決戦前夜
太陽が岩山の向こう側へと沈み、辺りが夕闇に包まれる頃。サンセール殿が手綱を握る馬車は、アインガングからやや南東に位置する帝都に向けて出立することとなった。サクラとディーアには疲労の色が見受けられるが、皇帝に時間を与えるわけにはいかないというサンセール殿とグリモアの判断だ。
……確かに、皇帝に時間を与えると厄介なことになるだろう。既にどれほどの騎士が動いていることか。帝都周辺には、部隊が展開していると考えた方がいいかもしれない。
その中で懸念しているのは――
「姉さん、落ち着いた?」
「え、ええ……」
この馬車に、救出されたばかりのエルの姉――アフティが同行していることだ。共に救助されたマリーたちはアインガングに残ったが、このアフティだけは同行するのだと言って譲らなかった。
ただでさえ身体の弱い彼女は、私と同じく馬車の揺れにも弱いらしい。普段よりも遥かに具合の悪そうな青い顔をしている。彼女の隣に座るエルは、そんな姉の背を優しく擦りながら頻りに声をかけていた。エルがいいのなら構わないと同行を許可したが、これならば彼女の心身を思って却下する方が優しさだったかもしれない。
サクラはアフティに水を差し出しながら、幾分か呆れたように目を細める。
「はい、これでも飲んで。……でも、いったいどうしたの? 私たちに同行したいだなんて……」
「……リーヴェさんは、私たちを逃がすために敢えて囮になったんです。私にはあの人ほどの力はありませんが、せめてみなさんが城に入るまでは……」
初めて彼女を見た時は、思わず目を背けたくなるほどの重苦しい憎悪を放っていたものだが、今の彼女から感じられるものは純粋な――協力の意志だった。
天才の弟に対する憎悪や憤りは完全に鳴りを潜めている。若干の気まずさは残るようだが、この分ならばもう問題はないだろう。彼女の力は今やカースではなく、完全にグレイスに変化している。本人が口にするようにリーヴェほどの力はなくとも、充分な力になってくれるはずだ、……特にエルにとって。
……この光景も、やはりリーヴェに見せてやりたい。フィリアのことも、エルのことも、いつも誰より気にかけていたのはあの男だ。
「ヴァージャ様、今度は城が崩れることを気にしたりしないでいいからね」
遠くなっていくアインガングの明かりを馬車の後部から眺めていると、向かい合うようにして座っていたグリモアが静かに声をかけてきた。ランタンの明かりしかない暗がりの中で、グリモアはふっと薄く笑う。
「ヴァージャ様やラピスのみんなは、皇帝を倒すことが第一だ。周りへの被害は僕が何とかするから、皇帝と……あとはリーヴェのことにだけ専念して。途中でリーヴェと合流できたら一番いいんだけどね」
王城に潜入したら、二手に分かれることになっている。
ヘール殿が大体の城の造りを教えてくれたため、私たちは城の西側から――三階にあるという謁見の間を目指すことになっている。道中、グレイスたちを収容する部屋もいくつかあるらしく、その部屋を確認しながら。
グリモアは東側から上へと向かうが、サンセール殿やヘール殿をはじめ、他にゼルプストの面々が同行する。
グレイスたちを収容する場所は全部で七箇所。東西の途中に三箇所ずつ存在し、残るひとつは謁見の間の更に奥、最上階にほど近い場所にあるという。皇帝が特に気に入った者をここに置くというが……もしリーヴェがこの場所にいるのなら、皇帝と戦う前に合流するのは難しいだろう。……もっとも、あのリーヴェが大人しく助けを待つとは思えないが。
「何とかする、か……わかった。では、城の方はお前に任せよう。皇帝に集中できるのなら有難い」
「ヴァージャ様は色々なことに気を向けすぎる、……想い人を助けに行く時くらい、その人のことにだけ集中したっていいんだよ。もっとこう……」
「お前の知る神のようになれ、と?」
奴の言わんとすることを何となく察して言葉を向けると、珍しく紅の双眸を丸くさせて驚いたような顔をした。いつも揶揄されることの多い身としては、この男にこういう顔をさせられたことは何とも気分がいい。しかし、グリモアはすぐに苦虫を噛み潰したような表情をしたかと思えば、深いため息を吐いて項垂れた。
「……ヴァージャ様って、もしかして僕のこと全部知ってたりするの?」
「さあな」
「はは……怖いなぁ……」
か細く呟くグリモアの声には、いつもの調子がまったく出ていなかった。その言葉通り、まるで何かを怖がるような。
人造人間は、生命の循環から外れた
「(……まあいい、答え合わせは全てが終わってからだ)」
馬車の後部から、改めて外を見遣る。空は未だ深い色に覆われていて、夜明けはまだ少しばかり先になりそうだ。
星が散る夜空に視線を投じ、遠く離れた眷属へと言葉もなく呼びかけた。
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