幕間

忘れ去られた逸話

 リーヴェの傍に付き添っていた子供たちが泣き疲れて眠りにつき、ほんの数刻。ミトラと共に彼らを寝床まで運んだ。発展途上にある身体はひどくか細く、頼りない。人間というものが脆い生き物であることを改めて教えてくれた。


 子供たちの顔は、泣き腫らしてすっかり真っ赤になっている。夜の薄闇の中でもそれはハッキリと窺えた。マックという男に背中を斬られたリーヴェのことが余程心配なのだろう。無理もない、今のリーヴェは傷こそ既に癒えているが、血液が足りていないらしく顔色が悪い。



「……ヴァージャ様」



 寝所へと戻る道すがら、久しく耳にしていない呼び方を受けて思わず足を止めた。振り返ってみると、そこには神妙な面持ちをしたミトラがいる。彼女の小脇には、今にもバラバラになってしまいそうな古びた本らしきものが抱えられていた。



「その本は……」

「見覚えがありますか? まだここが孤児院になる随分と前、この場所には教会があったそうです。この本は、その教会で大切にされていた聖書のようですね。私がここに捨てられた時に偶然見つけたものなんです」



 ミトラはそう呟くと、渡り廊下の窓に向き直ってガラス越しに夜空を仰ぎ見た。その横顔は何となく儚げで、リーヴェが彼女のことを心配するのもわかる気がする。目を離すと今にも消えてしまいそうだ。



「リーヴェが初めてあなたを連れてきた時、神さまと同じ名前の人と友達になるなんてすごいなぁ、って驚きました。……でも、違ったんですね。あなたは神さまと同名なのではなくて、この聖書で語られている神さまご本人……」

「……」

「先ほどの領地戦争の様子を見て、確信しました。あのマックが手も足も出ない相手なんて、そうはいませんもの」



 あのマックという威勢のいい男は、今の世では天才ゲニーと呼ばれる特別な存在……だったか。才能を無駄にしている頓馬とんまにしか見えなかったが、人間の感覚というものはやはりよくわからない。あれが特別などと。


 しかし、どうすべきか。こうまで言い当てられてしまっては、下手な誤魔化しとて通用しないだろう。ミトラの中にあるそれらの記憶を消去することは容易いが、リーヴェと懇意にしている彼女なら事情を伝えれば理解を示してくれる気もする。


 暫しの逡巡の末、これまでの事情を伝えてみることにした。誰か一人でも知っていてくれる者がいれば、ブリュンヒルデを置いていくことにもそれほど心配はない。あれは普通の猫ではないのだから。



 * * *



「……そう、だったんですか。では、リーヴェや今の世の中で無能と呼ばれている人たちは……」

「ああ、誰もがそうした力を有している。そして、その力が今の私には必要なのだ」



 私がどのようにしてリーヴェと出会ったか、なぜ共にいるのか、それらを含めて彼女には私の事情の全てを伝えた。少々大雑把な部分もなかったとは言えないが。それに、旅に出るということも。


 私の話を黙って聞いていたミトラは、ややあってから詰めていた息を吐き出した。そんな彼女の心は、小石でも投げ込まれた水面のように波紋が広がっている。安堵と焦燥、嬉々と不安、両極端な感情の板挟みになっているようだった。


 何の力も持っていないとされる無能に力があることに、驚きと戸惑いを覚えているのだろう。リーヴェに力があってよかった、けれど――凡人である自分が置き去りにされたような不安。そんな己に対する自己嫌悪。



「……ミトラ。今の世で無能と呼ばれている者のほとんどは、自らの存在を否定し、極端なほどに卑屈になっている者ばかりだ」

「え? え、ええ……」

「リーヴェにも多少なりともそのきらいはあるが、あの子はそれよりも慈悲や慈愛に傾いている。それはひとえにお前の影響だ」



 そう告げてやると、ミトラは不思議そうに瞬きを打った。……彼女もリーヴェと同じだ、自らには何の力もなければ何者にもなれないと思い込んでいる。恐らく彼女だけでなく、この世界で凡人と呼ばれる者のほとんどがそうなのだろう。やはり、今のこの世界は歪んでいる。



「お前は他者のために尽力できる慈悲深さを持っている。リーヴェもこの孤児院の子供たちも、皆お前のその影響を受けて心優しい子に育っているのだ。お前がいなければ、お前がそういう性質でなければこうはならなかっただろう」

「……ヴァージャ様」



 もしもリーヴェがミトラと出会っていなければ、恐らく無能無能と蔑まれ続けたことで彼もまた、他の無能と呼ばれる者たち同様、自己否定の塊のような子に育っていたのだろう。この孤児院でミトラと出会い、彼女や孤児たちと共に過ごしてきたことで、自己否定よりも周りを大切にできる子になった。今回のように無茶をするのは考えものだが、その他者への思い遣りこそグレイスの能力を高める要素でもある。


 リーヴェが今のような性質でなければ、私の力の回復などできなかったはずだ。グレイスの能力で回復する以上に、力が失われていく速度の方が上回り、とうに世界はなくなっていたに違いない。それだけ、リーヴェのグレイスとしての能力は優れている。本人はやはりまったく気づいていないようだが。



「その慈悲深さこそ、お前の最も優れた点だ。……私は、お前たちのその慈悲と優しさに救われた」



 世辞でも何でもない、思ったままを伝えるとミトラは片手で口元を押さえて泣き崩れてしまった。その拍子に小脇に抱えられていた本がどさりと床に落ち、辛うじて本の形を保っていたそれがバラバラになった。ページが外れて床に散乱したが、今の彼女にそれを気にするだけの余裕はなさそうだ。



「わ、私……神さまなんかいない、いるわけない、いたとしてもロクでもないやつだわって思ってきたんです。目の前にいたら気が済むまでボコボコに殴ってやるのにって」

「そ……そうか」

「この聖書を見つけた時、毎日読んで、毎日必死に神さまにお祈りしました。苦しいです、寂しいです、つらいです、お助けくださいって。でも何も変わらなかった、神さまなんていないんだって思いました。大きくなってからもリーヴェや子供たちのように捨てられる子供は減らないし、増える一方だし、こんなに子供たちが苦しんでるのに見捨てる神さまなんてとんでもないやつだって」



 息をつく暇もないほど矢継ぎ早に告げられる言葉に圧倒されながら、ミトラの正面に屈み、余計な口を挟むことなくその話に耳を傾ける。恐らくそれは、彼女がどこにも吐き出せず内に溜めてきた本音なのだろう。



「でも……神さまにも事情があったんですね。私たちは見捨てられたわけじゃなかった、ちゃんと……優しい神さまがいた……」



 優しいかどうかと言われればそれは微妙なところだが、水を差すのも気が引ける。まるで幼子のように泣きじゃくるミトラの頭を宥めるようにそっと撫でた。



「……お前たちが堂々と生きられる世界をこれから創る、約束しよう」



 その世界が具体的にどういうものか、まだハッキリと見えてはこないが。

 少なくとも、リーヴェやミトラのような者たちが悲しい涙を流さずに済むような世界を創れたらと思う。それは私の使命だ。


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