余計なことを言ったらぶっ飛ばされるかもしれない。

 次の瞬間、両肩を強く掴まれて反射的に身が強張った。



「――すっごいじゃないか!」

「……え?」



 訪れるだろう衝撃に備えて固く目を伏せたのも束の間、予想に反して向けられたのは――なぜだか異様に嬉しそうな声だった。思わず顔を上げると、彼女はその顔に憤りではなく満面の笑みを乗せている。目なんて子供みたいにキラキラと輝いていた。とてもじゃないけど、夫の不倫を目の当たりにした妻の反応とは思えない。


 状況を上手く整理できないでいるオレをよそに、彼女は淑やかそうな印象を派手に裏切って高笑いなぞ上げ始めた。



「見たかい、今のあいつのあの顔! ああ気分がいいよ、最高だね!」

「……え、あの。怒ってるんじゃ……ないん、です、か?」

「怒る? あたしが?」

「だ、だって、皇帝って旦那さんじゃ……」



 なんだ、なんだよ、この反応は。仕種だけじゃなくて口調も皇妃様っぽくないぞ。もっとこう、厳粛な感じを想像してたのに、目の前にいる彼女はまるでどこかのおばちゃんみたいだ。いや、見た感じ年齢的にはオレとそんなに変わらないと思うけど。

 もっともな疑問を投げかけると、彼女は隠すでもなくものすごく嫌そうな顔をした。



「ふん、形だけのね。あたしが皇帝を好きになったことなんて、ほんの一瞬もないよ」



 吐き捨てるように呟かれた言葉には、様々な感情が籠っているようだった。……どうやら、ごく普通の夫婦……っていうわけじゃなくて、事情がありそうだ。



 * * *



「ごめんね、シファさん。こんな時間に呼び出しちまって」

「いいんですよ。はい、これ。頼まれたお洋服です」



 それから、皇妃様は自分付きの侍女を呼んで代わりの服を用意してくれた。服を持ってきてくれた侍女のお姉さん――たぶん三十代半ばくらいの人も、これまたかなりの美人だった。おっとりとした感じの可愛らしい雰囲気を纏っていて、思わずホッとする。名前はシファさんと言うらしい。

 皇妃様は服を受け取ると、寝台に腰掛けるオレの前まで持ってきてくれた。


 よかった、ほとんど半裸に近い状態のまま美女二人に囲まれるなんて、あまりにも居たたまれないからな。シファさんが丁寧に「お手伝いしましょうか?」なんて言ってくれたけど、さすがに恥ずかしいから遠慮させてもらった。

 替えの服も上質なシルクで作られていて、ちょっと気が引ける。こんないい素材の服なんて着たことないや。



「はい、これ。ごめんよ、あいつが破っちまって」

「あ、ああ、いえ……それで、さっきのその――」



 替えの服に着替えていきながら、ついさっき皇妃様に聞いた話を頭の中で反芻する。



 皇妃様――ユーディットは元々この帝国の出身だけど、生まれついての貴族だとかではなく、ごく普通の町娘だったらしい。それが、まじない師の言う「選ばれし女と結ばれれば優秀な子が産まれる」なんていう話を皇帝が信じてしまい、まじないによって選ばれたユーディットは、婚約者がいたにもかかわらず強引に皇帝の花嫁にされたそうだ。……かわいそうすぎる、そりゃ皇帝をほんの一瞬たりとも好きになれないのも当たり前だろう。


 皇妃様は隣に腰掛けると、疲れたように「ふう」とひとつため息を洩らした。



皇帝あいつはね、元からこの世界を征服するつもりでいたんだよ。それが、今回グレイスやカースの力を手に入れたことで余計に勢いがついちまった。何とか思い直すように訴えかけたんだけど、あの通りさ」

「じゃあ、さっき言い合ってたのは……オレてっきり夫婦間の問題かとばかり……」

「なに、あたしがヤキモチ妬いて言い合ってたと思ったのかい!? はははっ、想像力豊かだねぇ!」

「だ、だって、あの状況だし……」



 そういう事情を何も知らなかったわけだし……まあ、オレの思ったような感じじゃなくてよかったよ。皇妃様の事情を思うと単純に「よかった」とは言えないけどさ。

 皇妃様はひと頻り笑うと、静かに窓の方へと視線を投げる。その傍らではシファさんが心配そうな表情を浮かべていた。



「……ねえ、リーヴェ。反抗的な者を言いなりにするのに一番いい方法は何か、知ってるかい?」

「え?」

「この帝都に連れてこられたグレイスたちの中にもね、さっきのあんたみたいに皇帝に刃向かった子が何人もいたよ。……でも、みんな力でねじ伏せられて、抱き潰された」



 帝国に連れて行かれたグレイスの数が多かったのは聞いて知ってるけど、そのグレイス全員が皇帝に力を与える――好意を抱くっていうのは疑問だった。オレだったら無理矢理に連れて行かれたのに、その大将を好きになるなんて絶対にごめんだ。でも、彼女の話を聞いていると、なんとなくわかったような気がした。ここに連れてこられたグレイスたちは、きっと……。



「痛いことを我慢できる人間は、一定数存在する。でも……気持ちのいいことを我慢できる生き物はそうそういないんだよ」



 反抗的な者を言いなりにする方法の答えは、拷問だ。拷問は拷問でも、痛みじゃなく気持ちいい方の。彼女の言うように、生き物は気持ちいいことが大好きだ。オレだって、さっきの神竜の紋章ってのをヴァージャが勝手に刻んでおいてくれなかったらどうなってたか。今更ながらゾッとする。



「あんなケダモノのような男が世界を征服するだなんて、冗談じゃないんだ。リーヴェ、あんたセプテントリオンなんだろう? 再臨したっていう神さまのこと、知ってるんだよね? ……神さまなら、皇帝を何とかしてくれるかな?」



 弾かれたようにこちらを振り返った彼女は、今にも泣き出してしまいそうだった。

 ……皇妃様はきっと、グレイスやカースのことでずっと胸を痛めてきたんだろう。目の前で蹂躙される者たちを助けられなかったことを、悔やんでいるのかもしれない。



「……何とかしてくれるよ。神さまは――ヴァージャは、人間と友達になりたい神さまだから」



 ヴァージャが誰かに負ける姿なんて、やっぱり想像できない。オレがあいつを一番に信じなくてどうするんだ。ヴァージャなら、皇帝だってきっと倒せるはずだ。

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