気晴らしは深夜の散歩
低い背丈じゃ、部屋の中にいても見えるものは限られていて。うんと背伸びをしても小さなその窓から満足に外を見ることもできなかった。朧気に覚えているのは、薄暗い船室の中で呟くように謝罪を繰り返す、女の震える声。
『……ごめんね、リーヴェ。ごめんね……』
閉じられた扉と窓のせいで、波の音はどこか遠くに聞こえた。
『ごめんなさいね、リーヴェ……母さん、どうしても……』
――やめてくれ、聞きたくない。こっちはもう綺麗に忘れ去りたいんだ。
『どうしても、諦めきれないの……次の機会に恵まれたら、その時こそきっと……』
勝手にすればいいだろ、オレには何ひとつ関係ないんだ。もうやめてくれ。あんたが何を思ってどうしようと関係ない、好きすればいいだろ。
――延々と繰り返される女の謝罪に、思わず怒声を上げかけたところで不意に夢から覚めた。明かりの落ちた寝室内は静まり返っていて、窓から射し込む月明かりくらいしか視覚的に頼れるものがない。のろのろと寝台の上に身を起こすと、フクロウらしき鳴き声が遠くから聞こえてくる。近くを流れる川の音が、苛立った心をじわじわと癒してくれるような気がした。
「(……久しぶりに見たな、あの夢)」
身体は確かに疲れているはずなのに、頭と目が冴えてしまって仕方がない。このまま寝台に転がり直しても眠れるとは思えなかった。隣の寝台を見れば、ヴァージャが規則正しい寝息を洩らして眠っている。……最近は調子もよさそうだし、遠くまで行きさえしなければ大丈夫だろう、ボルデの街でも離れたけど特に問題なさそうだったしな。
ヴァージャを起こさないようにそっと寝室を後にすると、残り二つの寝室の中も刺激しないよう静かに階下に降りた。階段もあるし一階と二階に分かれてるし、神さまの家って言うより、ごく普通の一軒家だよなぁ。
「……?」
なんとなくリビングの大窓の方に目を向けると、淡い光を纏う蝶のようなものが見えた。一度こそ魔物か何かかと思ったけど、この家と周辺には魔物除けの結界が張られてるってヴァージャが言ってたし、多分魔物では……ないんだろう。魔物じゃなかったら、なんだあれ。
少しばかり考え込んでから、外に出てみることにした。玄関を開けて庭の方を見遣ると、蝶は夜の闇の中をふわふわと気持ちよさそうに飛んでいて、ホタルか何かのようだ。淡く輝く粒子をまき散らして飛ぶ様はひどく幻想的で、月の光を反射する川の存在も相俟ってどこか別世界にでも迷い込んだような錯覚を受ける。
蝶から洩れる光の粒子が別の蝶の形になり、次々に増えていく。夜の闇の中に瞬くそれらは、まるで目の前に星空が広がっているようだった。
誘われるようにふらりと足を踏み出そうとしたところで――不意に強い力で後ろに引っ張られた。慌てて振り返ってみると、そこにいたのはヴァージャだった。後ろからオレの腹前に片腕を回し、思い切り引っ張り寄せたようだ。
「ヴァ……っ」
「
ヴァージャはそれだけを言うと、煌々と双眸を輝かせて蝶の群れを睨みつけた。すると、星空のような幻想的な光景を創り出していた光の蝶たちがパン、パンと破裂音を上げて次々に散っていく。その矢先、夜の闇にも負けないほどの真っ黒い靄となって、それらの靄は次第に骸骨の姿を形成する。程なくして、それは地鳴りのようなうめき声を上げながら、空気に溶けて消滅した。
今見たものが信じられなくて、正体すらわからなくて固まっていると、背中側でヴァージャがそっと安堵を洩らすのがわかった。
「…………なに、今の……」
「ほら、忘れものだ」
そう言ってヴァージャが手渡してきたのは、いつも腰の裏に据え付けている例の御守り――錫の剣だった。……もしかして今の、
「連中は生者を死に
「ひえ……」
……じゃあ、今の綺麗な蝶たちも星空みたいな光景も全部、ヴァージャが以前言ってた“目に見えない悪霊”だったっていう……。
確かに、見るからにおどろおどろしいものより、綺麗なものの方が警戒心もなくフラフラ近寄っちまうもんな。今のオレみたいに。
ヴァージャは錫の剣を渡すと、そのまま傍を離れて川の方へと足を向けた。
「リーヴェ、眠れないのなら少し付き合え」
「……どっか行くの?」
「散歩だ」
散歩って、こいつさっきまで気持ちよく寝てたじゃん。それを起こしちまったんだろうけど。
「(……あ)」
それをなんでわざわざ散歩になんて、と思ったけど、オレだってそこまで鈍くない。……自分が眠れないフリして、オレの気晴らしに付き合ってやろうって魂胆か。変な気遣いやがって。
……って言っても、このまま寝室に戻っても眠れる気はしないからな。疲れてるだろうヴァージャを付き合わせるのも悪い気がするけど、今はその気遣いに甘えておくことにした。
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