最終章:想いの力

神竜の紋章

 どこかから、誰かの声が聞こえる。

 この声には聞き覚えがない。覚えはないけど、耳に心地好い声。子供――……の声にも聞こえるけど、これはたぶん女性だ。どうしたことか、誰かと言い争ってるみたいだった。


 じわじわと浮上していく意識に抗うことなく目を開けると、異様に高い天井が視界に映り込む。夜なのか、それともカーテンが閉ざされているのか、部屋の中は暗くて明かりがない。視線だけを動かして周囲の様子を見てみるけど、右も左も、もっと言うなら天井もまったく見覚えのないものばかりだった。



「……!」



 ――そうだ、ヴァージャは、博士は……。

 横になっていた身を慌てて起こすと、後頭部に強めの痛みが走った。……そういえば、あの時……ヴァージャと博士の安否を確認する間もなく、後ろから何かに殴られたんだ。薄れる意識の中で確認できた相手は……ティラじゃなくて、リュゼだった。あいつが来たってことは、やり合ってたはずのマックはやられたんだろうか。くそ、状況が何もわからない。


 ゆっくりと引いていく痛みに小さく深呼吸をしてから、改めて部屋の中を見回してみる。目も次第に暗がりに慣れてきたらしく、薄暗い中でも視界からいくつもの情報が拾えた。


 とにかく、何ひとつ覚えのない場所だ。部屋に飾られてる調度品の数々は豪華なものばかりで、寝台のシーツは、今まで触れたことさえない上質な絹でできていた。きっと窓辺のカーテンだってそうだろう。


 寝台を降りて窓辺に寄り、カーテンを少しだけ開けてみる。そこから見えたものは――まるで巨大な宝石箱を覗いているような光景だった。

 夜の闇の中、家々の明かりが所狭しと散らばっている。息を呑むような美しさだった。けど、まるで「覗いている」ような感覚になるのは、現在地がそれだけ高い場所にあるってことで……。



「……何階だよ、ここ」



 窓から下を見ても、夜の時間帯のせいもあってか地面がハッキリと見えない。ヘルムバラドで取った宿と同じ、もしくはあれ以上の高さだ。さすがに雲の上だって飛べるヴァールハイトには遠く及ばないけど。



「……ここが帝都か。まんまと連れてこられちまったってわけね……」



 窓に額を預けて、腹の底から深いため息を洩らす。考えられる可能性はそれしかない。

 マリーたちは無事だろうか、ちゃんとみんなと合流できてるといいんだけど……サクラとディーアも、……無事だといい。アフティとエルは仲直りできたかな。


 世界がこうして存在してるってことは、ヴァージャは無事だ。ちゃんと生きてる。博士はさすがに駄目だろうけど……。


 思い出したくない光景が脳裏に鮮明に浮かんで、慌てて頭を振ることで追い出す。深く考えると吐いてしまいそうだ。



「――いけません、考え直してください!」

「しつこい女だ、俺の決定に異を唱えるというのか?」



 そんな時、不意に部屋の外から声が聞こえてきた。反射的にそちらを見てみれば、暗い色をした扉がひとつ。どうやら、その言い合いは隣の部屋で行われているようだった。片方は、さっき寝ぼけながら聞いた女の人の声で、もう片方は……皇帝の声。

 程なくして、閉ざされていた扉が開かれたかと思いきや、その皇帝が無遠慮に入ってきた。その周囲には、目を背けたくなるような黒い霧がいくつもの人の顔を形成して浮遊している。



「(あれは……!? そうか、錫の剣を手放したから……)」



 いつだったか、錫の剣を持たずに外に出ようとした時にも似たものを見た。あれを手放したことで、ヴァージャ曰く「よくないもの」が寄り着くようになったんだろう。……ただ、オレに寄ってくるんじゃなくて皇帝に夢中みたいだけど。見えるってことがバレたらこっちに照準を変えるかもしれない、目合わせないようにしとこう。



「類稀な才を持つこのグレイスの力さえ手に入れれば、俺に敵う者など誰もいなくなるのだ。何を我慢する必要がある? ……おお、ちょうど目を覚ましていたか」

「陛下……っ!」



 皇帝の後ろには、亜麻色の長い髪を持つとんでもない美女が一人。声の出どころはこの人のようだ。彼女は皇帝の肩越しにオレの姿を見るや否や、表情を曇らせて静かに顔を背けてしまった。皇帝は彼女に構うことなくズンズンとオレの目の前まで歩いてくると、そのまま後方にある窓に両手をついて軽く上体を屈めてきた。目線の高さを合わせるみたいに。


 顔の横には両手が置かれてるし、互いの息がかかるほどの至近距離から逃げることもできやしない。皇帝はちらと後方を振り返り、ひとつ「ふん」と鼻を鳴らして笑う。



「そこで見ていろ、ユーディット。俺たちの陸み合いをな」



 ……ユー、ディット? 睦み、合い……!?

 確かフィリアが言ってたぞ、ユーディットって皇帝の奥さんじゃないか!

 じゃあなんだ、この男はあんなにとびっきりの美人な奥さんの目の前で野郎を抱こうとしてるってのか!? さ、最低だ! 最低が過ぎる! ティラよりひどい!



「ふっざけんじゃねえ!」



 そう思うと、身体が勝手に動いていた。この状態でできそうな反抗と言えば、頭突きくらいしかない。ちょうどこちらに向き直ろうとした皇帝の鼻っ柱目掛けて頭突きをひとつぶつけてやれば、その口からは苦悶が洩れた。オレだって痛いけど、彼女の心の痛みはきっとこんなもんじゃない。

 けど、その一撃は反抗よりも皇帝の気分を昂揚させる要因にしかならなかったらしく――皇帝は、その顔に楽しそうな笑みを浮かべた。



「くくく……そうだ、従順な者を手籠めにしたところで興が乗らん、やはりそのように反抗的な者でなくてはな。期待通りの反応で嬉しいぞ」



 皇帝は文字通り楽しげに呟くと、問答無用にオレの服の襟を掴む。そのまま引き下げるように手を下に動かせば、衣服はまるで紙切れのように簡単に引き裂かれてしまった。思わずぎくりと身が強張る。ヴァージャとだって、まだ何もしたことないのに――!



「ぐぅッ!?」



 再び皇帝の手が伸びてきた矢先、その手がオレの肌に触れる前にばちりと音を立てて何かに弾かれた。それにはさしもの皇帝も瞠目し、弾かれた手を逆手で押さえながら数歩ほど後退する。



「そ、れは……なるほどな、神竜の紋章か。確か文献には、縄張りであることの証や所有の印として神が刻むものとあったが……」

「しん、りゅうの……紋章……?」



 視線を胸部の辺りに下ろしてみると、肌には確かに紋章のようなものが刻まれていた。角度的にどんな形をしてるかはよく見えないけど……こんなもん、いつの間に。今までなかったぞ。あったなら着替えとか風呂の時に気づいてただろうし。

 皇帝が改めて手を伸ばしてくるけど、胸部に刻まれた紋章はそれに反応して力強く輝き、再びその手を弾き返した。



「……ふふ、そうか。貴様を我が物とするには、やはりあの神を仕留めねばならぬようだな」



 すると、皇帝は一人納得したように呟いたかと思いきや、外套を翻して早々に踵を返す。そうして、美人の奥さんに一言もかけることなく荒々しく部屋を出て行った。


 ……おい、おい待て。取り敢えず貞操の危機は去ったみたいだけど、奥さんと二人きりは困る。彼女にしてみれば、オレは夫を奪う恋敵になるんじゃないのか。冗談じゃない。

 恐る恐るそちらを見てみれば、彼女はジッとこちらを凝視していた。

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